日本の医学史に先鞭を付けた医史学者、富士川游
10月始めの金曜日、昨日までの暑さが嘘のよう、今日は空気が冷たく、風邪に用心しないとだ。それにしてもコロナ禍は去らず、定期検診を億劫にしている。先日、久しぶりに歯科医院にいったら状態が悪く「来なきゃダメでしょ」返す言葉もない。先生とは長~いおつきあい、「次はちゃんと来ます」。
ところで、少しは我慢できる痛みもあれば、辛い痛みもある。それこそ病の症状、種類は一様ではない。それに加えて現在のコロナ禍、昔もコレラなど悪疫の流行があった。そのどれにも診断と治療に当たる病院、医師が欠かせない。そうした医療、疾病について医学の歴史を纏めたのが、富士川游である。
富士川游『日本疾病史』を見ると、今なお悩ましい項目が並んでいる。折しもノーベル賞シーズン、医史学も対象になっているのだろうか。昨年に続き日本人受章はあるのか。ともあれ、富士川游の生涯を見てみたい。幸い『日本疾病史』に年譜がある。それを主な参考にして記してみる。
富士川 游 (ふじかわ ゆう)
1865慶応元年5月11日、広島県安佐郡安古市(やすふるいち)町長楽寺、藤川雪(すすぐ)とタネの長男に生まれる。幼名は充人(みつと)。
1872明治5年、藤川を富士川と改める。沼田小学校、翌年、に入学。
1879明治12年、広島市の開成舎から広島県立広島中学校に転学。翌年、京都に遊学し二条に住む。
1881明治14年、16歳。広島県広島医学校に入学。游と改名。
1887明治20年、県立広島医学校卒業。
上京して明治生命保険会社の保険医。中外医事新報社に入る。
1889明治22年、医師免許。松田堅道と「普通衛生雑誌」を創刊。
1890明治23年9月25日、腸チフスにかかり東大病院に入院。
用便中にコレラ菌発見、駒込病院に移され、10月12日退院。
1891明治24年、この頃から和漢の古医書を蒐集、医史学の研究に没頭する。
1892明治25年、『中外医事新報』を編集主宰しジャーナリストとして活躍。「緒方洪庵先生伝」を載せ医人伝連載。
10月、広島県安佐郡の医師・伊藤厚博の長女・カズ子と結婚。
1893明治26年、「医家先哲追薦会」を編集刊行。
1894明治27年、佐倉順天堂の佐藤家を訪れ、古医書を見て「蘭東事始」を発見する。
1895明治28年、呉秀三(精神病・医史学者)と医史社を興す。『日本産科叢書』刊行。
1898明治31年、4月、ドイツに留学。イェーナ大学医学部に入学、内科学とくに神経病学および理学的療法を学ぶ。
1899明治32年、34歳。3月、ライプチヒからベルリンそしてイェーナに戻る。
『日本眼科略史』著す。
1900明治33年、ベルギーからイギリスに渡り7月末、讃岐丸に乗船、9月帰国。
日本橋中州養生院内科医長となる。
1904明治37年、『日本医学史』著す。著者自身が内容を体系的に整理しなおし覆刻した『日本医学史綱要』2巻が東洋文庫にある。
『電気療法』吐鳳堂から出版。
1905明治38年、40歳。土肥慶蔵らと日本花柳病予防会を創立。
1907明治40年、癌研究会創立。史学会で「徳川家康の身体に就て」と題して講演。
『開国五十年史』(大隈重信編)に「医術の発達」(青山胤道共述)を載せる。
1908明治41年、ドイツの細菌学者ロベルト・コッホが世界旅行途中、日本に立ち寄る。
歓迎会開催、庶務委員となる。『細菌学雑誌』臨時増刊「ローベルト・コッホ歓迎記念号」を細菌学者・志賀潔と編集刊行。
1909明治42年、四男・英郎(ドイツ文学者)生まれる。
1911明治44年、ドレスデンの万国衛生博覧会に古医書を出品。『人性』など特異な性格の科学雑誌を創刊。
1912明治45年、『日本疾病史』著し、帝国学士院から恩賜賞を授与される。
―――(*松田道雄)『日本疾病史』は実際読んでみると急性伝染病史である。・・・・・医学史をかくために医者になる人間をみつけることがまず困難である。富士川游の集めた以上の古い医書を現在入手することは容易ではない。・・・・・十分に読む力をもった医者も、まずいない。そうなると、日本の古い記録や、むかしの中国や日本の医書を読み、かつおぼえて「日本疾病史」以上のものをつくることは、ちょっとできそうにもない・・・・・(『日本疾病史』解説)。
『日本疾病史』:疫病・痘瘡(天然痘)・水痘・麻疹(はしか)・風疹・虎列刺(コレラ)・流行性感冒(インフルエンザ)・腸窒扶斯(チョウチフス)・赤痢。そして、それぞれの病名・疫史・原因・証候・療法・載籍(事実を記載した書籍)・参考書籍についても記述。
松田道雄:昭和期の医師・評論家。「私は赤ちゃん」「私は二歳」などを発表。昭和期一般に広く知られ、自分も覚えている。
1913大正2年、48歳。『内科史』『看護療法』『小児伝染病史略』を著す。
花井卓蔵らと共に犯罪学協会を創立。
社会活動家として同志とともに日本児童研究会を創立、児童の精神・身体の状態を医学の見地から研究、大日本節酒会幹事としても活躍。
1914大正3年、『民俗』に「疫神について」、『図書館雑誌』に「浪花名医に著述」を掲載。
7月、文学博士の学位を受ける。
1915大正4年、『料理研究』に「料理の衛生」を連載、『民間薬』を著す。
1916大正5年、親鸞聖人讃仰会創立。宗教活動にも熱心であった。
?年、 本派本願寺派の社会事業の一つ広島修養院(異常児童収容施設)の指導にあたり、東洋大学の社会事業科創設にあたっては責任者として指導者の養成にあたった。重い胆石病に罹る。
1917大正6年、京都大学に古医書4347部8331冊を寄贈。胆石病再発する。
―――その内容は医事一般及び稀覯本も夥しい数に達している。・・・・・その大要を知るには、博士の大著「日本医学史」に掲載されている文献目録を見るよりほかはない。・・・・・凡ゆる方面の稀書珍籍が網羅されてゐる。どんな蒐集家が現はれても、この富士川文庫を基礎として参照しなければ、仕事は進められない。民間にあつて、独りこの大業を成し遂げられた博士の功績を讃へたい。・・・・・(『 毛髪と寿命』)。
1918大正7年、慶應義塾大学医学部の講師となり医史学を講義する。
広島修養院(広島県代用感化院)顧問となり毎年広島に赴き、数日間、感化院で寝起きした。
1921大正10年、『中央公論』に「男女の性的差異の上より見たる婦人開放問題」掲載。
1924大正13年、大阪に中山文化研究所創設、所長となる。
10月、京城で開催された朝鮮医学会で「日韓の医学的交渉」を講演する。
1927昭和2年、日本医史学会を設立。
児童問題にも学殖深く、さらに宗教団体を興すなどした。
1933昭和8年、義弟の医師・石井正人に勧めて、広島市外五日市町に精神療養所たる「養神館」を建てさせ、それを基として養神協会を設立。
1934昭和9年、東大安田講堂回廊において医史展覧会を開く。
1937昭和12年、『中江藤樹』『大和清九郎』『石田梅岩』『医術と宗教』ほか著す。
1940昭和15年11月6日、胆石症で逝去。享年75。
近親者で告別式を挙げ、11月18日東京築地本願寺にて知友門弟により追悼法要が営まれ、遺骨は広島県安佐郡安村の墓地に埋葬された。翌年から、『富士川游著述選』刊行されはじめる。
参考までに、国会図書館デジタルコレクションにて『日本医事年表』(1941医事公論社)ほかが読める。
参考: 『日本疾病史』富士川游2006平凡社 / 『民間学事典 人名編』1997三省堂 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『日本医学史綱要 1・2』富士川游、小川鼎三校注1974東洋文庫 / 『日本医史学雑誌 32(2)』(富士川游と広島・富士川英郎)1986日本医史学会 / 『 毛髪と寿命』式場隆三郎1938作品社
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