幕末・明治 最後の剣客、直心影流・榊原鍵吉
図書館がシステム更新で2週間余り休館。こういう時に限ってテーマが思い浮かばず、早めに参考資料を予約できなかった。しかたなく手持ちの積ん読をひっくり返すと、『鳥居耀蔵』(松岡英夫著)がでてきた。
鳥居耀蔵は、天保の改革の弾圧者、渡辺崋山らを死に追いやった蛮社の獄(1837天保6)の仕掛け人である。そんな人間の本がなぜあるのか思い出せないままページを繰り、気づけば座り込んで読んでいた。
それにしても、非道ともいえる人物を描ききった著者に感心するばかり。その執筆中、心が重かったのではないか。それとも、文学とは違う歴史の目で著術、成し遂げた感の方が強かったろうか。
ともあれ鳥居耀蔵は、丸亀藩に1845弘化2年監禁、蟄居の身となったが、幽囚23年を耐え、1973明治6年まで生きた。享年78。
明治初期、鳥居のような特異な境遇でなくも、刀を失った侍たちは困窮していた。
直心影流の達人、榊原鍵吉はそのような士族の生計を助けようとして撃剣興業を催し、また自分にきた推薦話を他人に譲っていた。その剣客の生涯をみてみたい。
なお、明治から昭和までの諸本に鍵吉・健吉がある。
―――腰がさびしい廃刀令、剣客も新商売(明治6・11・26 東京日日)
―――百石未満の家禄・賞典禄奉還者に資金(7・1・6 郵便報知)
―――榊原鍵吉、イタリア人に剣術披露(8.9.3東京日日)
―――士族の商売はあぶない(9・3・7 朝野)
―――廃刀令(9.3.29朝野)
「自今大礼服着用並びに軍人及び警察官吏等、制規ある服着用の節を除くの外、帯刀禁じられ候条・・・・・ ただし違犯の者はその刀取り上ぐべき事。明治九年三月二十八日」
―――人力車に乗ったら、車夫は若様(9・8・1 東京曙)
―――*千葉周作の新商売(9・4・24 東京曙)
このほど本所松倉町にて大きなる地面を買い入れ、泉水へ小舟を浮かべて御客に鯉を釣らせ、それをさしみやこくしょう(鯉こくなど)にして酒の肴とする趣向にて、去る二十日に開店になりました。
千葉周作:幕末の江戸で最大の規模を誇った、北辰一刀流の開祖。実弟の千葉定吉が開いた小千葉道場からは、坂本龍馬ら幕末に活躍した志士が数多く巣立った。
榊原 鍵吉 (さかきばら けんきち)
1830文政13年11月5日、幕臣小普請組肝煎(きもいり)榊原益太郎友直の長男に生まれる。家は小禄で裕福ではなかった。別号を杖山。
1843天保4年、13歳。勝海舟の従兄で直心影流の達人、男谷精一郎に入門。
健吉は身の丈抜群、柄も立派で天賦の才と稽古熱心と良き師を得、めきめき上達したが金がなく、切紙(免許状)を欲することなく黙っていた。すると師の男谷は「切り紙料もいらぬし、酒宴を張ることもない。私からその技倆への切紙だ」と免許を与えた。
1855安政2年、幕府*講武所師範に任命される。
講武所は三橋虎蔵、井上八郎ら錚々たる顔ぶれであった。徳川家茂の希望で、健吉は槍術師範・高橋伊勢守と御前試合を行った。
―――健吉は大胆にも大上段にかまえていた・・・・・ 相手は天下の名人、得物は有利な槍である。それに対して上段にふりかぶり、胸部を与えることは・・・・・ 伊勢守の面上に怒気に似た色がさっと流れた。
と見るより生き物のように繰り出された槍先は電光の素早さで健吉の胸部へ殺到した。魚鱗のひらめきを想わせるその槍さばき、だが、健吉の動作は鶺鴒(せきれい)のように速く、胡蝶のように軽かった。・・・・・ 一瞬、大兵な健吉の身体がさっと伊勢守の手元に付け入って。あまりにも鮮やかな面打ちであった・・・・・(『秘剣、豪剣、魔剣』)。
講武所:ペリー来航を機に旗本・御家人への武術の講習を目的に、築地に講武場(のち講武所)を設置。幕府軍制の身分制度に妨げられ、洋式軍隊編成・洋式訓練が不可能だった。
1858安政5年、徳川家茂、第14代将軍となる。
男谷の推挙により二ノ丸留守居格となり三百俵を得、家茂の親衛組に加えられる。鍵吉がはじめて将軍にまみえ、剣術の指南を命ぜられた時、家茂はまだ少年であった。飾り気のない鍵吉は家茂に気に入られ浜御殿で釣りをしたり可愛がられた。
1864元治元年、第一次長州戦争。
講武所生徒の刀槍隊も銃隊と共に扈従し鍵吉も師範役として京へ赴いた。
1866慶応2年6月、第二次長州戦争。
7月20日、家茂が大阪城中で病没、遺骸は江戸城に帰り芝増上寺に葬られた。
講武所は陸軍所と改められ洋式練兵場となる。鍵吉は勤めを退き、道場に専心する。
1868慶応4年/明治元年、4月、江戸無血開城、彰義隊はこれを不満とし上野戦争がおこる。鍵吉は上野寛永寺に駆けつけ、幕府方についた北白川宮(輪王寺宮・伏見宮)を、新政府軍の総攻撃による火中から救い出した。
9月、戊辰戦争。
幕府は瓦解、徳川宗家を継いだ家達は駿遠70万石(静岡藩)に封ぜられ、健吉は招かれて大番組頭となり静岡に移住。このときの幕臣たちの動揺と困難は非常なものであった。
1870明治3年、静岡から東京に戻り、道場を下谷車坂に開き剣術の指導に専心する。
勤皇、倒幕、攘夷、開港めまぐるしく変転する世を静かに見、剣理に生きることにしたのである。
1872明治5年、新政府の警補寮(警察事務を管掌)に雇用されていた武芸者がみな解雇されるなど、武術は衰退。
鍵吉は暮らしの助けになると撃剣会を組織、神田左衛門河岸に小屋を作った。
1873明治6年、官許を得て撃剣興行。
町人たちは滅多に見られなかった大試合が僅かの入場料で公開されると見物に押しかけ、すし詰めの盛況が毎日続いた。そこで都合37ヶ所で興行されたが結果は面白からずで、大損して夜逃げする者もあった。
そうなると、剣術を見世物にしたと鍵吉は非難されたが、鍵吉の剣のさえは本物であった。
1875明治8年、イタリア人に剣術披露
―――イタリア・アウスタリア両国の軍艦が停泊中、下谷車坂町の榊原鍵吉先生の宅へ公使館付属のヘンリーという者より・・・・・ 先生並びに御門人三名ばかり、目黒行人坂の元松平主殿屋鋪へお出で下され、その節は例の源氏車を染めたる幕と稽古道具をご持参くだされるよう相願う・・・・・ その日、先生を始め門人達が交わる交わる試合をして見せたれば、外国人は手を打って称美・・・・・ ついては御門人がたを毎日一人ずつ御遣わし下されたし・・・・・ 横浜の写真師へ頼み、榊原の子弟が着座せし所と剣術を使う体をも写し取らせたり。・・・・・(8.9.3東京日日)。
1876明治9年、廃刀令。
江戸中の道場に閑古鳥がなくも、榊原道場だけは竹刀の音が絶えなかった。
1877明治10年、上野の彰義隊戦争のとき助けた北白川宮(輪王寺宮・伏見宮)に招かれる。その節、望みを聞かれたが、鍵吉は何も望まなかった。
1878明治11年8月、警視局(警視庁)の剣術大会。
明治天皇の上野行幸。健吉は剣術大会に招かれて大会を指揮、審判として出場した。
1887明治20年11月、兜割り
――― 十一月十一日、伏見宮(北白川宮)殿下のお屋敷へ、陛下が行幸遊ばされ、一代の剣客、ことごとく集まって、明珍の南蛮鉄桃形の兜を斬ることになった。・・・・・ 誰一人斬ることの出来なかった後、榊原は、*胴田貫業次(どうたぬきなりつぐ)の一刀をもって進み出て、物の見事に、三寸五分を斬り下げた。・・・・・ 流石に榊原だと、剣客第一の定評は、ますます高くなった。・・・・・(『日本剣豪列伝』)。
胴田貫:同田貫(『近世剣客伝』)。
―――至難の据え物斬りを可能とした手の内は、撃剣で上段打ちを根本とする直心影流の長い歴史の中で培われたスキルの賜物といえるだろう(『古武術・剣術がわかる事典』)。
1894明治27年、日清戦争。北白川宮出陣。
日本軍が平壌に進みつつあるとき、鍵吉は病床で戦況を気遣っていたが、脚気衝心で9月11日死去。享年64。
―――鍵吉は老いても意気盛んで、毎日未明に起き、冷水浴を励行して、自ら冷水翁と名乗り・・・・・酒は底なしといわれるほど飲んだが、風流気もあツて、拙いながら歌も詠み、酔ツて興に乗じると、踊の一手も見せるなど、決して無骨一片でなく、なかなか洒落たところもあツて、殊に頓知頓才に富んでいた。(『近世剣客伝』)。
亡くなるまで髷をとらなかったという。国会図書館「近代日本人の肖像」に肖像あり。
墓は東京新宿区四谷の西応寺、史跡となっている。
参考: 『明治日本発掘』1994河出書房新社 / 『近世剣客伝.続』本山荻舟1923報知新聞社 / 『古武術・剣術がわかる事典』牧秀彦2005技術評論社 / 『近代日本総合年表』1968岩波書店 / 『秘剣、豪剣、魔剣』池波正太郎1990新潮社 / 『東京市史稿.市街編』 / 『明治百傑伝』干河岸貫一 編1902青木嵩山堂 / 『日本剣豪列伝』*直木三十五1986河出文庫 / 国会図書館デジタルコレクション
けやきのブログⅡ 2012.12.22<ある早稲田つながり、北門義塾・内ヶ崎作三郎・直木三十五②-1>
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