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2022年11月12日 (土)

明治の大衆に大人気、撥鬢(はつびん)小説、村上浪六

 令和4年11月8日夜、皆既月食+天王星食。
 満月が地球の影に完全に隠れる皆既月食、月に天王星が隠れる天王星食という珍しい天体ショーがあった。442年振りの月食は楽しんだが、天王星食は分からなかった。
 442年昔は戦国時代、秀吉や信長たち英雄豪傑はどの戦野で眺めたろう。といっても見たかどうかも判らない。それより近い昔の明治、粋な場所で月を眺めた人気作家・村上浪六を見てみよう。

 ―――幕府の頃の向島小梅は、意気な隠れ場所でしたが、今の墨田公園が水戸様のお屋敷跡で、あれから土堤、三囲言問、白鬚とかけて・・・・・片方が隅田川で、片方が土堤下の田甫つづきに、森や別荘や寮などがあって、何ともいえないよい眺め・・・・・向島に住んでいると、寿命が延びると言いした・・・・・白鬚手前に、遊園の[小松島]というのが開園され、賑やかなものでした・・・・・浪六さんも向島で、浪六売出しの俠客小説から思い付いたのでしょう、自分で[浪六茶屋]を、花の土堤へこしらえ、浪六さんが元禄の俠客扮装(すがた)で、お茶を汲んで出したのが、その歳の花見の大評判でした・・・・・(『女百話』篠田鉱造)。

 村上浪六の名は聞いているが読んだことなく、筑摩書房『明治歴史文学集(一)村上浪六・大倉桃郎・塚原渋柿園』を借りてきた。
 新聞連載の通俗小説、すぐ読めると思ったが昔の文章にすぐ入り込めなかった。そこで解説、浪六の三男・村上信彦<虚像と実像・村上浪六>を先に読み、否定的な浪六の実像を突きつけられた。
 物語を読むとき、格好いい主人公に作者を重ねがちだが、息子からみた父・浪六は大違い。家族の語ることは事実かも知れないが、否定的で激しい。あえて引用しなかった。
 浪六の作品は国立国会図書館デジタルコレクションにて、処女作『奴の小万』をはじめ何冊もある『村上浪六全集』など多くの作品が読める。中には挿絵つきのもあり、楽しめる。
 年譜は主に『現代日本文学大事典』(福田清人)<村上浪六>の項を参照させてもらった。

     村上 浪六    (むらかみ なみろく)
 
 1865慶応元年11月1日、泉州堺(大阪府)で生まれる。
   本名・信(まこと)。幼名・亀太郎。別号・ちねの浦浪六。
 1868明治元年、3歳で父死去。母は*女紅場で裁縫・礼法を教え貧窮のなか浪六を育てた。
   女紅場(にょこうば):京都府勧業課が開設。裁縫・機織・手芸・染色など教え、大阪・兵庫などにも設立、細民対象の初等教育機関として機能した。

 1873明治6年、錦小学校入学、かたわら錨円意の漢学塾に通う。あまりに乱暴なため堺6校のうち5校まで転学させられたが、成績は常に1位だった。
   堺県(のち大阪府)県庁の薩摩人・中島健彦が浪六を認め、同郷の県令・税所篤に推挙。浪六は税所の家で育てられ、豪放な税所の感化を受けた。
 1881明治14年、税所が*元老院議官となったので同行して上京する。
   東京では工部大輔・吉井友実(のち枢密顧問官)の家に寄食。そこで明治維新で活躍し高官になった人々に接した。風雲はすでに去っているのに浪六は将来を楽観、勉学を怠った。

   元老院:立法諮問機関。憲法起草にあたり明治13年「日本国憲按」を起草するが、岩倉具視らの反対により不採択。明治23年、帝国議会開設により廃止。

 1883明治16年、岡山県令・高崎五六に伴われ、同地の警察傭、事実は御用掛で特別待遇を受けたが、官途に疑問を感じる。
 1884明治17年、上京。農商務省入りするも間もなく辞して大阪へ。
   一攫千金の投機に成功。瀬戸内海の孤島に君臨する友人のもとで遊んだのち、京都に行き、花街の女と親しむ。
 1886明治19年、三度目の上京。農商務省の写字生(公文書を写すなど)となるも、重い脚気のため帰郷。
 1887明治20年、3人の友人と寺院の墓守が住んだ茅屋で共同生活し読書に励む。のちの『当世五人男』のモデル、また舞台を東京隅田川のほとりにかえた。
 1888明治21年、呉・下関を放浪、大阪に戻る。
   *横井也有『鶉衣』を読み、また日蓮上人の親孝行をすすめた一章に自己を責める。
   堺出身の実業家・鳥井駒吉から旅費を得て、朝鮮視察に赴こうとして途中、金を失って中止。
   上京して木賃宿で手紙の代書などして明治23年9月まで生活。

   横井也有(やゆう):江戸、中・後期の俳人。家禄千石。武道に優れ、詩歌・狂歌・書画・謡曲いずれも堂に入った器用人。ことに俳文・俳諧にすぐれ俳文集『鶉衣』は著名。

 1889明治22年正月9日、
  ―――下宿屋の主人を呼び、・・・・・四十何日か分の下宿代の方に外套一枚を提供して、大胆に談じ込んだ。「ずゐぶん長らくご厄介になつた。この上御迷惑をかけてはすまないから、ここで一先づお暇をしようと思ふ。ついては宿料の十三円なにがしは借用証書として、この外套は先払いの利息の方にとつておいて貰ひたい」・・・・・この下宿は前に二度ほど世話になつた顔なじみなので、主人は大いに同情・・・・・引きとめられたが、無理に借用証書一通を残し去つた・・・・・後日、金が出来たとき証書を買ひ戻さうとしたが、・・・・・他の事業に失敗して、行衛がわからなかつた・・・・・(『貧乏を征服した人々』)。

 1890明治23年10月、報知新聞社、編集長・森田思軒に拾われ校正係となる。
 1891明治24年、報知新聞・日曜附録に「報知叢話」をつけることになり思軒に小説を書くことを勧められる。
   歴史の趣味はあったが、小説は校正係となって新刊雑誌や新しい作家の作を読んだ程度だが、軽い気持ちで引受けた。その処女作[三日月]が好評を博した。故郷の堺にちなみ、「ちぬの浦」それに語呂を合わせ「浪六」とした。
 人気作家となるも作家として立つ気はなく、年末に報知新聞社を辞めて堺に帰る。

   4月~6月『三日月』を『報知叢話』に連載。7月、春陽堂刊。
 ―――この作は<いわゆる彼の町奴、六法むき、男伊達などいえる者の一生を見るに、その野卑にして且つ愚なること殆ど児戯に似たれども、人に骨なく膓(はらわた)は魚河岸ににのみある今の世に、豈に半文の値なからんや>との気落ちで、小僧の折、武士のために傷痕をつけられた次郎吉の侠気の生涯を描いたもの・・・・・硯友社風の恋愛写実小説にようやく倦んだ大衆に対し、伝奇性があり・・・・・任侠の人物を描いたことは、たしかに新しい面であって<撥鬢(ばつびん)小説>の名が与えられた(福田清人『現代日本文学大事典』)。

   撥鬢(はつびん)小説:町奴を主人公にしてその仁侠をたたえた大衆小説の呼称。撥鬢は町奴の頭髪の形状にちなむ。日清戦争前後の高揚した国民精神にはロマンを求める読者心理があった。主人公の武士への仁侠的な生き方が、なお時代の圧迫感のなかにあった庶民の共感をそそった(同上)。

 1892明治25年、 母を喜ばせるため、『奴の小万』を書き春陽堂から出版。
   朝日新聞社から迎えられ、改めて小説家たるべしとて第一作、「鬼奴」を無名氏として掲げ、次作から浪六を用いた。
 <撥鬢小説>と呼ばれる通俗小説は、その男性的心意気と旧道徳観が人気を得た。明治29年まで朝日新聞社員。
   朝日入社で生活も安定し、故郷から母を迎えることができた。以後、多くの作品を書き続け、大衆作家として長く人気を博す。
  ―――浪六は思いがけなく作家の道にはいったことで、終生それに満足できないようで、ひとつにはその性格から投機的な事業をいろいろ試みて多く失敗している。作家との交遊関係も少なく、尾崎紅葉・幸田露伴・江見水蔭その他一、二人しかなかった。その紅葉に会った折、一回の小説にも夜を徹する推敲の話を聞き、浪六は小説ぐらいに人間大切の脳を絞ってたまるか、一気呵成にくしゃくしゃ書きたくるべしと答え、紅葉からその大胆無鉄砲を笑われたという・・・・・ 登場人物の類型性や、世俗的な人生観を折まぜた会話など、その作品の特徴で、近代大衆小説の源流のひとつとともなっている(福田清人)

 1894明治27年、日清戦争。
   12月、『征清軍記』村上信著・青木嵩山堂
 1899明治32年、みずから社長として『太平新聞』創刊したが、一年余で廃刊。
 1900明治33年~1902明治35年、大阪朝日新聞に「浪華名物男」ほか数編掲載。
 1904明治37年、日露戦争。戦後、国民新聞に関係。
   4月、『日露戦争仁川旅順の巻』出版者・村上信(本名)。
 1907明治40年、『当世女』前後編とも青木嵩山堂。

 1914大正3年、満49歳。本名の村上信で『我五十年』出版。
   国会図書館デジタルコレクションで読める。歴史好きには小説よりこちらの方が興味深そう。
 1916大正5年、『人生の旅行』浪六・明文館書店。
 1921大正10年、美文評解叢書『浪六漱石傑作文集』編者・菊池暁汀、綱島書店。
   文学者・夏目漱石と大衆文芸の村上浪六を同列にしているところが興味深い。
 1926大正15年、『浪六全集.9編』(人間学)
 1944昭和19年12月1日、死去。享年79。

   参考:『明治歴史文学集(一)』1983筑摩書房 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『貧乏を征服した人々』帆刈芳之助1939泰文館 / 『日本人名辞典』1993三省堂 

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