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2022年11月 5日 (土)

幕末・明治の風俗研究家、新聞記者、篠田鉱造

 秋晴れ。澄んだ青空がうれしい。気分よく庭先でぼーっとしていたら、通りかかった人が「変なおばさん」という顔でこっちを見たけど、そうかもしれない。
 さて、せっかくの上天気、障子張りでもしよう。孫たちが幼い頃、障子を洗う前に障子を破かせると喜んだが、今はお小遣い付きでも来ない。そんなこと思いながら障子を8枚、洗って乾かした。
 そうして、かねて用意の障子紙2巻で張り始めると、窓3枚分紙が足りない。え~、いつも余るのに。値上げが激しいこの頃だけど、こういうのは困る。仕方なく以前の余りを引っぱりだして張った。
 仕上がった障子をそれぞれ元に戻すと、紙質の違いは目立たず部屋が明るくなった。
 そういえば、江戸の昔はお屋敷にも長屋にも障子があった。
 そこに住む様々な人びとの実歴談を聞き書き、纏めた人がいる。新聞記者の篠田鉱造である。
 内容は、町人など庶民から士族、辻斬り、安政の大地震、上野戦争実歴談などなど巾広い。話し手の口調そのままに書かれており、読むと引き込まれる。
 俳句も得意で胡蝶庵という俳号があるが、俳句に関する資料は見つけられなかった。

 その著述は、語り口そのままで臨場感がある。読むと怖くなったり面白かったり、その場に居合わせた気になる。交通も発達していない明治初期、そのうえ録音などとても無理な時代であったから多くの時間と労力を費やしたに違いない。
 その篠田鉱造を各種の辞典で探したが見当たらない。どの分野にも属さないのかな。考えようによっては、どの分野にも渉る気がする。ともあれ『20世紀日本人名事典』には出ていた。
 なお、著作を収めた岩波文庫それぞれの解説が、篠田鉱造の人柄、仕事ぶりを知る上で大いに参考になった。

     篠田 鉱造
 
 1871明治4年12月6日、東京赤坂で生まれる。俳号・胡蝶庵。
   ――― 赤坂田町六丁目は、著者が十代から二十代まで住んだ土地で、モ一つ詳しく記すと、赤坂伝馬町で生まれ、胞衣(えな)をソコに埋め、氷川神社の氏子に育ち、一旦横浜に連れ彼、更に秋田県へ伴って行かれて遂にまた舞戻って、祖父祖母(じいばば)の質屋を営んでいた。コノ六町目へ、臀(しり)を落着けた訳です。コノ十代から二十代までの、この土地の馴染みは、山の手の井戸の、底深いもので、眼の底に、心の奥に変遷の絵巻物が巻収められてあって、時々繰り拡げられる、思出の滲む土地です。明治十五、六年から、二十三年へかけての模様、・・・・・山の手の光景が、忘れようとしても忘れられないのであります・・・・・以下略・・・・・(『明治百話』)。

 1887明治20年、16歳。下宿先の理髪店で接した庶民の浮き世話に興味を覚える。
 1888明治21年、紫煙散士の名で『書生之先導』鶴声堂から出版。
   挿絵入り・1号2号合冊、88頁。
 1894明治27年、日清戦争。
 1895明治28年、24歳。『報知新聞』入社。 *村井弦斎の指導を受けながら記者活動をする。
   村井弦斎:明治・大正期のジャーナリスト、作家。森田思軒の後任の編集長。

 1900明治33年、読者のための安信部を設ける。
 1902明治35年5月、胡蝶庵主人の名で『商界の奇傑』実業之日本社から出版。
   7月26日~、故老から聞き書きした幕末維新期の実話を集め、報知新聞に「夏夜物語」として連載。さらに「秋夜物語」として続ける。

 1904明治37年、日露戦争。
 1905明治38年、「夏夜物語」「秋夜物語」二つの物語を『幕末百話』として出版。
   ―――江戸末期の民衆の体験を、御殿女中や旗本、一般民衆などの口調そのままに記録したものだが、庶民史のさきがけとして成功している。本書は昭和初期の明治回顧ブームのさい、再刊されたが、これを機に『明治百話』・・・・・さらに戦時にかけて『銀座百話』・・・・・ほかの貴重な記録をのこした・・・・・(『民間学事典・人名編』)。

   ―――聞き書きは、興味にしたがって貴重な実話を渉猟することを旨としているが、その語り手を庶民から選ぶことにこだわった点は、当時としては異色であり、見識であった。・・・・・ 著名人をあえて避けるという方針に徹したのは鉱造だけである・・・・・これは尋常の熱意でえはない。滅び行くもの、記憶から失せるものを何としても活字にとどめたいという記録精神がなければ不可能なことである(紀田順一郎)。

   7月、『通俗小僧学問』実業之日本社。
    目次:(い)子供から小僧 (ろ)両親の教訓 (は)初奉公・・・・・(わ)酬(むく)ひは鉄拳  (ら)小僧と英語・・・・・(す)本編中の小僧諸君 (ん)西洋の小僧から。

 1918大正7年、シベリア出兵宣言。
 1929昭和4年、『幕末百話』の増補版『増補幕末百話』刊行。
    昭和初期の明治回顧ブームのさい、『幕末百話』を再刊したもの。  
 1930昭和5年、58歳。報知新聞、退社。

 1931昭和6年、『明治百話』
   ――― 聞き書きのおもしろさに目覚めた篠田がひきつづき、そのうち明治の話もわからなくなる、との使命感と意気込みで明治の末年頃から採取・・・・・ 興味にひかれるまま自在に書きつづった。蓋し、二十年近い努力のたまものであり、明治生活風俗史の紙碑といえよう。・・・・・(中略)・・・・・ 自由学園を作った羽仁もと子の運が開けたのは、報知新聞の記者になったからである。女性ジャーナリストの草分けとして彼女が頑張れたのは、村井弦斎、篠田鉱造ら机を並べた同僚の偏見のない処遇、当時の報知の自由な雰囲気にあったという。そのエピソードを知って心温まるものがあり、篠田鉱造はますます親しい存在になった(森まゆみ)。

 1932昭和7年、『幕末明治女百話』を発表。
 1934昭和9年、この頃から同人誌『明治文化』への執筆や講演活動を始める。
 1937昭和12年、盧溝橋事件。日中戦争おこる。
   『銀座百話』菅野博(篠田の息子・新聞記者)の序文
   ――― 父は今年67歳だが、見た所五十代にしか見えない程若い。・・・・・ 父の友人の博士が、父の身体を診察して、「この身体なら大丈夫九十九まで生きる」・・・・・旺盛な執筆活動をささえたものに、恵まれた健康体があった・・・・・ 明治研究会講演テーマは、「明治捕物百話」「明治警察百話」「明治発明百話」などで、戦局の逼迫をよそに趣味としての研究に没頭する・・・・・(紀田順一郎)。

 1941昭和16年、『銀座・築地物語絵巻』
 1943昭和18年、『明治開化奇談』『明治新聞奇談』貴重な記録をのこした。
 1944昭和19年、戦前最後の寄稿は『明治事物起原』著者の石井研堂への追悼文。
   ちなみに、篠田の作品は岩波文庫に何冊もある。当ブログにアクセスされる方々には興味深い話が盛りだくさんと思う。
 1945昭和20年8月14日、ポツダム宣言受諾。
   終戦後、『赤坂区史』編纂。 戦後も折々、健筆をふるう。

 1965昭和40年3月18日、死去。享年94。
   ――― 篠田鉱造は体系的な歴史をめざした人ではないが、聞き書きという手段によって庶民の目を通じた歴史を描こうとした。彼なくしては湮滅したしまったであろう史実も多い。その意味で、彼もまた*石井研堂と同じく、民間学者の列に加えられるべき資格があるといえよう(紀田順一郎)。
   けやきのブログⅡ2013.1.5<『明治事物起源』石井研堂(福島県郡山)>

  ――― *予(鶯塘)が兄事する胡蝶(篠田)は世間まれに見る君子人であり、典型的紳士で・・・・・ 敬老尚歯の年厚き・・・・・ 青春時から今日に至るまで彼は多く酒を嗜まず、色を漁せず・・・・・その趣味とするところは敬愛せる故老の口より時代の物語を傾聴すると、夫妻相携えて天下の勝を探らんとするにあった。・・・・・凡そ実験に基く話柄ほど人を動かすものはない・・・・・(中略)・・・・・実地踏査に当っても妻女の助けに待つところ甚だ多かった事はここにいうまでもない。彼はいう。この編ひとつに亡妻安具の賜物であると・・・・・(武田鶯塘)。
   武田鶯塘(おうとう):俳人・小説家。中外新報社で内藤鳴雪とともに俳句欄を担当。俳誌『南柯』を主宰し名を残した。

   参考: 『20世紀人名事典』2004日外アソシエーツ / 『民間学事典』1997三省堂 / 『幕末百話』(解説・武田鶯塘)岩波文庫 / 『明治百話』上下巻(解説・森まゆみ)岩波文庫 / 『女百話』上下巻(解説・紀田順一郎)岩波文庫 

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