軍人・政治家・谷干城、田螺(タニシ)百姓一揆の総大将を気取る
近所にケヤキの大木が三本、のびのび枝を広げている。欅はペンネームにするほど好きでも晩秋はちょっとね。家のぐるりは毎日落ち葉がいっぱい。掃き集め大きなビニール袋に詰めては「まったくもう」。とはいえ、のどかな文句が言える日常はありがたい。
コロナ禍は去らず、世界に目を向ればロシアのクリミヤ侵攻、北朝鮮のミサイルなど空恐ろしい状況が止まない。平和な日本でいいけど、この先も無事なのだろうか。不安がよぎるも自分は何も出来ないと言い訳、目をそらしている。
しかし、次の記事を読んで無関心はよくないと思った。
<毎日新聞2022.11.2オピニョン“記者の目”鈴木英生専門記者>
―――<韓国、台湾、沖縄が守る日本> なぜ、戦後日本は、戦争をせずに済んできたのか。・・・・・日本は、侵略された経験がほぼない。太平洋戦争後の米軍などによる占領は、比較的寛大だった。77年も戦争をしていないから、戦場の実感も乏しい・・・・・侵略されないのも、戦争の記憶が長く更新されないのも幸運だった。が、他者への想像力を欠いた平和で本当によいのか。・・・・・(中略)・・・・・
・・・・・ 韓国、台湾、沖縄が守る日本 ・・・・・南さん(南基正ソウル大教授)の用語で、日本は米軍に出撃拠点を提供する「基地国家」、北朝鮮と分断された韓国は、戦争が始まれば戦場となる「戦場国家」だ。台湾も同じ。そして、日本の米軍基地は沖縄県に集中する。・・・・・(中略)・・・・・ 政治への無関心と人任せの安全保障 ・・・・・
・・・・・私は、日本が「戦場国家」になってほしくない。徴兵制などと引き換えで民主主義が活性化すればよいとも思わない。だが、分断国家や基地が集中する地域に安全保障上の負担を肩代わりしてもらい、政治への無関心がまん延するこの国の平和が維持されてきたのは事実だ。いつか、この地域秩序は変わる日が来る。その前提で、私たちがなにをなすべきかを問い続けたい。
記事をすぐに紹介したかったが、次に続ける事項が思い浮かばず迷っていた。そして、明治の軍人・政治家、谷干城を選んだ。
谷干城は勇猛な指揮官として活躍した軍人の側面と、条約改正をめぐって農商務大臣を辞任、帝国議会の貴族院議員ながら藩閥政府と対峙、民力休養・農民保護、行政改革を唱えた政治家の側面がある。
谷 干城 (たに かんじょう/たてき)
1837天保8年2月、土佐高岡郡窪川村、土佐藩校教授・谷万七の家に生まれる。
初名・申太郎、通称・守部。号を隈山。父から漢学・武芸を学ぶ。
1856安政3年、江戸に遊学。安井息軒に入門。
1861文久元年、帰郷の途中、大阪で土佐藩尊攘派の武市瑞山らと会い、時事について教えられ尊攘派と接触。藩庁は尊攘派を弾圧、谷も高岡郡久礼浦の陣屋詰に左遷される。
1865慶応元年、高知に召還され、藩政改革に参与。
1866慶応2年、藩命で長崎・上海視察。時に後藤象二郎・坂本龍馬らと会し時事を語る。
1867慶応3年、山内容堂に従い京都に赴く。西郷隆盛・小松帯刀ら薩摩藩士、乾(板垣)退助らと京都で会談、薩土同盟について談じる。
11月15日、京都近江屋で坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺された時すぐ駆けつけたが間に合わなかった。
1868慶応4年/明治元年、鳥羽伏見の戦い。戊辰戦争に従軍。
12月、降伏して謹慎中の会津藩は、新政府軍も少年を切りはすまいと、山川健次郎(のち東大総長)・柴四朗(『佳人の奇遇』著者・衆議院議員)ら5人の少年密使を新政府軍本営に向かわせた。
少年らは陣地をさ迷よい土佐藩の陣営を見つけて投陣、総督本陣で主君の助命を嘆願した。このとき土佐陣営にいた谷干城は柴四朗の生涯の恩人となった。
1869明治2年、*徴士になる。帰郷後、藩政改革を指導。
徴士:諸藩士や一般人の有能な者を選任。明治維新当初の議事官。
1872明治5年、陸軍裁判所長。少将。翌年、熊本鎮台司令長官。
1874明治7年5月、台湾出兵。近代日本最初の海外派兵に従軍。
台湾漂着の琉球漁民を土着民が殺害した罪を問う出兵事件。日清和議成立後12月撤兵。
1877明治10年、西南戦争。
勇猛な指揮官として50日間にわたる熊本籠城戦に耐え勝利に導いた。
―――当時部下に対する交際は、玖満子夫人がその一切を行っていた。濠から鯉を漁って来た時は、之を何十にも切り分けて、部下の将校へ公平に配分した。牡丹餅を拵えた時には七輪がない、鍋がない、夫人は自ら塀や土手を越え、賊軍の目を忍び焼け残りの空き家へ入って、鍋や七輪を探してきて餅を拵えて部下に分配した。・・・・・将軍は危険であるから来てはならぬと命じてあったが、夫人は苦楽を共にするのは夫婦の義務であるとして、単身入城・・・・・(『谷干城遺稿』)。
1878明治11年、東部監軍部長。中将。
1879明治12年4月、琉球藩を廃止し沖縄県を置く。*東京学士会院となる。
東京学士会院:会長・福澤諭吉。定員40名。のち帝国学士院に改組。
1880明治13年6月、斯文学会を興す。
陸軍士官学校長(~明治16年)。
1881明治14年、監軍(軍令機関・陸軍の教育を統括)部長。
北海道官有物払下事件をきっかけに三浦梧楼・鳥尾小弥太らと国憲創立議会開設を建白し薩長藩閥政治を批判して陸軍主流派の山県有朋らと対立、陸軍を去る。
1884明治17年、学習院院長。華族令制定、子爵を授けられる。
1885明治18年12月、第一次伊藤内閣の農商務大臣。
1886明治19年2月、欧米巡回視察を命ぜられる。
3月20日、谷農相・奥青水産局長・柴四朗秘書官ら7人の一行は香港に到着。
香港ホテルには、停泊中の軍艦艦長・香港在住の軍人や商社員、清国に派遣されていた砲兵中尉・柴五郎もやってきた。四朗と五郎兄弟は再会を喜び、谷は将来の戦場となるだろう地域の状況を五郎に尋ねた。
ちなみに、柴五郎は駐在武官時代、結婚後は家族ぐるみで谷夫人の世話になる。
12月、ヨーロッパとアジアの分岐点イスタンブール港に到着。トルコに滞在、谷は「戦費の調達に外資を導入、外債が累積して財政破綻。ヨーロッパの強国の干渉、不平等条約に喘ぐトルコ」を認識、日本の将来を憂える。
―――トルコ帝との謁見を終えたが便船がないのでボスポラス海峡の入江ゴールデン・ホーン(金閣湾)で釣りをする・・・・便船が来てダーダネルス海峡をへてギリシャに向かう。船中にて「トルコの衰退、漸く社稷(国家)維持するも政の組織宜しからず。役人に忠実の人少なく、万事姑息に安んじ内治(政治)振るわず・・・・・」 谷の日記はトルコの衰退と現状を深く観察、翻って日本の現状に思いをはせ心配する・・・・・(けやきのブログⅡ“トルコ金閣湾で釣り、谷干城と柴四朗”)。
次いで、ギリシャ・イタリア・フランス・イギリス・アイルランド、アメリカ各地を視察。サンフランシスコの教会では演説会が開かれ、聴衆400人のなかにアメリカ滞在中の南方熊楠(生物学者)がいた。
翌年6月、一行は横浜港に到着、無事帰国。詳しい行程、エピソードは、『欧米巡回取調』農商務省蔵版に詳しい。
帰国後、谷は安易な欧化政策を痛烈に批判し意見書を提出。
1887明治20年、井上馨外相の条約改正案と欧化主義に反対、農商務大臣を辞職する。
時に、司法省お雇い*ボアソナードが内閣の諮問に応じて意見書を提出。井上外相の条約改正案の外国人判事任用を批判、条約改正反対運動に影響した。その口火を切った谷は、活力を失っていた民権運動に再び運動の目的を与えることになった。
ボアソナード:フランス人、法学者。政府の招きで明治6年、来日。
1889明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布・衆議院議員選挙法・貴族院令公布。
1890明治23年、貴族院議員(~1911明治44年)。
谷は生涯を通じて貴族院を舞台に藩閥批判勢力として活発な議会活動を行った。
1892明治25年、第2回総選挙。選挙干渉により各地で騒擾、流血の惨事が起きた。
谷は政府による選挙大干渉の悪影響の排除を訴える。
1894明治27年8月、日清戦争。11月、旅順占領。
18954月17日、下関条約調印。戦後、谷は過大な領土要求を戒める。
1898明治31年、農本主義の立場から地租増徴に反対する檄文を発す。
谷の活動は現代版百姓一揆と映ったらしく『団団珍聞』(明治31.12.24)に、谷氏(タニシ)の漫画、「田螺百性一揆の総大将を気取る」。
―――*乃木希典と谷干城とは莫逆の友たり、地租増徴反対同盟会の会長たる干城は各地に遊説・・・・・金比羅町に宿る。時に希典はこれを聞くや・・・・・直ちに馬を馳せて旅館を訪ひ久潤をのぶ・・・・・干城はせっかく訪ねてくれて厚意は忝いが、君も知っての通り熱心なる軍備縮小論者にて・・・・・君に迷惑をかけても済まないから訪ねてくれるなと、注意しければ、希典は破顔一笑して、何のその様な事に頓着して呉れるなと答え・・・・・(『乃木希典言行録』)。
乃木希典:長州藩出身。陸軍大将。日露戦争で旅順要塞攻略に苦戦。明治天皇大葬当日、妻と殉死。
1902明治35年、日本弘道会(明治期の教化団体)会長。
1904明治37年2月、日露戦争。
谷は民力休養・農民保護の立場から日露開戦に反対。
1905明治38年、日露戦争の講和条約、ポーツマス条約調印。
日本は賠償その他の要求を放棄して日本の韓国保護承認、南樺太・遼東半島租借権などをロシアに認めさせ講和した。
1911明治44年2月21日、日米通商航海条約改正調印。
谷が井上外相の条約改正案に反対した時から24年、ようやく関税自主権の完全回復が実現したのである。
5月13日、東京市ヶ谷の自邸で病没、土佐久万山に葬られる。享年74。
参考: 『谷干城遺稿』島内登志衛編1975日本史籍協会叢書 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『図説明治人物事典 政治家・軍人・言論人』2000日外アソシエーツ / 『近世名将言行録. 第1』1898吉川弘文館 / 『乃木希典言行録』福島成行1913内外出版協会 / 国会図書館デジタルコレクション
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