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2022年11月19日 (土)

大阪市長を10年つとめた会津人、池上四郎

 「人間至るところ青山あり」に共感。
 その一方、信州人と結婚、リンゴや梨の花の下に佇み南アルプスの山々を眺めたりすると「故郷は遠くにありて想うもの」ではなく、帰る所、帰りたい所と納得。「青山」は故郷に限るかもしれない。
 幕末の戊辰戦争。賊軍とされた東北の諸藩の人々、やむを得ず故郷を遠く離れても、故郷の山や川を想えば元気になれたでしょう。
 明治と世代わり、志があっても世に出られず、ツテを求め、或いは自ら新天地に活路を求めて故郷を離れた賊軍の子弟は少なくない。その一人、池上四郎が今回の主人公である。
 池上四郎は会津から遠く離れた大阪の市長になり、市政に尽くした。そのいくたてを見てみる。
 ちなみに兄の池上三郎(1855安政2~1914大正3)は、大阪控訴院検事・神戸地方裁判所検事正・函館控訴院検事長を務めた。二人とも酒豪で仲が良かった。

     池上 四郎
 
1857安政4年4月18日、会津藩士・池上武輔(武助)・ウメの四男に生まれる。
 1862文久2年、会津藩主・松平容保、京都守護職となる。
 1867慶応3年、四郎は会津藩校・日新館に入学したが翌年、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争がはじまり、勉学どころではなくなる。
   余談ながら、四郎と同じ少年の身で辛酸をなめた柴五郎は2歳下である。

 1868慶応4年/明治元年、新政府軍が城下に攻め入り、9月22日会津藩降伏。
 1869明治2年、領地没収された会津藩に代わり陸奥3郡、斗南藩3万石となる。
   多くの旧会津藩士とともに池上家も斗南へ移住したが、その下北は不毛の地であった。四郎は父や兄の元で貧困と闘っていたが、家を出る決心をし、土浦にいる兄三郎を頼ることにした。
 ところが旅費がない。何日もかけて斗南(青森県)から土浦(茨城県)まで歩き通した。

 ?年、四郎は東京四谷、横浜正金銀行の*柳谷卯三郎の書生となり、便所掃除、風呂焚きもして働き、勉学に励んだ。やがて、警視庁巡査となる。
    柳谷卯三郎:東京帝国大学卒業。日本銀行、のち勧業銀行理事となった銀行家。
   ちなみに、柴五郎の兄の東海散士・柴四朗は、柳谷卯三郎の父(柳谷謙太郎)の書生であった。柳谷家は会津と縁がありそう。

 1878明治11年~~1899明治32年、警部試補から始まり次々と転勤。
   石川県警部・内務省の警補局勤務・高岡警察署長・富山警察署長・富山囚獄懲役署長・警察本署第一部長。警察本署第二部長を兼務・内務屬・京都府警部・下京検疫支部長・下京警察署長。
 長崎県典獄・市ヶ谷監獄分署長・警視・警視庁典獄・下谷警察署長・神田警察署長・麹町警察署長・千葉県警部長・兵庫県警部長。

 1900明治33年、大阪府警部長。13年間、土地の事情に精通、大阪府治安の元締めとして脳力を発揮。
  ―――記すべき学歴は毫末も有せざれども。世才に長け、権謀の術に富み、而も相貌魁偉にして、人に交わるや公私ともに円転滑脱・・・・・幾多の辛酸労苦をつぶさに嘗め・・・・・諸種の経験をして実世間の表裏を見、かつ人心の奥に流るる機微に触れもって確実にその核心を握り・・・・・(『諸家稜々志』)
 1905明治38年、大阪府事務官第4部長。大阪府防疫評議員。

 1913大正2年10月、56歳。第6代大阪市長に就任。
   日本に市長がおかれたのは明治21年、公選制ではなく市会の推薦を経て任命。
  ―――この頃、大阪市は様々な派閥があり、市長の権限も弱く、議会は波乱を重ねていた。こういう状況に・・・・・四郎に対する市民の期待は大きかった・・・・・主な業績をあげてみる。財政整理・都市計画事業の確立・大阪港湾施設の完成・水道拡張・市庁舎新築・学区の負担均整・実業学校の増設・社会教育の振興・社会事業の創設・諸病院の拡張新設など・・・・・(『近代日本に生きた会津の男たち』)。

  ―――*長与が構想した自治体や地域を基盤とする公衆衛生制度は明治中期に頓挫した・・・・・ その長与の思いは近代大阪で実現されることになった。明治維新により大阪経済は壊滅的な打撃を受けたが次第に復興し、大正期になると日本最大の都市となった・・・・・都市のインフラが未整備な中で急激な人口増加が起こったため、不衛生、貧困、疾病の悪循環が深刻化・・・・・池上市長は、都市政策の第一人者・東京高等商業学校(現一橋大学)教授・關一に目をつけた(關を助役として招聘)・・・・・(『大阪公衆衛生.88』)。

  <けやきのブログⅡ2022.1.22 長与専斎・長与又郎・長与善郎父子の123年>

 1914大正3年、助役に高等商業学校教授で交通経済学を専門とする関一を迎える。
 1918大正7年、富山県で米騒動がおこり各地で一挙に騒ぎがおきた。
  ―――大阪では早くから米の値上げが続き、大阪市でも有力者に拠出金を仰いだり、安い外国米を輸入・・・・・市立簡易食堂設置など行ったが今宮の米屋が襲撃されたのを手始めに不穏な空気が拡がった・・・・・大阪市では、公設市場を設置し好評で全国に広まった。翌8年には、市営貸付住宅、市営共同宿泊所、市営浴場、児童相談所、託児所、中央職業紹介所などが次々開設された・・・・・こうして大阪市は社会事業の公的取組では、全国にさきがけた施策を展開した・・・・・(『大阪市の歴史』)。

  ?年、 ―――斗南を訪問。農業をしていた旧会津藩士、池上姓の刻印を押した鍬を譲り受け・・・・・現在の地位にあるのは斗南での生活があったればこそだと家族に言い聞かせ、池上家の家宝とした・・・・・四郎はたいへん酒が好き・・・・・兄の三郎が四郎を訪ねると酒戦が始まり。四升くらいは平気であったらしい。しかし、酔い潰れて人に迷惑をかけることはなかった・・・・・(『近代日本に生きた会津の男たち』)。

 1923大正12年、大阪市長を退任。関が後を継いで市長となる。
  ―――大正時代は、池上四郎市長とと関一(はじめ)助役の時代である。この時期、大阪は政治的にも、経済的にも、文化的にも発展した。
 1924大正14年、『学校の歯科衛生並に其施設』大阪市歯科医師会編。序・池上四郎。

 1927昭和2年、朝鮮総督府政務総監に親任。総理大臣は田中義一。
 1928昭和3年、農林省所管事務政府委員。 
   6月、朝鮮を視察。貧しい農家に金一封を贈った事が新聞に載ったという。
 1929昭和4年4月4日、政務総監在任中、東京で倒れて死去。享年72。
   家族は、妻はま子と二男六女。
   大阪天王寺公園に巨大な銅像がある。高さ6m台座を入れると22m。作者は明治~昭和の彫刻家・北村西望である。

   ちなみに、西南戦争で活躍した池上四郎は、鹿児島出身で別人である。

   参考: 『近代日本に生きた会津の男たち』2003会津武家屋敷文化財管理室 / 『大阪公衆衛生(88)』(大阪公衆衛生協会出版編集室2017.02大阪公衆衛生協会) / 『北辺に生きる会津藩』2008会津武家屋敷文化財管理室 / 『諸家稜々志』1915商工重宝社 / 『日本ダイレクトリー : 御大典紀念』清田伊平編1915甲寅通信社編集部 / 『大阪市の歴史』大阪市史編纂所1999創元社 

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