東京には空が無いといふ智恵子と彫刻家・詩人高村光太郎
2022.11.8「皆既月食」を見られて好かった。ただ同時にあったという「天王星食」は分からなかった。
さて、満月ともなれば狼は月に吠え、狸は腹鼓、人はセンチメンタルになる。そういうと、何を寝ぼけてとなるが、芸術家が月を仰げば詩歌が生まれ、絵にもなる。
そうして表現された月や対象は輝きをまし、心を捉えて離さない。時に感性に合わない作品に出会ったとしても、創作のエネルギーが感じられればそれでいい。
ところで、芸術家同士、それも結婚すると制作のエネルギーは倍になる? それとも一方が負担を強いられ並び立たない? 想像つかない。
そんな事を思ったのは、弱々しいと思い込んでいた「智恵子抄」のヒロインが、自らの意志で絵の道へ進み、伴侶をも得た前向きな女性と知って、光太郎との結婚生活はどうだったのか気になったからである。
『太平洋美術会百年史』に「研究生 長沼智恵子」の一項があり、旧姓・長沼智恵子が*太平洋画会研究所で学んだとある。智恵子が絵描きだったと知らなかったし、高村光太郎についても通り一遍しか知らないので二人の足跡をたどってみた。
太平洋画会:明治美術会解散後、吉田博ら新進が結成。のち中村不折らが参加。白馬会とともに2大洋画団体。
けやきのブログⅡ<2010.11.21 智恵子は東京には空が無いといふ/高村光太郎>
高村 光太郎 & 智恵子
1883明治16年3月13日、光太郎は*光雲・とよの長男に生まれる。
兄弟9人。母の影響で文学好き、祖母の好みで芝居好きになった。
少年時から本郷区千駄木林町の父の仕事場に出入り。木彫などを修得。
高等小学校卒業後、開成予備校で中学の過程を終える。
高村光雲:仏師高村東雲に師事、師の性を継ぐ。東京彫工会設立。東京美術学校教授。写実技法を採り入れ、彫刻の近代化に努力。代表作「老猿」。
1897明治30年、14歳。東京美術学校予科に入る。翌年、本科彫刻家に進む。
1900明治33年、与謝野鉄幹主宰の「新詩社」に入る。
『明星』第7号に篁(たかむら)砕雨の名で短歌5首が載る。
1902明治35年、卒業。研究科に残り彫塑会に属す。
1904明治37年、ロダンの「考える人」の写真を見て感銘を受ける。
1906明治39年~1909明治42年、23~26歳。海外で学ぶ。
アメリカ・ロンドン・パリに滞在。造詣の技法について深く感得するところがあった。また、強い自我の目覚めを自覚。
帰国後、父・光雲の期待や周囲の人々の圧迫からのがれ、一個の近代的人間として生きようと決意する。反逆行動として、北原白秋・木下杢太郎・山本鼎ら新しい詩人や画家の耽美的芸術運動「パンの会」のデカダン的行動と、新雑誌『スバル』のかもすネオ・ロマンチシズムの気運との狂乱怒濤の渦中に身を投ずる。その一方で、デカダン性に対する懐疑と脱却しようとする焦燥に苦しみもがく。
1910明治43年、文芸雑誌スバルに「緑色の太陽」を寄稿。
既成美術会の因習を批判するなど新時代の美術の鼓吹につとめた。
1912大正元年、*フューザン会結成に参加。
フューザン会:高村光太郎・岸田劉生・万鉄五郎らで結成。文展(文部省美術展覧会)系に対抗して組織。明治美術を超克しようとする最初の団体として注目される。
1914大正3年、詩集『道程』『智恵子抄』を刊行。
大正期の彫塑。「裸婦」・「手」・「ピアノを弾く手」・「老人の首」など。このころから、美術会と交渉を絶って彫刻と「ロダンの言葉」の翻訳に力を注ぐ。
長沼智恵子と結婚。
―――私はこの世で智恵子にめぐりあつたため、彼女の純愛によつて清浄にされ、以前の廃頽生活から救い出されることが出来た経歴を持つて居り・・・・・(「智恵子の半生」高村光太郎)。
1924大正13年~1930昭和5年、詩作は今までの個の倫理から社会的現実に目をむけて、その力を野獣に寓意した「猛獣編」時代にはいった。彫刻は、このころから「木彫小品を頒つ会」を創始。「蝉」「鯰」「白文鳥」「蓮根」など木彫の時代が続いた。
1925大正14年、草野心平・宮沢賢治・中原中也ら若い詩人と交わり、同人雑誌にも詩を載せた。
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<智恵子年譜>
1886明治19年5月20日、福島県安達郡由井村(安達町)、酒造業・斎藤(のち長沼)今朝吉、せんの長女に生まれる。早くから利発で手先の器用な少女であった。
1907明治40年、日本女子大学卒業。洋画家の道を選び、太平洋画会研究所で学ぶ。
―――智恵子さんは、美しい、なよなよとした女性で、控えめな感じの外見と、その仕事ぶりは、また反対に自由奔放で強い調子のものでした・・・・・(『太平洋美術会百年史』)。
1911明治44年4月、第10回太平洋画会展覧会で、智恵子の油絵2点入選。
9月、雑誌『青鞜』が創刊され、その表紙絵を描いた。
12月、柳八重の紹介ではじめて高村光太郎のアトリエを訪ねる。
1912明治45年4月、太平洋画会展に油絵2点出品。6月、団扇絵展を開く。
9月、犬吠埼へ写生に行き、光太郎に出会う。
1913大正2年9月、光太郎の後を追って信州上高地へ行き、共に絵を描き、婚約。
1914大正3年12月、29歳。駒込林町のアトリエで光太郎と生活を始める。
1918大正7年、窮乏の中でも二人は充実した製作活動をしていた。
智恵子の父・今朝吉没す。智恵子も以前から肋膜などに故障があり、病気がちで一年に3、4ヶ月は故郷で過ごすようになる。
1923大正12年9月1日、関東大震災。
1929昭和4年、傾きかけていた長沼家が破産、一家は離散。
光太郎は主として彫刻に専念。もともとは父・光雲の彫像の原型作りが主であったが、はじめて胸像を依頼されて制作、「智恵子の首」などを作る。
1931昭和6年8月、統合失調症の最初の徴候が現れる。
1932昭和7年7月、画室でアダリン自殺を図り未遂に終わる。
―――7月15日の朝、彼女は眠りから覚めなかった・・・・・すぐ医者に来てもらつて解毒の手当・・・・・遺書がでたが、其にはただ私への愛と感謝の言葉と、父への謝罪とが書いてあるだけだつた。その文章には少しも頭脳不調の痕跡は観られなかつた・・・・・(「智恵子の半生」)。
この年、代表作「黒田清隆胸像」を制作。
1934昭和9年5月、智恵子の母や妹一家の住む千葉県九十九里海岸に転地、11月、ふたたびアトリエに戻る。
1935昭和10年、光太郎52歳。父・光雲の胸像を制作。
2月、智恵子50歳。病勢はまるで汽罐車にように驀進、自宅療養が危険なので知人の紹介でゼームス坂病院に入院。
―――仕合わせなことに一等看護婦になつてゐた智恵子の姪のはる子さんといふ心やさしい娘さんに最後まで看護してもらふ事ができた。・・・・・精神は分裂しながらも手は曾て油絵の具で成し遂げ得なかつたものを切紙によつて楽しく成就したかの観がある・・・・・(同上)。
1938昭和13年10月5日、智恵子死去。死因は粟粒性肺結核。遺作紙絵千数百点が残された。
―――私の精神は一にかかつて彼女の存在そのものの上にあつたので、智恵子の死による精神的打撃は実に激しく、一時は自己の芸術的制作さへ其の目標を失つたやうな空虚感にとりつかれた幾箇月かを過ごした・・・・・(同上)。
1941昭和16年8月、『智恵子抄』竜星閣から刊行。
―――邂逅から別離までの28年間の愛と死すべてに深く透徹した詩的表現を与え、昭和期に稀に見る清純なる恋愛詩集・・・・・ある満月の夜の異常体験により彼女が守護神のようにかれにつきそっているという信念を死ぬまで抱きつづけた・・・・・(『現代日本文学大事典』)。
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1942昭和17年、太平洋戦争中、「日本文学報国会」が結成され詩部会会長に就任。
戦争詩を多く書き、戦争協力の姿勢を強める。
1945昭和20年4月13日、夜の空襲で東京のアトリエ全焼、わずかに残った父の遺品・木彫用小刀と砥石を携え、宮沢賢治の故郷、岩手県花巻に疎開。その宮沢清六方も8月、戦災を受け、ついに終戦をむかえる。、
敗戦後、戦争責任を痛感し岩手県大田村、夜具の肩に吹雪きの積もる小屋に7年間、流人のごとく隠棲。のち、日本芸術院会員に推されたが受けなかった。
1947昭和22年、雑誌『展望』に連作詩「暗愚小伝」を発表。
1952昭和27年、十和田国立公園功労者顕彰記念の彫刻制作のため十和田湖に行き、「裸婦像」制作のため帰京。東京中野のアトリエに仮寓し制作に精進、翌年完成。
1956昭和31年4月2日、肺結核のため死去。享年73。
明治・大正・昭和にかけて彫刻家・詩人として、孤立独行、巨人的足跡を印した芸術家、高村光太郎。東京駒込の染井墓地に葬られる。
参考: 『太平洋美術会百年史』2004太平洋美術会 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『明治時代史辞典』2012吉川弘文館 / 『智恵子抄』高村光太郎、覚え書き・草野心平1981新潮文庫 / 『近代日本文学大事典』1965明治書院 / 「智恵子の年譜」二本松市 https://www.city.nihonmatsu.lg.jp/page/page001362.html
<太平洋画会>
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