生涯を研究と教育にささげた動物学者、畑井新喜司
正直いって動物が苦手、家族みんな動物好きなのにどういう訳か怖い、触れない。
オーストラリア・ブリスベンに行ったとき、コアラを抱いてニコニコ写真におさまる夫を離れた所から見ていた。そばに居ると「次どうぞ」となるから困る。
息子のクワガタをゴキブリと間違え、籠ごと放り出した失敗もある。生き物好きには理解できないでしょうが、生理的に受け付けない。薄情なのかな。
世の中、夫もそうだが動物好き、生き物好きはたくさんいる。自分は近寄らないようにしているが、動物を可愛がる場に行きあえば、ほほえましく笑顔になる。
それはさておき、何の世界でも研究者がいる。そして、すぐれた学者は研究するだけでなく、人と人をもつなぎ育てる。明治から昭和にかけ活躍した動物学者・畑井新喜司もその一人である。
畑井 新喜司 (はたい しんきし)
1876明治9年、青森県東軍平内(ひらない)村(平内町)に生まれる。
家は代々、津軽黒石藩の平内の代官であった。
小湊小学校卒業後、父の命で旧藩校の流れをくむ弘前の東奥義塾で2年まで学ぶ。塾長の本多庸一は横浜のバラーより洗礼を受け、東北地方伝道を志し、東奥義塾を再興した熱心なキリスト教信者である。
?年、東北学院。キリスト教信者の姉夫婦の強いすすめで、仙台の押川方義(キリスト教教育家)が創立した学院に転校。
―――院長・押川方義が主宰する修養団体「労働会」に属す。畑井の強固なストイシズムと理想主義は、これらの信仰体験に根ざすものと思われる・・・・・幼少の頃からミミズなどの小動物に強い関心をしめし博物学をこころざし、東北学院本科から理科専修科に・・・・・(『民間学事典』)。
1898明治31年、理科専修科を卒業。
旧制第一高等学校の五島清太郎のもとで生物学教室助手となる。
1899明治32年、渡米。
シカゴ大学、大学院で動物学と神経学を専攻、博士号を得る。
1907明治40年、ペンシルバニア大学付属ウィスター研究所に入所。のち教授。
1917大正6年、『米国形態学雑誌 日本号』(フィラデルフィア・ウィスター解剖学及生物学研究所出版)。通常号と異なり論者の本文のほかに著者自抄の日本文を訳出して掲載。6編のうち4編を畑井が抄訳。
1920大正9年、ペンシルバニア大学動物学教授。
1921大正10年、帰国。
五島が新設した東北帝国大学理学部に赴任。教授として生物学教室を創立。
―――明治期の学術全般はドイツの影響が強かったとされ・・・・・しかし、20世紀に入り世界の国力の変化に応じて、我が国の研究も米国から学ぶ事も多くなり、例えば米国ペンシルバニア州立大学教授であった畑井新喜司氏(畑井子虎先生の父君)を、東北帝国大学生物学教室に迎え、ここで生態学の重要性に基づいて大学付属の臨海実験場や水族館を導入した例があるが、これは日本の学術史の中でも画期的な事であったと思われる・・・・・(『恐竜博物館ニュース Dinosars』44号 2015.3.26)。
1923大正12年、東北大学に生物学教室新設。動物学には畑井新喜司(生理学)ほか3教授が新任。畑井はウィスター研究所の主任で主に神経生理学を研究していたのである。
12月、わが国3番目の臨海実験所の建設に着工。1年2ヶ月を費やして落成。鉄筋コンクリートの実験室はアメリカ帰りの畑井の案といわれる。本州の北端に設けられたことは、北方系の海産動物を研究するのに大きく貢献することになった。
1924大正13年~1938昭和13年。
7月5日、東北大学浅虫臨海研究所開所。当時としては最も設備がととのっていた。畑井は所長となり昭和13年の定年までつとめる。
この間に、斎藤報恩会博物館長、三井海洋生物学研究所委員などを歴任。
* 3年にわたり陸奥湾生物総合調査を行う。
* シロナマコの研究。大正14年、シカゴ大学以来の研究に対し帝国学士院賞を受ける。
* ナマズの地震感知能力の研究。
―――何が地震の前に、ふだんおとなしいナマズをそれとわかるほどに暴れさすのだろうか。・・・・・可能性の高いのは電気であろうということは、この調査が始まる遥か以前から指摘されていた。昭和初期の畑井博士らの研究でも、すでに、この点に着目して、地電流とナマズの動きについての実験も行われている・・・・・(『地震ジャーナル(12)』1991地震予知総合研究振興会)。
1930昭和5年10月15日、<八田ミミズに就いて>講演(『動物学雑誌』42巻504号に要旨掲載)。
1931昭和6年、著作『みみず』出版。
英文の論文は多数あるが、著書はこの1冊のみという。
1935年昭和10年、日本学術振興会が開設したパラオ熱帯生物研究所所長。
―――同研究所は日本が設立した最初の本格的な熱帯生物研究機関だったが、畑井はここに日本内地の学閥を排除、若い研究者が存分に研究できる環境をつくり、おもにサンゴの研究をおこなった。ここには阿部襄、羽田根弥太、島津久健、阿部宗明といった研究者が集い、土方久功、作家*中島敦なども出入りしている・・・・・(『民間学事典』)。
中島 敦:小説家。「山月記」「李陵」
けやきのブログⅡ<2017.1.28 中島敦の祖父、中島撫山(江戸から埼玉久喜へ)>
<サイパン島南洋支庁>(『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』p557)
東京大学国文科を卒業後、私立横浜高等女学校に就職。国語と英語を受け持った。 女学校を辞職しパラオ南洋庁国語教科書編集書記になる。南洋ではぜんそくやデング熱に苦しめられる。昭和17年死去。享年33。
―――文壇に出発したばかりで夭折した不幸な作家であるが、騒然たる戦時下において、異数の純粋さに輝いている・・・・・「光と風と夢」も注目されて、芥川賞候補にのぼった。・・・・・スティーブンソンの生を模した観のある彼自身の南方行に材をとった「南東譚」はこれにつながる(『現代日本文学大事典』)。
1936昭和11年、寄稿<第一高等學校教授時代の五島先生>畑井新喜司・東京動物學會。
生物学教室の助手を勤めた時からの終生の恩師、後藤清太郎教授への心温まる追悼文。
1938昭和13年、カナダ、ブリティッシュ・コロンビア大学から名誉法博
―――日本の国際連盟委任統治領であったミクロネシアの西カロリン群島パラオ諸島コロール島に、日本学術振興会によって珊瑚礁の生物学的研究を目的として、パラオ熱帯生物研究所が設置され、昭和18年海軍のマカッサル研究所に併合されるまで存在・・・・・岩山会は学術振興会から研究員を委嘱されて派遣された者が、所長・畑井新喜司先生の下に集まり、その他の関係者を加えて組織した親睦の団体・・・・・(『南洋群島再遊』)。
第二次世界大戦中、フィリッピン科学局顧問。
軍が南方占領下で企てた研究機関の設立運営に参加。一時、フィリッピン・マニラで陸軍司政長官をつとめ、シンガポール(昭南)の*徳川義親らとともに比較的開放的な文化政策をめざした。
徳川義親:越前藩主・松平慶永(春嶽)の6男。東京大学史学科卒業と同時に、同大理科大学植物学科に再入学。戦時中、ラッフルズ(昭南)博物館や植物園などの施設をスタッフらと守り抜いた。
参考までに一冊、『思い出の昭南博物館』(E・J・H・コーナー1982中公新書)。
1943昭和18年、パラオ熱帯生物研究所を閉鎖。
1945昭和20年、太平洋戦争敗戦。
戦後、 東京家政大学学長をつとめる。
1963昭和38年、死去。享年87。
生涯を教育と研究に捧げ、研究論文は、英文76。和文13。国際的学者として不滅の業績を残した。
没後、太平洋学術教会が「畑井メダル」を設け、毎年、世界のすぐれた太平洋研究者に授与している。
参考: 『南洋群島再遊』元田茂1987太平洋学会 / 『本邦動物学七十五年』内田亨1954東京動物学会 / 『わが国の動物学百年史のなかの臨海実験所(100周年記念特集)』椙山正雄1979京動物學會 / 『民間学事典』1997三省堂 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院
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