明治期唯一 非薩摩出身の海軍大将・出羽重遠
12月半ば、色々な事が重なってジタバタしている。こういう時に限って、スマホの送受信が止まっていたのに気付くのが遅れ、迷惑をかけ、自分も困った。
そうこうするうち病院へ行く日になった。経年劣化であちこち衰え検診に行くが、今回は気がすすまない。悪いところを指摘されるかもしれない。
しかし、先生に「心配ないですよ」と言われ、ほッ。先生の「大丈夫」で物事が好転するといいな。
次は、そのお医者様のブログです。
<日本海軍の仕官と資料>
http://naval.way-nifty.com/blog/2008/06/post_07c8.html
『ある明治人の記録』(中公新書)で会津人柴五郎(のち陸軍大将)を好きになって、陸軍について少しわかる。
ただ海軍仕官は、日露戦争でバルチック艦隊を撃滅し日本連合艦隊を勝利に導いた作戦参謀・秋山真之しか知らない。
<日本海軍の仕官と資料>は、史資料に基づいた情報満載、質問もできるよう配慮されている。また、詳しい記述に感心するばかり。とても及ばないが、歴史つながりはうれしい。
<日本海軍の仕官と資料>「福島の海軍士官」
―――福島は戊辰戦争では朝敵とされた幕府軍の中心であった会津藩のお膝元です。薩長が要職を握っていた明治海軍でも出羽大将など活躍が見られます。海軍将校はかなりおり、判明分でも1200名以上になります。
将官は26人で、大将としては、皇族・薩長以外ではじめての海軍大将である、出羽重遠大将、サイパンで玉砕した高木武雄大将がいます。中将では角田秀松・齋藤孝至・佐藤三郎・高橋伊望・原田覺がいます。原田中将は32特根でルソン島にいましたが、終戦後、マニラで戦病死されました。
出羽 重遠 (でわ しげとお)
略歴は『歴代海軍大将全覧』参照。
1856安政2年12月17日、会津藩士・出羽佐太郎の長男に生まれる。
1868慶応4年~1869明治2年、戊辰戦争。
白虎隊に加わったが城内にいて出撃しなかった。
1872明治5年、海軍兵学寮に入る。
海軍兵学寮:海軍士官養成機関。築地にあった海軍操練所を改称。
―――兵学寮生徒 伊集院五郎、中溝徳太郎・・・・・六七人は当時の英国教官より高材逸足を以て目せられ・・・・・異常の抜擢・・・・・卒業後、新橋の西沢旅館に起臥を共にし・・・・・互ひに心を合せ力を協せて国家の為に努力せんことを誓えり。海軍部内にては之を新橋の梁山泊または西沢組の豪傑と称し・・・・・(『薩の海軍・長の陸軍』)。
1878明治11年、海軍兵学寮卒業。
1880明治13年8月、海軍少尉に任官。 12月、龍驤乗組。
1883明治16年、天城乗組。中尉。 1884明治17年、浅間乗組。
1885明治18年4月~1886明治19年6月、イギリス出張(浪速回航事務取扱委員)。
浪速航海長。大尉。 1886明治19年10月、高千穂分隊長。
1887明治20年10月、常備艦隊参謀。 1889明治22年7月、高雄副長。
1890明治23年、少佐。 1891明治24年7月、海軍省第1局第1課長。
1893明治26年5月、海軍省官房人事課長。9月、赤城艦長。
1894明治27年5月、イギリス出張(龍田回航委員長)。7月、日清戦争開戦。
警備艦隊参謀長心得。12月、大佐。西海艦隊参謀長。常備艦隊参謀長。
―――日清戦役では、奇謀術策を立策して未だ幼稚な当時の我が海軍をして敵艦隊を全滅せしめた・・・・・この頃から戦術家としての名声は漸く高く、我が海軍内に明敏果断の戦術家として重きをなすに至った・・・・・(『類聚伝記大日本史』)。
1895明治28年7月、軍務局第1局第1課長。 1897明治30年、軍務局軍事課長。
1898明治31年4月、イギリス出張(常磐回航委員長)。10月、常磐艦長。翌32年、帰着。
1900明治33年5月、北清事変。少将。常備艦隊司令官。
中国・義和団の反乱事件に対し8ヵ国連合軍による鎮圧戦争。包囲された北京城内にあって人々に頼りにされた柴五郎(会津出身・出羽の4歳後輩)の活躍が知られる。
―――公使館救援のため、日本から陸軍少将・福島安正の指揮する臨時派遣隊が、・・・・・北京に進発し列国の増援軍と相協力・・・・・総攻撃には先づ日本軍が先登として目覚ましき活躍をなして入城し、遂に暴徒を鎮圧した。この間、出羽常備艦隊司令長官は支那沿岸にあつて警備する一方、その陸戦隊に対して司令する等の偉功をたてた・・・・・(『類聚伝記大日本史』)。
1901明治34年7月、横須賀鎮守府艦政部長。
1902明治35年10月~190336年9月、兼軍令部次長。
1903明治36年10月、常備艦隊司令官。12月、第1艦隊司令官(第3戦隊司令官)。
1904明治37年6月、中将。日露戦争。
―――2月8日、第3戦艦隊を率ゐて、第一回旅順攻撃に参加。
1905明治38年6月、第4艦隊長官。12月、第2艦隊長官。
日本海開戦当日は露国艦隊を他艦隊と連合して敵艦を包囲し猛烈な砲撃を浴びせ、多大の損害を与えて大勝、数々の偉功をたてた。出羽の旗艦笠置の受けた被害は少なく、その奮闘は実に目覚ましかつた。
1906明治39年11月、教育本部長。
1907明治40年9月、男爵。
1908明治41年5月、第2艦隊長官。
1909明治42年12月、佐世保鎮守府長官。
1911明治44年12月、第1艦隊長官。
1912明治45年7月/大正元年、福島県初の海軍大将となる。
草創期の日本海軍は「薩の海軍」と呼ばれ、大将も初代の西郷従道から14人目の伊集院五郎まで、皇族の有栖川宮威仁親王を除けば全て鹿児島出身であった。
―――(半藤)・・・・・鹿児島出身の大将がダアーッと続いたあと出来た大将が、「賊軍」出身の出羽重遠ですね。 ―――(横山)・・・・・会津籠城では弾運びをしています。 ―――(秦)この人が大将になったのは、海軍が薩摩閥から全国規模の兵学校出身者中心に変わっていった結果です。 ―――(戸高)出羽は権門に媚びず、自分にも部下にも厳格だったとか。・・・・・ 「温厚の中に一種犯すべからざる威厳を存し形貌大に揚がる」と、口の悪い鵜崎鷺城が褒めています。・・・・・(『歴代海軍大将全覧』)。
1913大正2年12月、軍事参議官。
1914大正3年1月、シーメンス事件査問委員長。
―――(横山)出羽は、日露戦争後、佐鎮長官を勤めた時期がありますが、出退勤時間が判で押したように同じで、花柳の巷にも足を向けなかったそうです。・・・・・閥外で規律を重んじる人だから、びしびしやったんでしょう(前同)。
<シーメンス事件>
―――暴露された海軍の収賄事件。海軍当局はドイツのシーメンス社に発注を独占させるようにみせて、契約代金の3・5-15%のコミッションを受け取っていたが、さらに同社に秘密でイギリスのビッカ-ス社と25のコミッションで契約。これを知ったシーメンス本社は、東京支社を追求。この間、解雇された支社員が書類窃盗の罪でベルリンで裁判にふされたことから事実が公にされた・・・・・(『日本史辞典』)。
ついで、イギリスのヴィッカース社とも巡洋戦艦「金剛」の発注に関し同種の事件が発覚。第一次山本権兵衛内閣が総辞職。
1915大正4年1月~4月、パナマ出張。
*パナマ運河開通を記念して2月~12月、サンフランシスコで、パナマ太平洋万国博覧会開催。日本は運河の建設と管理の権利をもつアメリカ政府から博覧会への参加を打診され参加を決定。ちなみに、第一次世界大戦(1914~1918)交戦国なども45ヵ国が参加。
―――博覧会で日本は、金閣寺を模した政府間をはじめ日本庭園や特別陳列館を建設し、美術品や絹織物など日本固有の文化工芸品を多数出展・・・・・政府代表として開会式に出席するため渡米した出羽重遠監軍大将は、帰国後、日本が博覧会に進んで参加し展示物が好評を得たことで、米国における*排日感情が緩和されつつあると報告しています。・・・・・(「外交史料館に聞いてみよう!」)
排日感情:1913年アメリカ・カリフォルニア州で外国人土地法(排日土地法)成立。
けやきのブログⅡ<2022.3.5 新潟県大河津分水路、青山士技師(パナマ運河建設)>
1924大正13年、病に倒れて辞職、東京市外の大崎で療養。
1925大正14年12月、退役。
1930昭和5年1月27日、死去。享年74。
参考: 『海を越えた日本人名事典』2005日外アソシエーツ / 『北辺に生きる会津藩』2008会津武家屋敷 / 『歴代海軍大将全覧』半藤一利ほか2005中公新書ラクレ / 「外交史料Q&A : 外交史料館に聞いてみよう!」2006外務省外交資料館 / 『類聚伝記大日本史.第13巻』1936雄山閣 / 『薩の海軍・長の陸軍:人物評論』鵜崎鷺城1911鵜崎熊吉
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