自然と人生を融合した物理学者・随筆家、中谷宇吉郎
絵の中の雪は素敵。安原成美さん描く雪景色。
雪中にすっきりと立つ白樺、ふんわりした雪の感触、細い樹木のすっきりした線。静かなのに雪の下から息づかいが聞こえるよう、なにか不思議でした。
ところで、美しい雪も時と所によって大迷惑! 令和4年12月、雪で困難に陥っている地域が数ある。列車の運休、高速道路の大渋滞と事故、大停電など大きな被害が続いて起きた。その一方で関東は晴れ続き、天候は各地の事情にお構いなしで困る。
雪といえば、物理学者「中谷宇吉郎の雪」は有名。
物理や科学は難しいが、中谷博士の雪は名随筆で愉しめる。物理と人生が溶け合った生涯を見てみたい。
年譜は主に『アラスカの氷河』を参照。
けやきのブログⅡ2018.5.26<天災は忘れた頃にやってくる、寺田寅彦>
けやきのブログⅡ2017.6.10 <秋月・ハーン・漱石・寅彦、旧制熊本第五高等学校(熊本県)>
けやきのブログⅡ2012.6.13<神のような人、秋月悌次郎(福島県会津・熊本)>
けやきのブログⅡ2010.6.13<緑色の憂愁/寺田寅彦と夏目漱石>
けやきのブログⅡ2009.10.30<本ほんご本:寺田寅彦『柿の種』、『佳人之奇遇』批評高田早苗>
中谷 宇吉郎 (なかや うきちろう)
1900明治33年7月4日、石川県片山津町で生まれる。
父は呉服・雑貨商の中谷卯一、母はてる。
1904明治37年、日露戦争。
1907明治40年、大聖寺町立錦城高等小学校入学。
1913大正2年、小学校卒業。4月、父死去。
1919大正8年、第四高等学校理科甲類入学。金沢市寺町に下宿。
1922大正11年、東京帝国大学物理学科入学。一家で上京。
1923大正12年9月1日、関東大震災。
震災で物理の建物が使えず3ヶ月近く休みになる。科学の新館を借り、狭い実験室で寺田寅彦教授の指導で卒業実験を行う。
―――寺田寅彦は夏目漱石に英語と俳句を学んだ。科学研究のかたわら専門領域にとらわれず様々な成果を生んだ・・・・・地震の研究では「天災は忘れた頃にやってくる」という有名な諺を発明した。・・・・・漱石を通じて正岡子規とも知り合い・・・・・科学・文学の両面において垣根を取り払った功績は大きく、融通無碍の才能はとどまることをところを知らなかった・・・・・(『民間学事典』)。
―――中谷は随想においては恩師寺田寅彦の衣鉢をつぎ・・・・・数多くの随筆集を出し、エッセイストとして自然と人生を融合し、柔軟かつ繊細で静かに対象を洞察する独自の筆致を確立・・・・・(『現代日本文学大事典』)。
1925大正14年、東大物理学科卒業。理化学研究所寺田研究室の助手となり、電気火花などの研究に従事。
1928昭和3年、文部省在外研究員としてイギリス・ロンドンに留学。
キングス・カレッジでリチャードソン教授のもとで長波長X線の研究に従事。
1929昭和4年、茅誠司(物理学者)とともに欧州各地を旅行。
1930昭和5年、アメリカ経由で帰国。北海道大学理学部助教授となる。
北海道移住後、寒地の自然現象の特異性に心を向け、ときに雪の研究に新分野を開拓。雪の結晶の研究をはじめる。
1932昭和7年、32歳。教授に昇任。京都帝国大学から理学博士号を授与される。
1934昭和9年、満洲に出張。
1935昭和10年12月31日、恩師、物理学者・随筆家の寺田寅彦死去。
寅彦は多分野に亘る有能な弟子を輩出したが中谷宇吉郎もその一人。
常時低温研究室をつくる。
十勝岳中腹の白銀荘をしばしば訪れ、天然雪の結晶写真の撮影を行う。
1938昭和13年、ウサギの毛に凝結核をつくり、世界で初めて天然の雪と同一の結晶を人工的につくる。以後も研究を深め、七類一八主二七目に雪の結晶を分類。
随筆集『冬の華』刊行。58編を収めるが「雪を作る話」は有名。
1939昭和14年、東宝文化映画「雪の結晶」をワシントンの国際雪氷委員会総会に送る。
1940昭和15年8月、*凍上調査のため満洲出張。
凍上:しみあがり。冬季、土中の水分が凍結して地面が盛り上がる現象。作物・家屋・線路などに害をおよぼす。
この年晩春。物理学者・湯川秀樹、北大で臨時講義に出向き風邪をこじらせ肺炎になる。北大病院に入院し退院後、前橋へ雷観測に出向いて留守の中谷宅で一ヶ月余り静養する。湯川博士が日本ではじめてノーベル賞物理学賞を受賞する9年前の出来事という。
中谷は出版界では岩波書店の小林勇(出版人・エッセイスト)と交流が深かった。
1941昭和16年、帯広、土幌、糠平などで凍上調査。
3月、北大の同僚、茅誠司と満洲出張。
5月、雪の結晶の研究で日本学士院賞。
10月、樺太出張。凍上、霧の人口消散、農業物理の研究に従事。
1943昭和18年、満洲で永久凍土地帯調査を行う。
1945昭和20年、太平洋戦争敗戦。
―――終戦後、低温科学研究所はいったんGHQに接収され、石炭不足のために12月から翌年3月まで休学となる。
『霜柱と凍上』『科学の芽生え』刊行・・・・・(『アラスカの氷河』)。
1946昭和21年、財団法人農業物理研究所が発足、所長となる。
1947昭和22年、科学映画「霜の花」の製作指導。
1948昭和23年、映画「雪の結晶」 「霜の花」 「大雪山の雪」をオスローの国際雪氷委員会総会に送る。
『楡の花』刊行。
1949昭和24年、「霜の花」で朝日賞を受賞。映画プロダクションの中谷研究室を立ち上げ、翌年、岩波映画製作所の顧問になる。
国際雪氷委員会の招きで、アメリカとカナダに出張。
渡米。プリンストン高級科学研究所教授。
1952昭和27年、雪氷永久凍土研究所(SIPRE)の主任研究員となる。
―――1952年から54年まで、シカゴ郊外のウィネッカに家族とともに滞在し、アラスカのメンデンホール氷河から採取した氷の結晶を用いて物性研究を行った(『アラスカの氷河』)。
『イグアノドンの唄』刊行。
―――戦争直後の、自らの幼い子どもたちとともにあった回想を描いた一篇が、「イグアナドンの唄――大人のための童話――」である。終戦の年の冬を、中谷宇吉郎の一家は、羊蹄山麓の疎開先で送ることになった。・・・・・一家が肩を寄せ合うように過ごす冬の夜・・・・・中谷はコナン・ドイルの『失われた世界』ロスト・ワールドを子どもたちに読み聞かせる。・・・・・「ロスト・ワールド」のなかで子どもたちのもっともお気に入りは、「大きいくせにおとなしいイグアナドン」であった。ジュラ紀の怪獣である。
・・・・・イグアナドンの背中に ゴリラが乗ってった 乗ってった(以下略)
・・・・・このイグアナドンの唄を作ったのは末っ子の男の子である。自分の国の敗戦も、自分の身体の栄養低下も、何も知らなかった子供たちは、カインの末裔の土地で、「イグアナドンの唄」をうたって、至極ご機嫌であった。しかしその男の子は栄養低下が禍いして、仮そめの病気がもとで、急に亡くなってしまった。・・・・・(『科学と人生』)。
1954昭和29年、“Snow Crystals, natural and artificial”ハーバード大学から出版。
1956昭和31年12月、ハワイ島マウナ・ロア山頂で雪の結晶、凝結核の観測を行う。
『百日物語』刊行。
1957昭和32年2月、帰国。 6月、再びアメリカ出張。
国際地球観測年の遠征隊に参加してグリーンランドへ、9月、帰国。
1958昭和33年7月、アメリカとグリーンランドに出張、氷冠の研究に打ち込む。
『黒い月の世界』刊行。
1959昭和34年2月~3月、雪氷永久凍土研究所(SIPRE)出張。
グリーンランドで氷の研究を続ける。
5月、ウッズホールで開かれた国際雲物理学会に出席。
1960昭和35年6月~9月、グリーンランドに出張。
アラスカのメンデンホール氷河に北大遠征隊の活動を視察。
10月、前立腺癌の手術を受ける。共著『北海道』刊行。
1962昭和37年4月11日、骨髄炎のため死去。享年61。
日本海にほど近い、北陸の温泉郷の湖畔に「中谷宇吉郎・雪の科学館」がある。
参考:『日本人名辞典』1993三省堂 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『民間学事典 人名編』1997三省堂 / 中谷宇吉郎紀行集『アラスカの氷河』2002岩波文庫 / 中谷宇吉郎エッセイ集『雪は天からの手紙』池内了編2002岩波書店 /『科学と人生』中谷宇吉郎2022角川ソフィア文庫 / 『広辞苑』新村出2022岩波書店
| 固定リンク
コメント