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2022年12月24日 (土)

安原成美 | 日本土木界草分け、工学博士・廣(広)井勇

 NHK大河ドラマ <どうする家康> タイトル画・安原成美

 古沢良太著『どうする家康』表紙画・安原成美
  こちらは大河ドラマとはひと味違う「小説化」してみたいとの主旨で出版した本です。
 安原成美さんは安原竹夫先生のご長男です。お父様の安原竹夫先生には『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』表紙を描いていただくなど長くお世話になっています。
 そのご縁からも、近年の成美さんのご活躍はわが事のようにうれしく喜んでいます。
 成美さんの絵もまた見る者を惹きつけてやみません。大河ドラマはじまりの画面で、毎週その感動が味わえると思うと愉しみです。
 安原成美さんは次の番組に関わっています。    
   NHK「歴史探偵」放送予定 2023令和5年
   5月10日(水) 22:00~22:45。再放送5月17日(水)16:15~17:00
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 さて、絵画は額縁に納まるも描かれる世界は広く深い。建造物はドーンと立ち現れて人のため世の為になる。絵と建造物はまるで違うようでも、完成への努力や創造力がいるのは同じかもしれない。優れた作品が後世に残る所も共通する気がする。
 さて、拙い考えはおいといて、どの道を行くにしても知識や技術、修行が欠かせない。今は学校も数あり、情報も多く得られるが、昔の人はどうやって最新知識・技術を得たのだろう。
 高知の土佐国生まれの廣井勇は、「坂下門外の変」が起きた幕末1862文久2年生まれだが、なんと自費で欧米へ留学している。
 江戸から明治へと時移り、家は貧しく、幼くして父を喪い暮らしは貧しかったというのにである。その廣井勇の一生をみてみたい。

     廣井 勇   (ひろい いさみ)

 1862文久2年9月2日、土佐国高岡郡佐川村内原(佐川町上郷)、高知藩士・廣井喜重郎の長男に生まれる。廣井家は儒学者の流れをくむ。
 1872明治5年、叔父・片岡利和(明治天皇侍従)に伴われ上京。同家の書生となる。
   同家に出入りしていたイギリス商人キングドンは、腸チブスに罹った廣井を自宅に引き取り、夫婦で玄関番の少年のために看病し神に祈る。廣井は至れり尽くせりの看病によって全快したばかりか、キングドンから英語・英米文学など「西洋文明」を学んだ。
 1874明治7年、東京外国語学校英語科(同年、東京英語学校となる)に入学。
 1877明治10年、クラーク博士帰国後の札幌農学校入学。同じ二期生は内村鑑三・太田稲造・廣井勇など5人。

 1878明治11年、米国宣教師エム・シイ・ハリスのもとでキリスト教信者となる。
   クリスチャン・ネームはチャールズ。
 1881明治14年、幌農学校卒業。7月、開拓使御用掛。11月、鉄路科勤務。
 1882明治15年、開拓使廃止。工部省省鉄道局勤務となり東京へ。
   ―――日本鉄道会社(私鉄)が初めて手がける上野・高崎間(JR高崎線)の鉄道建設と橋梁の設計施工に参加・・・・・広井は赤羽と川口を隔てる荒川をまたぐ鉄橋の設計と架設を担当することになった。昼は現場に出て工事を監督し、夜は下宿に戻って勉学に励んだ・・・・・(『山に向かいて目を挙ぐ』)。

 1883明治16年10月、依願退職。12月、自費で渡米、3等船室の客となる。
   留学費用はそれまでの給料と、友人に誤解されるほどつきあいや遊びをせずに節約して貯めた。
   1月~8月、ミシシッピー河の護岸工事雇員となり、鉄橋工事を実地研究。
   9月、橋梁技術者シー・シエラー・スミス事務所の技手となり、橋梁の設計に従事。
 1886明治19年1月、スミス事務所閉鎖となり、ノーフォーク・エンド・ウエスタンの鉄道会社技手となり、鉄橋の設計、製作に従事する。その間、仕事の暇を見つけては、英米やドイツの文学作品を読破、なかでも詩集を愛読したという。
 廣井はこれまでの現場経験をもとに英文の論文を書く。ドイツへ留学中に科学技術専門社から出版され、英米で高い評価を得る。日本での出版は明治22年。
 1887明治20年、アメリカからドイツへ留学。
   カールスルーエの工科大学で土木工学・水理工学を、次いでシュツットガルトの工科大学で土木工学を研究、学位を授けられた。その後、独・仏・英各国の土木事業に現場を視察し明治22年帰国。7年ぶりに祖国の土を踏む。一等客室の客であった。
 1889明治22年、札幌農学校教授。
 1890明治23年、廣井は得意の英語とドイツ語を使って土木工学や建築学を講義。
   お雇い外国人のメイクが帰国し、代わって廣井が北海道内の港湾調査を命じられる。
 1891明治24年4月、土木工学科主任教授となり北海道庁土木課長を兼任。
   大井上綱子と結婚。自ら設計した洋館を建てて10年間暮らす。家には五人の学生を寄寓させた。
   道庁の10年間、北海道開拓の基本施設である鉄道、港湾施設の殆どを手がけた。
 1893明治26年、北海道長官・北垣国道は小樽港修築の必要性を説く。
 1895明治28年、札幌農学校の工学科が廃止される。
 1896明治29年、函館築港工事始まり、明治32年完成。
   その後の函館港の拡張工事は、廣井の設計により明治43年起工、大正8年完成。
   廣井が指揮した函館港改良工事で、船入潤防波堤が完成。ここは戊辰戦争最後の戦いがあった弁天台場があった場所。
  ―――「防波堤の石積みには、台場に使われていた石を再利用・・・・・主に函館山から切り出した安山岩です」・・・・・(廣井は海水の影響でコンクリートに亀裂や崩落が生じないよう研究)・・・・・伝統的な石積みの技術も駆使して、日本人施工による初めての耐海水性を高めて完成・・・・・(『大人の休日倶楽部』)。

 1897明治30年、35歳。小樽築港事務所長を命ぜられる。
   札幌農学校教授を依願免官、教職を離れる。北海道最大の巨大土木事業のすべてを任される。そして、北海道における廣井の最大の功績である小樽築港に取りかかる。
  ―――井上馨内務大臣は北海道視察の際、本格的な港湾施設の重要性を認め防波堤の建設計画の立案を指示・・・・・築港の第1期工事は、廣井勇の指揮によって開始され、コンクリートによる防波堤としては、我が国初の大規模工事であった・・・・・(『2088小樽港における埋立の歴史』)。
   防波堤工事着工し暴風や激浪による被害があっても工事は進捗したが、明治37年の日露戦争で予算が大幅削減された。
 1899明治32年3月、工学博士。
   9月、北海道庁技師を兼務する形で東京帝国大学工学科大学教授に就任。1919大正8年まで在職。その指導は机上の空論を排除し、現実性を主眼とした。門下生たち「広井い山脈」から、多くの人材を輩出した。青山士も廣井の門下生の一人という。
 けやきのブログⅡ2022.3.5<<新潟県大河津分水路、青山士技師(パナマ運河建設)>

 1901明治34年~1907明治40年、
   台湾の基隆(キールン)及び淡水・仁川港埋築・高知県の諸港湾・青森築港・室蘭港の埠頭・秋田の船川港など調査、監督などで関わる。
 1905明治38年、東大土木工学科の講義内容に基づいて、橋梁設計上に画期的な進歩をもたらす英文名著『橋梁の不静定構造力学理論』、ニューヨークの出版社から刊行。

 1908明治41年5月、欧米視察を命ぜられ、橋梁・道路の建設現場を見て回った。
  小樽港の巨大な北防波堤完成 ―――防波堤は明治40年中に、すべてのブロックの積み上げを終わり、円朝253尺にわたって海面上にその姿を見せ・・・・・41年5月堤頭とその付近の場所詰コンクリートを布設し、同時に港灯を建設し、永遠に記念されるべき大工事は竣工・・・・・(『山に向かいて目を挙ぐ』)。
   廣井が火山灰を使用して耐海水性を高めて築造した北防波堤は、外海の荒波に耐えて110余年、今も現役で使用されている。
 廣井は北海道開拓の基本施設である鉄道、港湾施設のほとんどを手がけたのをはじめとして、日本の橋梁力学や築港学の進歩に大きな業績を残したのである。
 1910明治43年~1914大正3年、鬼怒川水力電気工事の顧問となり技術指導を行う。
   12月、満鉄の委嘱を受けて大連旅順及び営口の諸港を視察。
 1911明治44年、鉄道院の委嘱により関門架橋の設計を監督。
   ―――この夏。広井は水力発電に強い関心を示した。・・・・・波の間断ないうねりによって起こるエネルギーをとらえて発電を行うという、日本で初めての試みに挑戦・・・・・実験の舞台として千葉県の太平洋に面した外房総・太東崎に別荘をかねた波浪エネルギー研究所を私費を投じて建設・・・・・(中略)・・・・・日本の研究者として初めて砕波の力を表す硬式を考案した。それは「広井公式」と呼ばれる・・・・・(『山に向かいて目を挙ぐ』)。

 1914大正3年、土木学会創設。廣井はのち第六代会長。
 1915大正4年~1916大正5年、千住及び六郷橋梁の設計を監督。
 1917大正6年、鉄道院の嘱託として門司・若松両港について調査。
 1920大正9年、東京帝国大学名誉教授。
 1921大正10年、中国、上海港改良技術会議へ日本代表として出席。
   この頃から廣井と札幌農学校時代の友人、内村鑑三との交流が再会される。
 1923大正12年9月1日、関東大震災。10月、政府は帝都復興院を設立、理事となる。
 1927昭和2年、『日本築港史』丸善から出版。
 1928昭和3年10月1日、死去。享年66。翌年、小樽市公園東山に胸像建設。
  ―――もし工学が、唯に人生を繁雑にするのみのものならば、何の意味もないことである。これによって数日を要するところを数時間の距離に短縮し、一日の労役を一時間に止め、人をして静かに思惟せしめ、反省せしめ、神に帰る余裕を与えないものであるならば、我々の工学にはまったく意味を見出すことができない(廣井勇)。
  ―――学友であり級友であった内村鑑三が雨にうたれながら表白した追悼文「級友広井勇君を葬るの辞」は、広井の人生の核心をついた高遠で崇高なものであり、半世紀に及ぶ友情を語った名演説である・・・・・(『山に向かいて目を挙ぐ』)。
  ―――「広井君が身を汚さず、心を汚さず世を渡った事は終生の感謝である」(新渡戸稲造)」

 

   参考: 評伝『山に向かいて目を挙ぐ 工学博士・広井勇の生涯』高崎哲郎2003鹿島出版会 / 『日本キリスト教歴史大事典』1988教文館 / 『2088小樽港における埋立の歴史』中村信之他1991土質工学会 / JR『大人の休日倶楽部』2022年8月号 / 『工学博士広井勇伝』1930故広井工学博士記念事業会編

  ☆ 評伝『山に向かいて目を挙ぐ 工学博士・広井勇の生涯』高崎哲郎
    素敵な人物伝を読めて好かった。自分でいうのも可笑しいが、毎週いろいろな人物に出会うのが楽しみで書いている。参考図書を読むのも愉しい。『山に向かいて目を挙ぐ』のような好著にも出会え、時に毎週更新がキツくても辞められない。

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