マリモ・ロボット・保育・戦災孤児愛護、植物学者・西村真琴
年始め、ものの始めが気になる。そういえば、けやきのブログⅡ始まりはいつ? 画面右バックナンバーを見ると2009年7月「本ほんご本」が第一回、よくまあ飽きもせず14年続いた。皆さまのアクセスのお陰、感謝しています。
今回の植物学者・科学啓蒙家・西村真琴は学問の世界、社会活動でも力量を発揮し人の助けにも力にもなった。しかし、活躍のわりに広く知られていないようで不思議です。
ちなみに、俳優の西村晃は次男、個性的な風貌と渋い演技が思い浮かびます。
西村 真琴 (にしむら まこと)
1883明治16年3月26日、長野県東筑摩郡里山辺村荒町3205番地に生まれる。
父は村会議員。一時、北海道開拓を志すも果たさなかった。
1904明治37年、長野県松本中学校卒業。
1908明治41年、広島高等師範学校・博物学科卒業
?年、京都府乙訓(おとくに)郡向日(むこう)町小学校、代用教員となる。のち、校長。
?年、中国大陸に渡り、中国遼寧省の遼陽小学校校長。
1911明治44年、奉天(瀋陽)南満医学堂・生物学教授。
満洲と朝鮮の植物調査を行い、ロシアの植物学者エナンデルと出会う。
1915大正4年、在職のまま渡米。コロンビア大学留学。
植物学を学ぶかたわら、ニューヨーク市立自然科学博物館でアフリカ産植物研究に従事。
1918大正7年、マスター・オブ・アーツとなり同大学植物部助手。
1920大正9年、ドクトル・オブ・フィロソフィーの試験に合格、7月、南満医学堂・生物学教授を辞す。
文部省より水産植物学および浮遊生物学研究のためアメリカおよびスエーデン、ノルウエーへ留学を命ぜられる。
?年、 イギリスで出会った*新渡戸稲造に認められる。
けやきのブログⅡ<2015.4.11札幌遠友夜学校((新渡戸稲造)と有島武郎(北海道)>
1921大正10年、帰国。7月、北海道帝国大学付属水産専門部講師。
10月、教授(植物学)となり、生物学を講じる。
1923大正12年4月、インド及び南洋諸島に出張。
―――西村氏は非常に多趣味な人で絵も描き、版画の彫刻もすればまた北大関係者の詩学協会の指導者で劇に対する趣味も深く、学生教授間に人格者として推奨せられて居る・・・・・(『五十年後の太平洋 大阪毎日新聞懸賞論文』)。
1925大正14年春、札幌詩学協会創立(西村真琴・外山卯三郎。相川正義ほか)。
9月、演劇部、札幌松竹座にて第1回公演。昭和2年解散(『北海道年鑑』)。
1927昭和2年、『水の湧くまで』出版。
噴火で阿寒湖の水温が上昇し、マリモが絶滅の危機に瀕していることを知り、保護に奔走。ここでおこなったマリモの研究により東京帝国大学より理学博士号を得る。
―――西村には、無私の精神を感じさせる行いが、公私ともに少なくない。マリモの保護活動、札幌市豊平のアイヌ貧民救済のためのチャリティー、満洲の植物標本の*牧野富太郎への無償提供などその例である・・・・・(『民間学事典』)。
けやきのブログⅡ<2019.2.16世界的な植物分類学者、牧野富太郎(高知・東京)>
奥野信太郎の薦めで書いた科学エッセーが好評、この随筆が機縁で大学を退官。
「大阪毎日新聞」論説委員・学芸部顧問となる。大阪府豊能郡箕面村桜井在住。
―――理学博士だが、筆も立つ、絵もかく、自ら竹を切って穴をあけて笛を作って、それも吹く何でも来いの才人・・・・・(『現代日本に活躍する人物とその団体』)。
社会事業部長として全日本保育連盟を結成、理事長となる。保育事業の拡充強化につとめ、幼稚園の義務制を訴え日本のフレーベルと。
民国窮民孤児援護会 隣邦児童愛護会 など幼児教育に尽くした。
1928昭和3年、京都で「昭和天皇御大礼記念博覧会」開催。
西村は、ロボット(人造人間)「学天測」を出品。
―――人造人間は君の専門学の立場からも亦趣味よりしても一心に魂を打込んでゐるものであってその完成は興味をもって待たれている・・・・・(『昭和新聞名家録』)。
―――このロボットにも、SFをふくむ多くの科学エッセーにも、自然界の相互扶助と共栄原理への礼賛などのメッセージが込められている・・・・・・(『民間学事典』)。
1930昭和5年、広島市主宰昭和産業博覧会。
―――毎日新聞社の中心出品は、現代科学の驚異ともいふべき人造人間である。同新聞社事業部長理学博士西村真琴氏が、従来外国において製作された人造人間が、いづれも、機械的な画一的な動作を行ふに終始していることに慊(あきた)らず、人体の有機的、生理的活動の表現を移し植えやうとして苦心研究された結果完成されたもので、世界的な発明である。 この人造人間は、学天則と名づけられ、グロテスクな、神秘的な風貌を備え、その胸部、肩胛部より顔面筋肉の活動状況は、あたかも活ける人間の如く・・・・・本会中屈指の呼び物たりしは、万人の認めるところである(『広島市主宰昭和産業博覧会誌』)。
東洋初のロボットといわれる「学天則」生みの親、西村真琴の著術。学天則の製作動機や、その姿に込めた理想、開発にあたって工夫をこらした点などが、写真を交えて生き生きと語られている。
―――(人間税に関する新思潮・西村真琴) 日の雨の土の恵に咲く稲穂 人のいのちの糧とみのるも 私がこの歌を詠んだ心持ちは、天地が協力して尊い人生を育んで呉れること、万物同根、別しては生命の糧の構成されゆく妙現を礼賛したのであります・・・・・(近代思潮講演集p70)。
『大地のはらわた』刀江書院から出版。
1932昭和7年、第一次上海事変。日本海軍、上海で中国軍と交戦。
―――この時、大阪毎日無料治療団長として上海に渡った西村真琴博士は、廃墟と化した閘北(ぎほく)の三義里で一羽の飢えて飛べない鳩を見つけて大阪へ持ち帰り、日本の鳩との間に子が生まれたら、その鳩を平和の使者として上海に送りたいと念じつつ養ったが、翌年鳩は死ぬ。博士は鳩を庭に埋葬し、碑を建てて三義塔と名付け、自筆の鳩の画を魯迅に送り、果たせなかった自分の意を伝えると共に題詠を請うた。魯迅はこの求めに応じて「三義塔に題す」(1933)という七言律詩を作って送った。・・・・・(中略)・・・・・
・・・・・鳩は精衛(神話中の小鳥の名)に生まれ変わり、「劫波」に喩えられる日中間の深い断絶を埋め続けるだろう。・・・・・(『魯迅と日本人』)。
けやきのブログⅡ<2015.8.29仙台医学専門学校、藤野先生と魯迅(宮城県)>
1933昭和8年、『科学随想』中央公論社。
―――内容は七十幾つかの小品文から成って・・・・・一つは普通の随筆であるが、著者が化学者なるが故に、普通の人の考え及ばない点に科学的な観察を与へたもので、も一つは純然たる科学の話を諧謔交じりに平易に通俗的に書いたもの・・・・・何れも極めて短文で・・・・・ちゃんと科学的の結論をだしてゐる所は、科学者として又ジャーナリストとしての著者の腕前で読み物としても大変面白い(『良書百選』)。
1935昭和10年、『凡人経』。文芸家協会会員(『国民年鑑』)。
1936昭和11年、『日本凶荒史考』西村真琴・吉川一郎共編、丸善。
新聞社の社会事業の一環として、全日本保育連盟を興し、初代理事長として保育思想の普及につとめる。
『新撰満洲事情』(西村真琴氏「新しく見た満鮮」より)
―――(なだれ込む山東苦力) 大連埠頭の苦力の生活とその体力とは頗る暗示に富んでゐる。・・・・・かつてあまりにも無関心であったが、現今喧しい日本人の満蒙移民の強力なライバルは誰でもなく、彼らであるのだ。日本移民およびその関係者は、彼等を対象に考えることを避けてはならない。軽蔑してはならない。それよりも、まづ彼等に対するに、どれだけの覚悟、どれだけの忍耐、どれだけの持久力があるかを考えるべきである。
1939昭和14年、『緑之国――まりもを探る』
1940昭和15年、乳幼児の疾病及び保護、「戦禍の生んだ支那孤児の愛育」(『日本衛生年鑑』社会事業)。
1941昭和16年、隣邦児童愛護会を結成。
大阪四天王寺悲田院内に中国児童愛育所をもうけ敗戦まで中国人戦災孤児養育。
1945昭和20年、太平洋戦争敗戦。
戦後、 豊中市議会議員。豊中市公民館館長。科学映画製作。
1956昭和31年、死去。享年73。
参考:『民間学事典 人名編』1997三省堂 / 『良書百選 第3輯』1934日本図書館協会 / 『昭和新聞名家録』1931新聞研究所 / 『北海道年鑑』1929北海出版社 / 『国民年鑑』1934国民新聞社 / 『現代日本に活躍する人物とその団体』1933大日本雄弁講談社 / 『広島市主宰昭和産業博覧会誌』1930広島市編 / 『日本衛生年鑑』1940日本労働科学研究所 / 『魯迅と日本人』伊藤虎丸1983朝日選書 / インターネット「歴史が眠る多磨霊園」 / 国会図書館デジタルコレクション
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