灯台事業の先がけ・コンクリート、工学博士・石橋絢彦
♪ おいら岬の灯台守は 妻と二人で沖行く船の
無事を祈って灯をかざす 灯をかざす・・・・・
映画【喜びも悲しみも幾年月】1957昭和32年封切。
筆書は映画館で見たがテレビ・ビデオで鑑賞、感涙した人も多いと思う。その灯台、明治期はお雇い外国人が設計し手がけたが、彼らが帰ったあと設計施工したのが石橋絢彦である。
さて、日本の洋式灯台は、観音埼灯台が初めである。
―――*馬関砲撃事件で、三百萬弗の賠償金と共に燈台を十ヶ所に建設する条約を結んだのが濫觴となった。わが国では当時日本に居たアール、コックに頼んで香港から電報を打ってスコットランドの技師ステブンソンに依頼し、彼がよこしたのがアール・ヘンリー・ブラントン・・・・・また仏国からホポシーが来て、品川・観音崎・野島ヶ崎に燈台を作った(石橋絢彦談)。・・・・・(『明治以後本邦土木と外人』)。
馬関砲撃事件(下関事件1863文久3年): 長州藩は下関(馬関)砲台から下関海峡を通航中のアメリカ商船、フランス軍艦、オランダ軍艦を砲撃、四国連合艦隊の報復攻撃される。砲台を破壊され高杉晋作が敗戦処理をし「賠償金は幕府から」といったため、幕府はやむなく賠償の一部を支払い、残余を延期してもらった。その条件に航路標識、灯台設置があった。
灯台は日本船の航行のためでなく外国船の出入り安全が優先であった。ブラントンが関わった灯台を起工順に記す。灯台の建設地、明治期は逓信省と海軍が決めた。なお、コンクリート造りは石橋の設計施工からになる。
観音崎灯台(神奈川県)レンガ造り・野島崎灯台(千葉県)レンガ造り・神子元島灯台(静岡県)石造り・樫野崎灯台(和歌山県)石造り・潮岬灯台(和歌山県)木造り・伊王島灯台(長崎県)鉄造り・佐多岬灯台(鹿児島県)鉄造り・𠝏埼灯台(神奈川県)石造り。
石橋 絢彦 (いしばし あやひこ)
1853嘉永5年12月27日、江戸に生まれる。旧久留米藩士・中井国蔵、母は元関東支配頭小川織江の長女の5男。
江戸時代史の研究が趣味。号は錦波。父の事業で家が傾き、中井経蔵家で養われ1864元治元年、姻戚の石橋氏に入籍。
1868慶応4年/明治元年、鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)。
幕府軍に従い木更津に船橋今津を転戦、大敗し変装して江戸に帰る。次いで横浜に出て東漸寺に宿し、越後人・小林雄七郎に英語、松永源三に数理を学ぶ。
1869明治2年、慶喜の後を継いだ徳川家達に従い、駿府に赴き、沼津兵学校(西周校長)資業生となる。同所に*永峰秀樹がいた。
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1872明治5年、J・R・*ブラックの新聞『日新真事誌』で仕事をするが辞めて岸栄の塾に入り舎監となる。
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1873明治6年、工部省工学寮(のち工部大学校)に合格し官費入学。土木工学を学ぶ。
1875明治8年、課外授業。工作局木型場鉄工場器械組立工場で、機械学を1年間実習。
ブラントンに従い常総地方の土木工事を巡視。茨木県鹿島郡運河線を測量。秋田県八郎潟船川港を測量。
1876明治9年、*明治丸で肥前江島の大瀬崎灯台建築を視察。
明治丸: 灯台巡視船。明治天皇のお召し船。
1878明治11年、工部大学校土木工学科卒業。卒業後は25~60円の判任官。
1879明治12年、灯台学(海上工事及び燈台)・石橋絢彦(土木科二等)、辰野金吾(造家学)ら卒業生11名が留学を命ぜられる。
1880明治13年2月、イギリス留学。
イギリスでは灯台局技師長ゼームス・ダグラスのもとで、新エジストーン燈台工事や海上工事に従事して研究。さらにフランスやアメリカの灯台工事を見学。
1883明治16年2月、帰朝。灯台局へ出勤。
1884明治17年、工部権少技長。
8月、宮崎県の鞍埼灯台初点灯(石橋が最初に手がけた灯台)、日本初の無筋コンクリート造り。ほかに瀬戸内海の立標(航路標識の一種)灯台の建設にあたる。
1885明治18年、灯台選定委員。12月、逓信省権少技長。
灯台は工部省から逓信省に移り、お雇い外国人が解雇される。
ブラントンの通訳でもあった技師の藤倉見達が初代・工部省灯台局長。石橋は第2代局長。この二人を中心とし日本人技師の活躍で、大型灯台が多数建設される。
ちなみに、ブラントンから技術を学んだ現場たたき上げの藤倉に対し、石橋はエリートであった。しかし、二人はお互いをリスペクトしあっていた。
1886明治19年、逓信省灯台局次長。灯台及び海路諸標識位置調査委員。
1887明治20年、工学博士。
1月、工手学校創立の協議。メンバーは石橋絢彦(土木)・辰野金吾(造家)・*井口在屋(機械)・栗本廉(鉱山)ら14人で発起人となる。
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1889明治22年10月、神奈川県雇となりもっぱら横浜築港工事に携わる。
その他仕事: 摂津・和田岬鉄造灯台 日州鞍埼コンクリート灯台 北見国宗谷岬鉄造灯台 渡嶋国葛登支岬木鉄造灯台 伊勢国贄崎竿灯台 四日市及び伊予国三津浜木造灯台 尾州角石鉄造立礁及び、摂津平磯石造立標 渡島国白神崎に鉄造灯台を設け霧笛を、後志国神崎岬鉄造灯台 陸奥国尻屋崎に援付け霧笛用蒸気機関を石油機関に廃用し、日高襟裳岬に鉄造灯台を設け、根室国花咲 釧路国落石岬に木造灯台を建設。
アニンリン写真及びサイアノタイプ写真法を研究し灯台局員に伝え、図面・謄写の手間を省くなど功績がある。
1894明治27年、日清戦争。
1895明治28年、日清戦後の日本は灯台建設に予算を大量に投入、大型灯台を設置していく。
また韓国政府が灯台建設計画につき日本政府に交渉。
―――石橋は補助員技手2名を随え、6月、日本灯台用船明石丸を以て韓国全岸の測量を遂げ、園建設すべき位置及び灯台の種類等、施設に就き調査・・・・・(『明治工業史』)。
―――韓国で一度、イギリス人の総税務司との交渉を行っていますが、基本的には現場一筋の人間です。・・・・・石橋はこれだけのキャリアがありながら最後まで現場にいたので、技術を極めようとしていたと思われます。技術者の鑑とは彼のような存在のことを指すのだろう・・・・・(大野太幹『海と灯台学』)。
1897明治30年4月30日、航路標識管理所技師工学博士・石橋絢彦 基隆築港調査事務竝(ならび)台湾航路標識事務を嘱託ス・・・・・(『台湾総督府報』93号)。
―――今津湾の築港設計は、石橋綾彦博士の該博なる調査実験に成り、之が連絡鉄道の設計及び築港全体の製図は、実に先生の技術考案に成りたるものにして・・・・・(『松下直美概蹟:幕末福岡藩洋行の先駆1』)。
1900明治33年、襟裳岬灯台。*霧笛用動力源として日本初の石油発動機を採用。
霧笛:農務などで視界不良のときに、衝突事故を防ぐため船舶や灯台がならす汽笛。
1904明治37年、日露戦争。戦後、韓国で灯台建設に従事。
―――水ノ子島灯台(大分県)設計。外側が石造、内側がレンガという二重構造になっている。ロックアイランド(岩島)に立つこの灯台は日本では珍しく灯台の内部に宿泊施設が備わる・・・・・新しい航路の開拓と灯台建設はリンクしており、明治末期に南方の灯台が多く建てられた理由は戦争が関連していたといえる(『海と灯台学』)。
1910明治43年、工手学校(東京市京橋区南小田原町)第4代校長。
―――かねてから生徒の道徳教育に関心を持っていた石橋は・・・・・人倫のあるべき姿を説いた室鳩巣の『六諭衍義(りくゆえんぎ)大意』に「石橋校長注意書」を添えて、全校生徒に配布・・・・・工手学校の生徒は社会から歓迎された・・・・・(『工手学校』)
1911明治44年、安政6年横浜開港時からの吉田橋の掛け替え工事で設計を担当。日本最初の鉄筋コンクリート橋にする。中央の車道には電車軌道二条を敷設、左右歩道の出入り口に橋脚上に半円形の納涼所二ヶ所を設けた。
1918大正7年2月、石橋の代表作、出雲日御岬燈台(島根県)完成。
―――外国人による灯台設計書のアレンジの枠を超え、スコットランドで灯台技術を学んだ石橋の日本の地震を考慮した外壁内壁の二重構造の灯台・・・・・(『海と灯台学』)。
1923大正12年9月1日、関東大震災。
多くの橋が落下・焼失したが、石橋が設計した吉田橋は崩壊せず市民の避難を助けた。
1932昭和7年10月25日、神奈川県葉山で死去。享年79。
―――人となり淳良にして談隔壁を設けず 人教えを乞うあれば 至誠以て之を尽くし 曾て尊大誇張の風を見ず 志気高く潔く 恰も雪氷を見るが如きなり(『全日本博士全伝』)。
石橋絢彦の著述: 土木講義録を刊行し土木学の普及を図り、著作80余冊に上る。 『回天艦長甲賀源吾伝』1936甲賀源吾伝刊行会。 『隧道編』工学書院 『歴【キ】略説』北海道庁 『応力論』工学書院 『築港要論』工学書院 『水理学』工学書院 『欧米築路法』クラーク著勤行堂 『セメント類使方』日本ポルトランド同業会1919大倉書店 『六諭衍義』明の太祖の教え六ヶ条のいましめを衍義(意味を解き明かし)出版ほか。
参考: 『灯台局年報 第8回』1934灯台局 / 『海を越えた日本人名事典』2日外アソシエーツ / 『全日本博士全伝』花房吉太郎・山本源太編1892博文館/ 『工手学校』茅原健2007中公新書 / 『ニッポン灯台紀行』岡克巳2015世界文化社 / 『海と灯台学』日本財団 海と灯台プロジェクト2022文藝春秋 / 『松下直美概蹟:幕末福岡藩洋行の先駆1』大熊浅次郎1928 / 『明治以後本邦土木と外人』1942土木学会 / 『支那の家族と村落』清水泰次1928文明協会 / 『明治工業史』(第2)1929日本工学会 / 『横浜市史稿 風俗編』1931~1933横浜市 / 国会図書館デジタルコレクション
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