詩人・翻訳家・牧野文子と牧野四子吉、庶民のサロン
二月の朝
清新な香気をただよわせて 思いがけなく開いた
一輪の白百合の花 そんな気がするのです
よく晴れたこの朝 武蔵野の疎林のあいだに
くっきりと富士が 雪をかぶって 見えるではありませんか
目をまばたいて いくど見直しても 幻ではないのです
「ほら 富士山が けさは 見えていますよ」 誰にでも知らせたい
気持ちのいい 二月の朝です
東京で いえ日本で 一番高い山が見える朝です
(牧野文子『あめんぼのゆめ』)
牧野 文子 (まきの ふみこ)
1904明治37年1月7日、大阪で生まれる。
*苦楽園開発の実業家・中村伊三郎の長女。
苦楽園:兵庫県西宮市。六甲山南東麓を占める夙川(しゅくがわ)にある高級住宅地。温泉浴場を開業して以来発展。
?年、 神戸女学院大学部英文科(現神戸女学院大学)入学、のち中退。
資産家の「船場のいとはん」で少女時代は才気渙発、人のどぎもを抜くようなところがあった。神戸女学院では「テニスの中村」と呼ばれるほど活動的だった。一方で、詩人河井醉茗の弟子になるなど物静かな面もみせる。
1924大正13年、東京時事新報(産経新聞)に勤務。
?年、 『文化生活』『アルス』などの取材・編集を担当。牧野四子吉と知り合う。
?年、 日本の服飾デザイナー先駆者の山脇敏子(「山脇美術専門学校」創設者)のマネージャー業も務めた。
1929昭和4年、牧野四子吉と結婚。
―――住まいにはイタリア語の「ニード・ダモーレ(愛の巣)」という文字が掲げられていた。二人の家には京大動物学教室の学生をはじめ、多くの若い人や外国人が立ち寄り、夫妻はよく話し相手になった(『民間学事典』)。
<牧野 四子吉> (まきの よねきち)
『広辞苑』の挿図(第五版まで)。『少年少女ファーブル昆虫記』 『生き物図鑑』など。
1900明治33年、北海道函館市で生まれる。
1920大正9年から童画をおもに執筆。1929年以降、生物画を図鑑、論文、教科書に執筆。
四子吉の知人でマキノトーキー製作所理事で荒虎千本組三代目組長・笹井末三郎をたより京都市に転居、左京区北白川で暮らす。京都帝国大学教授の川村多実二との縁で、理学部動物学教室に四子吉が勤め、生き物図鑑画家となる。
1938昭和13年、イタリアの人類学者で登山家フォスコ・マライーニ来日。
京都大学イタリア語講師となったマライーニに牧野文子が日本語を指導。
マライーニは日本山岳会で講演、槇有恒らの要請で入会。のち文子も会員となりイタリア担当委員も務める。さらに夫の四子吉も入会、山は夫婦共通の趣味となる。
文子はマライーニの『チベット』 『海女の島-舳倉島』 『ヒマラヤの真珠』 『ガッシャブルム4』などを翻訳。
1949昭和24年、東京の出版関係から発注が相次ぎ多忙となり、東京文京区目白台に移る。
住まいは京都時代と同じく庶民のサロンであり続けた。
1953昭和28年~1983昭和58年。 詩集『かぜくさのうた』 詩集『土の笛』理論社 詩集『白夜』 詩集『こもれび』など出版。
1959昭和34年、『主人二人の召使い』カルロ・ゴルドーニ著、牧野文子訳。
―――(あとがき) ヴェネツイアを歩いていると、サン・トマーにあるカルロ・ゴルドーニの生家が、今もその舟着き口や窓を水路に映していたり建物に囲まれた晴れた日には優しい陽だまりの何となく親しみの覚えられる小さなサン・バントロメ広場中央に、彼のブロンズの立像が立っていたりするのに出会う。すこしでもゴルドーニの作品に触れたことのある者にとっては、それらが何故かものなつかしい気がするのである。・・・・・(中略)・・・・・二百以上の喜劇を書いたともいわれるゴルドーニも、好評続きのうちにもいろいろとあって・・・・・晩年、フランス宮廷に招かれて渡仏し、その演劇を復興し、やがてフランス革命の変動の中で、極めて惨めな状態でパリで客死している・・・・・。
1964昭和39年、ヨーロッパ、中国を歴訪。
『消えない証言』アルジェリア臨時政府監修・G・ピレルリ編・牧野文子訳。 『海女の島-舳倉島』フォスコ・マライーニ著・牧野文子訳。
1968昭和43年~1982昭和57年
『イタリアは青い空』 『知らなかった美しいイタリア』 『イタリアへの郷愁』 『鳴り始めたオルゴール』。 イタリア民謡「山の大尉」歌詞も訳す。
1969昭和44年、『ヒマラヤ巨峰初登頂記』マリオ・ファンティン編、牧野文子訳。
1976昭和51年、『カガクメイメイホウ(化学命名法)ラボアジエ』田中豊助・原田紀子・牧野文子共訳、 内田老鶴圃新社。
1981昭和56年、牧野文子少年詩集『あめんぼのゆめ』画・牧野四子吉、理論社。
1982昭和57年、『山への旅』著者・牧野文子、装画・牧野四子吉。アディン書房。
―――(鳥海山と月山へ)・・・・・五色沼のへりから沼の向こう・・・・・「雲の峰いくつくずれて月の山」の芭蕉の句碑がある。画人川合玉堂・・・・・両者ともに、「漂泊の思いやまず」にいた人であるし、偶然この二人をそれぞれ心に浮き彫りして・・・・・旅情を一層心楽しいものにすることができた。
―――(あとがき)・・・・・山を歩くのはいつまでたっても楽しみ・・・・・山を目差して、山歩きする前後に、私たち夫婦は、その山に近い町や途中の町を訪れるのを常とした。そんな山への旅をしたあと、書いておいたもののうちのいくつかを、そして夫が現場スケッチした絵のあるのを添えて、この一冊にした。
1983昭和58年、『イタリアの山を行く』牧野文子著
―――(四子吉あとがき)東大分院に入院後まもなく容態が急変、亡くなるまで僅かに20日を過ごしたに過ぎなかった。その前年、国際交流基金の招待で日本にきていたマライーニ夫妻と京都の北山や貴船の渓を遡ったり、琵琶湖の周辺を歩き回ったり、水戸の偕楽園に・・・・・そのころから神経痛がひどくなり・・・・・「イタリアで歩いた山の話」の執筆も不可能に・・・・・(後略)。
1983昭和58年6月8日、死去。 享年79。
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1984昭和59年、『錬金術の起原』(改稿版/古典科学シリーズ1)著者:P.BERTHELOT、共訳:田中豊助・牧野文子、内田老鶴圃刊。
チベット学者・*多田等観の聞き書き『チベット滞在記』多田東観・牧野文子編、白水社。のち講談社から再刊。
―――筆者(山口瑞鳳)は東大で多田先生からチベット語を教わり、その後この方面に踏み込み、多田先生の御世話になったが、あまりお役には立たなかった。そのため牧野さんのお仕事は嬉しかった。牧野さんが苦労して纏め上げたこの書物・・・・・(中略)・・・・・チベットは想像していたより、はるかにすごい国であった。・・・・・多田は寺院での生活や、学ぶことを話した。風俗、習慣について話した。すべて珍しかったが、私の心に強くきざまれたのは、民衆の貧しさと、絶対の権力をもつ活仏ダライラマとそのまわりのことであった。・・・・・(中略)・・・・・牧野さんは『チベット』に洩れた話を再録するために苦労を続け、筆録を重ねて『チベット滞在記』を纏められた。・・・・・(チベット・仏教学者、東京大学名誉教授・山口瑞鳳)。
<多田 等観> (ただ とうかん)
大正・昭和期のチベット語・ラマ教研究者。
1890明治23年7月、秋田県南秋田郷生まれ。父は浄土真宗本願寺派西船寺の住職・多田義観。 44年、京都・西本願寺本山に入山。来日していたチベット僧の世話を命じられ、チベット語を会得。
1919大正8年、ダライ・ラマ十三世に受戒、三衣一鉢を与えられる。 13年、東京帝国大学文学部(印哲研究室)嘱託。
1933昭和8年、関東軍のラマ教対策の顧問として満洲国に派遣。 21年、東大文学部講師。8月、花巻で高村光太郎と対面。 26年、米スタンフォード大学アジア研究所の所員として渡米。 31年1月、牧野文子宅を訪問。チベット滞在記の草稿を手伝うと申し出られる。東洋文庫研究員。 40年、ユネスコより『ダライラマ十三世』(英文)を刊行。 昭和42年2月、東大付属病院にて、心筋梗塞で死去。享年76。
参考: 『チベット滞在記』多田等観・牧野文子編2009講談社 / 『民間学事典』1997三省堂 / 『ゴルドーニ傑作喜劇集』カルロ・ゴルドーニ著・牧野文子訳1984未来社 / 『山への旅』牧野文子著1982アディン書房 / 『イタリアの山を行く』牧野文子著・牧野四子吉装画1984アディン書房
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