富士山剣が峰で越冬し気象観測、野中到(至)・野中千代子
“野中千代子”
(落合直文『高嶺の雪』の後に題す)
ほとけも許す*妹と脊の、 愛とは何を云ふならむ、
神もめでます妹と脊の、 愛とは何を云ふならむ、
いくその人の昔より、 此なさけをば汲みかねて、
恋のあはれを詩に歌に、 遺すもいとど多きぞや。
・・・・・(中略)・・・・・
高嶺の雪のそのひかり 誰かきよしと仰がざる。
か弱き身して脊のぬしの、 その雄ごころを輔けたる、
千代子の君のけなげさは、 雪のきよきになぞらへむ
・・・・・(中略)・・・・・
千代子の君を添えてこそ、 ぬしは増々たふとけれ。
与謝野寛(鉄幹)
妹背(いもせ): 愛し合う女と男。夫婦。妹と兄。姉と弟。
けやきのブログⅡ
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野中 至(到) ・ 野中千代子
1867慶応3年8月、瀧太郎(到)生まれる。
父は旧筑前黒田藩士・野中勝良、東京控訴院(旧上等裁判所)判事。到は長男。
野中到/至: 「至」が多いが、人名事典・新田次郎などは「到」。
1871明治4年、梅津千代子生まれる。
福岡県那珂郡警固村。父は梅津只圓、家は代々能楽を以て藩主に仕えていた。
千代子の母・糸子は至の伯母にあたり、千代子は至の従妹になる。
1880明治13年8月3日、富士山頂最初の気象観測。
東京帝大メンデンホール(アメリカの物理学者)が山頂で重力測定を行い、地理局測量課から和田雄治らが参加し気象観測。
1886明治19年、至、大学予備門に入るも中退。
1889明治22年、至は富士山頂に籠もり、「正確な天気予報をするために、どうしても富士山頂に恒久的な気象観測所を造らなければならない」と、富士山頂越冬気象観測を計画。
1892明治25年、至と千代子結婚。
1894明治27年8月、至、気象学会員。
「富士山気象観測所設立のために敢えて大方の志士に告ぐ」を『気象集誌』に発表。
1895明治28年1月・2月、御殿場口より風雪をおかして富士の偵察を行う。
―――ひとりの従者だに具せずして、かの頂上にのぼりぬ。されど用意いまだ足らざりくむ。五合目に至りし頃、鳶口折れ、靴のそこの釘曲りて、遂にえ登らで、立ちかえりぬ。二月十六日さらに、装具に巧みをこらして、再び登山を試みたり。この時、空あれ、風いとはげしかれしが、屈せず撓ます、遂に絶頂に登りたり。さて、氷雪のありさま、測候所を設くべき場所など、身をはりて無事に下りぬ。・・・・・(『高嶺の雪』)。
8月、駿河国駿東郡玉穂村中畑の農家・佐藤輿平次に預けてあった測候所の建築材料を山頂剣が峰に運び上げ、観測所用建物の工事にとりかかる。
9月30日夜半、報知新聞社・石塚や弟の清らに送られ富士山頂に至達。
―――観測所、すなわち野中小屋は八月下旬に完成し、九月に和田技師指導のもとに、観測機械の設置が行われた。観測機械は気象台から貸与されたもので・・・・・(『富士山測候所物語』)。
10月1日、富士山頂初めての冬期気象観測、1日12回の越冬観測を開始。
10月12日、千代子が山頂に現れ、至を助けての越冬に挑戦。
82日間の観測はわが国の高所観測では最長の記録となった。
12月12日、「野中君、生きてあるか、死にたるか、いかにいかに」・・・・・その顔けしきいと悪しく、いかに衰えたるさまなれば・・・・・御身らのながき山籠りさこそと思いひやらるる・・・・・至、その脛をあらはし、かくの如く腫れふくれぬ。観測所までも、ほとほと歩行に堪えざるほどなり・・・・・和田雄治氏は野中君と呼びつつ入りぬ。この部屋は四畳敷にて、防寒のため、蚊帳を以て折半し、かつ毛布を垂れて幕としたれば、わづかに二尺に四尺の入り口を備えたるのみ・・・・・顔面青じろくして腫れを帯び、毛髪ながながのびて・・・・・和田氏は下山のよしをすすめける・・・・・今は至氏やみつかれて歩行もかなはざれば、熊吉背さし向けて至氏を負ひぬ。夫人も、病後の衰へ、いみじければ、鶴吉の背に負われぬ・・・・・(『高嶺の雪』)。
12月22日、辛抱も病には勝てず、涙の下山となった。至29歳、千代子24歳。
富士山野中観測所の写真を見ると、観測所の小規模なのにビックリ。
観測の成果は『地学雑誌』などに発表され、飢えと寒さと闘った千代子の山頂日誌『芙蓉日誌』は小学読本にも載り話題となった。二人の業績は小説にもなり19世紀的探検の精神を顕彰。
―――野中至氏はいかなる人ぞ。この山の絶頂にて越冬を企て学問のほまれをして、この山の如く高かたしめむとす。・・・・・その妻千代子、女の身をもて、けなげにも、その業を扶けたり。氏の雄心、夫人の貞烈、いかでか世に伝えずして可ならむ・・・・・(『たかねの雪』)。
―――千代子氏の貞操と孝烈とは、妙齢の女子をして、ひそかに愛慕の情を起こさしめ、人の妻たり、母たり、子たるものは、かくてあらざるべからず事をしらしむべし。されば、本書は、女学校は勿論、家庭の間にも、おのづから女子の教へ艸となるべきものあらむ(明治書院新刊案内)。
新田次郎は千代子夫人の『芙蓉日記』からヒントを得て『芙蓉の人』を著したという。次はその「あとがき」より、
―――野中千代子は明治の女の代表であった。新しい日本を背負って立つ健気な女性であった。封建社会の殻を破って、日本女性此処にありと、その存在を世界に示した最初の女性は野中千代子ではなかったろうか。世界中の女性誰もが為し得なかった、3776メートルという高山における冬期滞在記録の樹立は、彼女がその記録を意識してやったことではないから更にその事跡は輝いて見えるのである。・・・・・(新田次郎)。
1897明治30年、『*女大学:新撰』吉川春濤、出版者・黒岩周六(涙香)。
女大学:江戸中期以後、女子の修身書として広く読まれた教訓書。
『女大学:新撰』
頁を3段に分け、上段・吉川春濤、中段・山崎良夫、下段・野中千代子の順に記。
吉川春濤、山崎良夫とも、家、貞操とか女子は万(よろづ)の事 常に控えめなるべきなり・・・・・といった調子である。
ったせいもあると思う。次は野中千代子の「新撰女大学」の十項。
―――人の世にあるみな身を修め家を治むるをつとめとす・・・・・女徳とは 一に貞操 二に温順 三に倹約 四に恭謹 五に親切 六に寛容 七に仁愛 八に忍耐 九に和楽 十に勤勉を云ふ・・・・・(本文は一~十まで叙述)。
1901明治34年、財団法人大日本夫人教育会、通常会員。
1909明治42年、野中千代子述、「博愛と友誼」より
―――○仁愛の説 人と生まれては、貴(たふと)きも賤しきも、富めるも貧しきも、身に厚く善事を行ひて、人の憂ひをあはれみ恵み、人の苦しみを助け救ふについて、願うことふことは心に深く陰徳をたもち、常に之を以て、志といたしたいもので御座います・・・・・(『座右の銘』)。
1923大正12年2月22日、野中千代子死去。享年52。
野中一家はインフルエンザに襲われ、千代子は病をおして家族を看病していたが倒れる。
1936昭和11年7月15日、中央気象台富士山測候所が正式名称となり、富士山剣が峰に新庁舎を建設し、移転。
1955昭和30年2月28日、野中至死去。享年88。
野中至・千代子夫妻の墓は、東京都文京区音羽の護国寺。
参考: 『民間学事典』1997三省堂 / 『たかねの雪』落合直文1896明治書院 / 『芙蓉の人』新田次郎2014文春文庫 / 『富士山測候所物語』志崎大策2002成山堂書店 / 『天地玄奥』与謝野寛1897明治書院 / 『女大学:新撰』吉川春濤ほか1897黒岩周六(涙香) / 『座右の銘:精神修養』多田省軒1909岡田文祥堂 / 国会図書館デジタルコレクション
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