小説家『江戸から東京へ』・俳人正岡子規の弟子、矢田挿雲
『広辞苑・第七版』で[東京]をひくと
―――1868年9月(慶応4年7月)、江戸幕府の所在地であった江戸を東京と改称、京都から遷都する。
さらに、東京○○・東京△△学校など各種の施設がたくさん並んでいる。東京スカイツリー・東京湾ーアクアラインもあるが、この二つ、年にわたり愛用の『広辞苑』には出てない。
点訳ボランティアをしていた頃、先輩から辞書は著作物と同年代のものが良いと教わった。それにまた自分は歴史好きだから古くても構わないしと、『広辞苑・第一版』を使い続けていたが、ある日、パックリ! 真っ二つに割れてしまった。
さすがに割れた辞書は使いにくい。しかたなく他の辞書を使ったが、馴染まない。物を大切にといっても限度があるようで買い替えた。新しいのは使い勝手がいい。早くそうすれば良かった。
しかしまあ、古く黄ばんでも捨てられない本がある。
たとえば、歴史読み物の書き手として活躍した矢田挿雲『江戸から東京へ』である。
大正期に『報知新聞』連載されたのを出版したものであるが、読みやすく物語にすっと入れる。著者の矢田挿雲は歴史読み物の書き手として活躍、人気があったのがうなづける。
―――東京市中それぞれの地域の昔と今を自在に往復しながら、その地域を舞台とするできごとを、市井からの視点で、つぎつぎに人間くさいドラマとして展開した。あふれる懐旧の情、洒脱な批評眼、軽妙な筆致は、東京の急速な変貌を実感しつつあった読者に、圧倒的な好評をもって迎えられた・・・・・(鹿野政直『民間学事典』)。
筆者の先祖は寛永寺の宮大工、明治生まれの父は浅草育ち、墓は谷中というふうで『江戸から東京へ』とくに「浅草編」が気に入っている。著者の矢田挿雲について、何も知らないのでみてみた。
矢田 挿雲 (やだ そううん)
年譜はおもに『大衆文学大系8 矢田挿雲』参照。
1882明治15年2月9日、石川県金沢市で生まれる。本名・義勝。
家は秀吉の代からの加賀藩士。祖父の代まで藩医、父は軍人。
1889明治22年、牛込愛日小学校入学。
父の転勤で仙台の師範学校附属小学校入学。
1894明治27年、日清戦争。
正岡子規、記者として従軍し帰途、喀血。療養ののち松山に滞在、その間、夏目漱石を俳句の道に引き入れる。以後、病苦と闘いつつ俳句革新を唱える。のち『ホトトギス』創刊。
仙台県立第一中学入学。
軍人になるつもりで水泳・柔術などしたが、近眼になり運動から遠ざかる。読書にふけり『日本外史』『十八史略』『八犬伝』 *巌谷小波『黄金丸』など少年文学もの、*徳富蘇峰の「静思余録」など読みあさる。
巌谷小波:童話作家。硯友社同人。博文館で『少年世界』を主宰。
徳富蘇峰:ジャーナリスト。熊本洋学校、同志社に学ぶ。『国民之友』『国民新聞』創刊。
1898明治31年、16歳。
俳人・内藤鳴雪の文庫の募集俳句に応募して入選。俳句に熱中しだす。
1900明治33年、18歳で上京。早稲田専門学校入学。
早稲田在学中、女子大在学中の妹が発病、看病のためにほとんど鎌倉の寺で過ごす。学業の方は講義録を送ってもらっていたが、*正岡子規に師事し句作に励み、俳書を読むのに熱中していた。
1904明治37年2月10日、ロシアに宣戦布告。日露戦争始まる。
1908明治41年夏、『九州日報』社長・*福本日南の招きで同新聞の編輯主事となり、親しく指導を受ける事ができた。『九州日報』連載、日南の「元禄快挙録」は挿雲の「忠臣蔵」にも強く影響している。
福本日南(誠):ジャーナリスト。司法省法学校に学び、政教社同人、『日本新聞』入社。アジア問題に関心を寄せ、菅沼貞風とルソンに渡る。1905明治38年、『九州日報』主宰。
? 年、記者生活8~9年、日南の帰京に伴い挿雲も退職。
愛媛県松山の道後温泉で湯治一年。この間、子規の同門、柳原極堂の新聞創刊を助けた。
1912明治45年/大正元年、7月30日明治天皇崩御、嘉仁親王践祚・大正と改元。
1913大正2年、早稲田同窓会の大御所・早速整爾を広島の『芸備新聞社』に訪ね、以来約3年に亘り同社で働く。
1914大正3年8月23日、ドイツに宣戦布告。第一次世界大戦に参加する。
鎌倉に帰る。鎌倉に住んでいた*高浜虚子との交流が再びはじまり、親しく行き来するようになる。
高浜虚子:俳人・小説家。正岡子規に学び、『ホトトギス』を編集。17字の定型と季題の伝統を守り、写生を主張。
1915大正4年、帰京。『報知新聞』に入社。社会部記者として、少年時代の俳友・*野村胡堂社会部長のしたで働く。
「大日本俳交会」結成、機関誌『千鳥』主宰。
けやきのブログⅡ2012.9.9<銭形平次、野村胡堂(岩手県盛岡市)>
1920大正9年6月、「江戸から東京へ」を胡堂のすすめで『報知新聞』に連載。
―――洒脱な文章で処々に諧謔を交えた雑感ふうなスタイルに彼一流の俳味も加わって広く読まれた・・・・・(『現代日本文学大事典』)。
連載は人気を博し1923大正12年まで続いたが関東大震災で中絶。題は胡堂がつけた。内容は、第一章「麹町区」からはじまり神田区・日本橋区・京橋区・本郷区・下谷区・本所区・深川区・小石川区ほかで、のち続編、補遺など出版される。
連載途中から、伊藤深水・竹久夢二・岡本一平らの挿絵入り美麗な九冊本として刊行され、江戸・東京ものの古典、史蹟文学散歩のはしりとなった。
―――本郷区にちなめる俳句
年札や鳴雪住める真砂町 子規
赤門を入れば椿の林かな 同
駒込の坂を下れば冬田かな 同
魚十の灯や木の間より春の月 挿雲
1923大正12年9月1日、関東大震災。
10月『改造』大震災号に「江戸から東京への地震ごよみ」・11月『中央公論』に「灰燼に帰して了った江戸名所」を発表。
1924大正13年1月~7月、長編小説「沢村田之助」を連載。
7月23日、横浜から渡米。翌年秋、帰国。
1925大正14年、43歳。第一次『大衆文芸』創刊。
「太閤記」を『報知新聞』に連載、好評で1934昭和9年まで書き継ぐ。完結後12巻本として刊行。ベストセラーとなる。
1926大正15年/昭和元年、12月25日大正天皇崩御。裕仁親王践祚、昭和と改元。
月刊誌「大衆文芸」発刊。『世界放心遊記』『清水次郎長』『沢村田之助』など出版。
1935昭和10年秋より、「忠臣蔵」を連載。1940昭和15年春、完結。
1937昭和12年7月7日、盧溝橋事件で日中戦争おこる。
1941昭和16年2月~1942昭和17年8月。
『報知新聞』に<小石川区篇>の続稿として「後編・江戸から東京」を連載。
―――本編執筆中から、「日本の骨董的仮名使いを全然一掃」したいとの気持ちがつよまり、『江戸史蹟巡り 熱灰を踏みつヽ』『相馬事件の真相』などでは、「当時わ毎日のように新聞え出た地名」のごとく、純粋に表音式の表記に踏み切っている(鹿野政直)。
1942昭和17年、60歳。『読売新聞』との合併により、報知新聞社を退職。京都嵐山の上流にある寺に疎開、文壇から遠ざかる。
以来、子規派の俳句の鼓吹に尽くし、句作三昧の生活を送る。
1945昭和20年8月14日、ポツダム宣言受諾回答。
1950昭和25年、東京に戻ってからも句作三昧の日を送る
1956昭和31年12月18日、国連総会、日本加盟可決する(80番目の加盟国)。
1961昭和36年8月、「正岡子規と弟子たち」を『朝日新聞』に発表、絶筆となる。
12月13日、市川市の自宅で老衰のため死去。享年79。
参考:『矢田挿雲集 江戸から東京へ』(現代大衆文学全集第三十六巻)1929平凡社 / 『大衆文学大系 矢田挿雲・松田竹の嶋人』1971講談社 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院 / 『民間学事典 人名編』1997三省堂 / 『近現代史用語事典』1992新人物往来社 / 『広辞苑 第7版』編者・新村出2022岩波書店
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