明治丸、灯台巡回船・東北巡幸の御召(おめし)船
「歴史が好き」に同感されるとうれしい。でも、「戦国武将が好き、明治はちょっと」などと時代の好みは分かれる。かつて自分も戦国武将が好きだった。
なにしろ近代日本は帝国主義、アジア侵出の史実を避けられない。大学の日本近代史講座でそれを突きつけられ、教室中がシーンとしたことがある。
「近代は触れないようにしよう」とさえ思った。しかし、「ある明治人・柴五郎」に出会って変わった。
教科書に載らずとも立派な人物はいる。男子優先の世に屈せず活躍した女子が居る。それにきれい事ばかりではなく近い昔の史資料はけっこう残されている。地道に掘り起こし、先人の著述も参考にして紹介できたら愉しい。
そうして始めたブログ、長く続けているせいか同じ人物・事例に行き当たる。"明治丸"もそうで、その航跡を見たくなった。
けやきのブログⅡ
<2023.1.28 灯台事業の先がけ・コンクリート、工学博士・石橋絢彦>
<2012.11.17戊辰戦争スネルと横尾東作(仙台藩士)>
明 治 丸
1873明治6年12月、工部省灯台局が灯台巡視船としてイギリス・グラスゴーのネピア造船所に発注した鉄製2軸汽船(スクリュウー船)。
燈台巡廻船として工部卿伊藤博文が計画、政府専用船としても用いられ、明治丸と名付けられる。
総トン数1028トン、長さ70.3m、巾8.5m、深さ7.6m、甲板層数2、主機二連成2基、速力11.5ノット。
当時、日本において1000トン以上の船は非常に少なく、また外国に注文して造らせたのは全くなかったので当時の優秀船であった。
1875明治8年2月、スエズ運河を経由して横浜に着港。
回航員はイギリス人船長ほか外国人ばかり53名。乗組全員が日本人となるのは18年後である。
<小笠原諸島の江戸から明治>
1593文禄2年、信濃深志城主・小笠原貞頼が小笠原諸島、東京湾南方1000kmの父島・母島を中心とする群島発見。日本は鎖国していたので放置、幕末まで無人島にひとしかった。
1827文政10年、イギリス軍艦が探検し占領、その後アメリカ人が移住。
1853嘉永6年6月、ペリー小笠原島、浦賀に来航。幕府は小笠原は日本領であると主張。翌年ペリー再来、日米和親条約を結び開国。
1862文久2年、幕府は咸臨丸を小笠原に派遣、巡検を行い石碑を建てる。
1868慶応4年/明治元年、幕府倒壊。明治新政府になったが多事多難なため小笠原問題は先送り。解決は9年後、明治丸が調査団を運ぶまで待たなければならない。
* * * *
1876明治9年、英米は小笠原領有を放棄し、日本が小笠原領有を各国公使に通告。
7月、明治天皇の奥羽・北海道、東北巡幸の御召(おめし)船となる。
明治天皇は6月2日に東京を出発。7月14日陸路、青森に到着。7月16日、明治丸にて青森より函館まで乗船(錦絵『函館港烟花天覧図』)。18日函館を出港、風波が強かったが無事に7月20日横浜に帰着(昭和16年、この日をもって<海の記念日>と定められる)。
11月5日、軍艦「雲揚」が紀州大島沖で「名古屋丸」と衝突し座礁、沈没し明治丸が救助に急航し救助者を乗せて横浜に寄港。
―――航路標識ノ視察船・明治丸ハ航海スルコト九回、第一回は横浜及富津浮標交換のタメ・・・・・第八回ハ横須賀近海北中根礁ヘ新設スヘキ浮標ノ位置測定ノタメ、第九回ハ渡島国白神崎ヘ霧笛械輸送ノタメ・・・・・(『逓信省年報 第3』)。
1877明治10年、西南戦争。
2月、灯台巡航船・明治丸も西南戦争に使用され鹿児島に向かう。
?月、小笠原諸島の領有権問題が起きた際、日本政府調査団をのせて横浜を出港。この時の調書が小笠原領有の基礎ともなったという。
1879明治12年、琉球藩を廃し沖縄県設置(清国より抗議)。
―――琉球処分、日清両属の琉球を強制的に日本領有とする過程。明治政府は明治4年琉球を鹿児島県管轄下に入れ、翌年琉球藩を設置。台湾出兵後、対清断交を命じる。松田道之を軍隊として派遣して沖縄県を設置・・・・・(『近現代用語事典』)。
軍隊による接収が終わった那覇港に、明治丸は勅使・侍従富小路敬直一行を乗せて4月12日入港、同月27日、中城(なかぐす)王子を乗せて出港。
―――旧藩王および吏員は評議ついに整ひ、王子中城尚典氏を出京せしむる事に決し4月29日王子は・・・・・56人を従ひ勅使富小路らと共に明治丸に乗組・・・・・琉球の諸氏は一同礼服を着し中城王子の見送として出られたり・・・・・祖先累代の国を去るの情も思ひやられ諸氏の意中も察しられし・・・・・(『日本支那琉球記聞』)。
? 年、 明治丸は海底電線敷設船となって活躍。
1882明治15年、明治政府が三菱会社(岩崎弥太郎社長)に造らせた三菱商船学校が官立・東京商船学校となる(のち東京海洋大学)。
?月、仁川領事館建設用材を5度に渡って輸送。
4月、北海道、イギリス船座礁、救助に赴く。
―――北海道日高地方の南端、襟裳岬西側の海岸で英国船メリー・タサム号が座礁。700人を超える乗員が上陸・・・・・函館県は外務省に対して、英国人の食糧などが欠乏に近づき、清国人の病者に死者も出ていることを伝え、早く迎えの船を寄越すよう催促した。外務省は再度、工部省に依頼して明治丸に函館まで輸送する約束を取り付け・・・・・6月1日の午前9時、明治丸がついに幌泉に到着した。午後4時までに乗船を終えて出航。翌二日朝に函館に入港・・・・・(「一八八二年四月、襟裳岬近くで座礁した英国船」)。
1887明治20年、仙台の人横尾東作と島々の開拓を主張する東京築地の玉置半右衛門は官許を得、灯台巡回船・明治丸で三宅・八丈・鳥島、小笠原を経て硫黄島探検の航海に出る。以来、官民共に南洋に興味をもち、南洋貿易や殖民などを企画する。
ちなみに1893明治26年、榎本武揚の主唱で殖民教会を設立、当時の会員は400名。
1893明治26年、明治丸建造から18年、乗組全員日本人となる。
1894明治27年、日清戦争。
海底電線の修理作業など本務以外の種々の任務に服す。
1895明治28年6月~9月、朝鮮に於ける航路標識事業。
明治丸に朝鮮全沿岸における灯台建設位置の調査をさせる。
1896明治29年9月、商船学校に貸与される。
1897明治30年11月、商船学校に移管される。
1915大正4年、<明治丸>
――― ○名誉ある明治丸は、今、東京商船学校の練習艦になつて、学校の船渠(ドック)に碇繋(ていけい)してある。この船は、最早や、活動することは無い。全く、繋留練習船として、学生の操帆その他甲板上の作業を練習する舞台になつて居る。
○東京商船学校は、隅田川の河口、相生橋の南畔に在る。これから直ぐに広々として東京湾の海波に続くので、明治丸は、遠く遠く品川沖から眺められ此の河口に向つて来る目標になるのだ。・・・・・当時、最も進歩したるハイカラ船であつた事は想像せられる。併しながら今の人からみれば、古い小さい、粗末な船で在る。唯だ其の船形が如何にも立派に造られてあるので、自然に、威儀が備はつて居るやうに見えるのは、御座船に適当して居た・・・・・(『人物と事業』)。
1978昭和53年、国の重要文化財に指定。
参考: 『日本史辞典』1981角川書店 / 「明治丸要目考」庄司和民 『 東京海洋大学研究報告.(3)』 / 『世界大百科事典』1972平凡社 / 『人物と事業』横山健堂1915東亜堂書房 / 『日本の木船』立川春重1944フタバ書院成光館 / 「一八八二年四月、襟裳岬近くで座礁した英国船」山田信一2019『北海道博物館研究紀要(4)』 / 『灯台局年報 第8回』1997灯台局 / 『逓信省年報 第3』1889逓信省 / 『日本支那琉球記聞』中西才一郎1880 / 『近現代用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社
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