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2023年3月11日 (土)

1912~1926大正期の女子

 明治は45年、大正は15年、合わせて60年、昭和はそれより長く64年。大正時代はかなり短い。
 その短い時代は大正デモクラシー、二度の護憲運動・原内閣の成立により政党政治が定着、第一次世界大戦により経済が進展、外交面でも国際的地位を確保した。
  ―――文化という言葉は、大正時代になってはじめて出て来た言葉で、ちやうど私(三木清)たちが高等学校時代にはじめて日本に現れてきた言葉である。さういふ言葉の代表してゐるのは何かといふと、教養といふ考へ方で・・・・・その教養といふのは何かといふと・・・・・反政治的といふか、政治に対して無関係な一つの教養をいつも意味した・・・・・(『一語の辞典 文化』)。
 そのような大正時代を生きた女性を『新聞集録大正史』その他で見てみた。

 1913大正2年、<帝劇の森律子帰朝せん>
  ―――去る三月渡欧し欧州各国の劇を視察しつつある森律子は今月下旬帰朝の途につく由にて帰途は小山内薫氏と共に西伯利亜(シベリア)線を経由し今月二十日頃浦盬(うらじお)に到着・・・・・(7.4読売)。
   小山内薫:明治・大正の劇作家・演出家。戯曲の翻訳・翻案など日本の新劇界の先駆者的存在。

  8月16日、東北帝国大学理科大学に初の帝大女子学生三名合格。

 1914大正3年、3月26日、*芸術座「復活」初演、須磨子ほか帝劇で好評を博す。
   芸術座:*島村抱月を中心に女優松井須磨子・秋田羽雀らによる新劇団体。
    島村抱月:『早稲田文学』や文芸協会で自然主義文学・新劇運動を展開。

  4月1日、宝塚少女歌劇第1回公演「ドンブラコ」。
  4月3日、読売新聞、婦人附録面新設(婦人欄の初め)。
  4月27日、<「不如帰」(ほととぎす)誤解されたる捨松夫人>
  ―――徳冨蘆花氏の『不如帰』は新内大臣・大山巌公令嬢・信子の君の悲しき一生をモデル・・・・・事実と相違ある事は勿論であるが、世間往々信実と誤解してるやうで・・・・・捨松夫人は旧会津藩士・男爵山川浩将軍の令妹で、八歳の時米国へ渡り・・・・・紐育(ニューヨーク)のポツクプシイ女学校で教育を受けられた。性快潤、才高遠なるは其の輝く眸にもしれる。供をも従えず一人で電車にて買物をしたり来客の時なども自ら廊下に出て女中を呼ぶという風である・・・・・捨松夫人が信子嬢をかばはなかつたと云ふやうな事は賢明な夫人としてあるべき筈はない・・・・・(4.27読売)
  8月23日、日本ドイツに宣戦布告。第一次世界大戦に参加。
 この年、「カチューシャ」「ゴンドラの唄」流行。

 1915大正4年、<女高師出の就職難
  ―――大学卒業生の相場は益々低下・・・・・女子高等師範の卒業生ばかりは数も少ないが、従来一人の落伍者も出ず、学校を出るとすぐ二十五円から三十五円・・・・・上景気だったが今年は九十一名の卒業者中約一割五分はまだ就職が決まらない・・・・・男学生同様就職難を訴へる時期が早晩来そうである・・・・・(3.31都)。

 1916大正5年1月、中央公論社『婦人公論』創刊。
  11月9日、大杉栄、伊藤野枝との三角関係で神近市子に刺される。
  12月9日、夏目漱石が胃潰瘍で死去。49歳。

 1917大正6年2月、『主婦の友』創刊。
  10月20日、帝国教育会、第1回全国小学校女教員大会(女教員、全教員の3/1)

 1918大正7年3月17日、<何故の出兵か与謝野晶子(横浜貿易新聞)。
  4月、東京女子大学校開校。学長・新渡戸稲造。学監・*安井哲子
    安井哲子:明治・大正・昭和期の女子教育者。イギリス留学。
  4月13日、地方女子青年の連絡機関として処女会中央部設置(内務・文部両省の提案)。

  7月、<米騒動の始まり・女房連の一揆
    富山県魚津町の漁民の妻女ら数十人米の出荷中止を要求し騒ぐ。
  ―――米高に堪りかね「餓死する」・・・・・三百余名米屋へ押しかく(8.5大阪朝日)。
  ―――「富山の女一揆には一人の起訴もない」当局の処置もよかつたが、彼等は一切乱暴を避けた・・・・・(9.10東京日々)。

  9月、東北大学卒業後、眞島博士の助手として専ら古代紫の研究に従事し居たる理学博士・黒田ちか子女史(三十八)は、研究成りしを以て、今回母校なる東京女子高等師範学校に教鞭をとるべく、仙台を去り上京・・・・・(9.9報知)。
 けやきのブログⅡ2013.10.12<科学・数学女子、女性初の帝大生・黒田チカ、その一>

 1919大正8年、<改良したい女工生活・夜勤だけは是非止めさせたい>
  ―――農商務省商工局のお談を伺ひますと、女工の数は全職工の約六割位で、烈しい力の要する労働の他は製糸紡績等を初め一般の繊維作業には何れも妙齢な婦人が携わつて見事に我国産の基を作り出してゐるのです。・・・・・夜昼となく働かされるので、工場を出てから嫁しても家事や針仕事は全く不得手で・・・・・只今ではだんだん、婦人という者にそれぞれの理解も有たれ(後略)・・・・・(1.24読売)。

 1920大正9年、第一次世界大戦により日本は好況であったが、その反動が現れ不況の波は全国に広がる。
  3月28日、<新婦人協会>発会式。
  ―――平塚明子(雷鳥)市川房枝奥むめを三氏の発起になる新婦人協会・・・・・上野精養軒で開催されました。会衆二百名・・・・・(3.29読売)。

 1921大正10年5月、<愛国婦人会総会>日比谷公園にて開催。
  ―――爆音空に轟して嚠喨(りゅうりょう)たる国家の吹奏が起つた。畏くも皇后陛下の行啓であった・・・・・(5.8国民)。
  10月、歌人・柳原白蓮、夫の炭鉱王・伊藤伝右衛門に絶縁状を叩きつけ、愛人・宮崎龍介のもとに走り話題となる。

 1922大正11年、<家事の百科全書>
  ―――女学校あたりで教える家事と云ふものも極めて雑駁で・・・・・系統的な纏まつた知識とする様な科学的の組織が立つて居ないといふところに着眼して、大連の高等女学校教頭である甲斐久子氏が「生活改善系統的家政講話」と云ふ上下二冊 一千頁に余る大著を文化図書刊行会から出版されました。・・・・・(6.23読売)。

 1923大正12年9月1日、関東大震災。
   マグニチュード7.9大地震が関東一円を襲い、電信、電話、無線電話も不通となり津波襲来、東京は地震に次ぐ大火災で大混乱に陥った。死者約9万。

 1924大正13年3月、東京市、水道橋に婦人職業紹介所開設
     <婦人よ働け 働くには洋服に限る
  ―――陸軍戸山学校で催された都下四十余校の私立高女聯合奉祝大運動会の時、七十メートル競走に、一着から三着までの者が洋服であつた所から、各学校当事者は今さらの如く洋服の活動的な事に気づいて・・・・・(5.10万朝報)。

  ―――夏、芥川龍之介は仕事と休養をかねて、長野県軽井沢のつるや旅館に一か月ほど滞在した・・・・・滞在中の芥川にとっての最大の事件は、片山広子との交際であった・・・・・片山広子は歌人であり、アイルランド文学の翻訳家としても知られ・・・・・松村みね子の筆名を用いている・・・・・広子は46歳になっていた。龍之介は32歳・・・・・芥川は片山広子との恋愛の危機を「越し人」などの叙情詩をつくることで脱出する・・・・・(『芥川龍之介』)。

 1925大正14年、<松平保男子の長女芳子姫を秩父宮妃として内定さる>
  ―――父君保男子爵は海軍大佐で海兵団の団長として呉軍港に起居・・・・・姫は小石川第六天町の御留守宅で三人の御妹さん達の面倒を・・・・・今は女子学習院後科の三年級で来春卒業・・・・・(4.16報知)。

   <近代日本社会史の古典女工哀史』改造社>
  ―――細井和喜蔵によって書かれた紡績女工の記録・・・・・みずからの15年にわたる紡績労働者としての体験と妻としをの女工体験に根をおく当事者として・・・・・女工募集や雇用契約、労働条件や寄宿生活・・・・・女工の心理や性格、恋愛や性にまで拡がり、そのマイナス面をもふくめ、ある徹底性をもって描かれた・・・・・(『民間学事典』)。

 1926大正15年、<最初の女医の留学>
  ―――東京女子医学専門学校では海外留学生派遣の制度を初めて設け、同校を優等で卒業する中尾朝子さん(二四)に白羽の矢をたてた・・・・・(20.5読売新聞)。
  8月27日、第2回国際女子競技大会で人見絹枝・個人総合優勝。
   けやきのブログⅡ2021.1.16<アムステルダムオリンピック・人見絹枝、東京五輪・東洋の魔女>

 

   参考: 『新聞集成大正史』1978大正出版 / 『日本教育小史 近・現代』山住正己1996岩波新書 / 『芥川龍之介』関口安義1995岩浪新書 / 『日本史年表』歴史学研究会編1990岩波書店 / 『一語の辞典 文化』柳父章1995三省堂 / 『民間学事典 事項編』1997三省堂 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 

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