« 小説家『江戸から東京へ』・俳人正岡子規の弟子、矢田挿雲 | トップページ | 1912~1926大正期の女子 »

2023年3月 4日 (土)

明治の新聞に見る女子

 3月、雛飾りをしなくなって何年たつだろう。すっかり無精になってお内裏様、三人官女に五人囃子、雪洞もしまったままだ。
 雛人形を楽しく飾っていたころ、「Aちゃんのお母さん」「B君のお母さん」と呼ばれていたが、別に何も思わなかった。
 ところが、そういう呼び方を嫌がる同世代がいて、「名前で呼んでほしい」という。
 そういうことを考えたこともなかったから、彼女の拘りが不思議だった。
 聞けば、○○の奥さん、誰それのお母さんである前に、一人の人間だという。言われてみればその通りで感心したが、いつしか忘れた。
 たまたま、新聞の「国際女性デー(3月8日)を前に」という記事を読み、ふと、子育て中のその話を思い出した。

    <自分で考え、主張できる世に>(毎日新聞2023.2.25夕刊)
 ―――女性初・元NHKアナウンス室長 山根基世。「自身も悩んだ差別と不公平に一矢」・・・・・1971昭和46年に入局。同期のアナウンサーは30人で、そのうち女性は山根を含めわずか2人だった。当時、女性アナウンサーは男性とは別の仕事・・・・・女性は、祭りや桜の開花といった花鳥風月や街の話題のニュースを読むケースが多かった。・・・・・(中略)・・・・・世界的に見て、日本は男女平等とはいまだにほど遠い。・・・・・「ジェンダーギャップ指数2022」では、日本は146ヵ国中116位。男女の公平が実現されておらず、女性が充実して仕事が出来る環境になっていない実態を示す側面もあるだろう・・・・・(後略)。

 ジェンダーギャップ指数、日本の順位は低いと思ってはいたが下から30番目とは! およそ140年昔の明治期から進歩してるのかな? 
 引用文末( )内の年号は明治。

 1882明治15年:軍人勅諭を発布。
   板垣多助、岐阜で遭難。ソウルで朝鮮兵反乱、日本公使館襲撃。
     <さわやかな演説に女性傍聴者ふえる
  ―――大阪府下、立憲政党の定期演奏会へ毎度出場する客員*岸田俊女は、西京松原通りの呉服商・岸田茂平の娘にて、幼年より才学の聞こえありし人にて、漢洋二籍に通じ弁舌清爽なるをもって、演壇に登るごとに喝采を得ざることなしと。これまで婦女の傍聴する者とては暁天の星たりしも、俊女の出席以来は女子の傍聴に出かける者逐次に増加せしという・・・・・(明治15.5.8時事新報)。

けやきのブログⅡ<2020.12.19明治の女子さっそう、岸田俊子・清水豊子・樋口一葉>
   
 1883明治16年~1890明治23年、<女学校フィーバー
   フィーバーというから続々と女学校設立と思ったら7年間での話。女子は教育機会に恵まれなかったと分かる。そして今も大学入試などに男女差別がありそう。思い過ごしだといい。
  ―――「大阪に女学校」*大三輪長兵衛氏が校主となり、私立大阪女学校を設立し、東京女子師範学校卒業の教員を聘し普通、高等の二科を教授せん・・・・・(16.10.20朝日新聞)。

   大三輪長兵衛:実業家。1900年アメリカの鉄道業者モースからその鉄道敷設権を買収する事に成功し、朝鮮で政治・経済の方面で活躍した。

   <津田梅子ら、明治女学校設立18.9.11東京朝日新聞。  <桜井女学校で英語を学ぶお嬢さん18.2.8東京横浜新聞。  <共立女子職業学校創立19.8.11朝野新聞。  <東洋英和女学校、洋風に新築19.12.25東京日日新聞。  <女子教育奨励会を伊藤博文邸に開く20.1.14東京日日新聞。  <新潟英和女学校設立20.3.4東京日日新聞。  <跡見女学校、小石川へ移転>20.3.4東京日日新聞。  <女性教師の哲女館>21.2.19毎日新聞。  <フェリス女学校の島田かし子、アメリカで評判21.5.30東京日日新聞。  <東京女学館隆盛23.1.9朝野新聞

  けやきのブログⅡ<2014.11.22桜井女学校と桜井ちか(東京)
  けやきのブログⅡ<2021.3. 6海老茶式部と自転車、明治の女子教育>

 1886明治19年、<*矢島楫子と婦人矯風会
  ―――去る十一月、麹町区中六番町なる桜井女学校長・矢島かぢ女子ほか数十名の主唱にて婦人矯風会なるものを設け、婦人社会の弊風を矯め、飲酒、喫煙を禁じ、もって婦人の品位を進めんとて・・・・・日本橋区両替町の耶蘇教会堂において役員選挙を開きし・・・・・(19.12.12朝野新聞)。

   矢島楫子:明治・大正期の教育家。矯風会会長として廃娼運動に奔走。婦人参政権獲得期成同盟会に加盟。生涯、女子教育・婦人運動に尽くした。

 1889明治22年2月11日、大日本帝国憲法・衆議院議員選挙法、貴族院令公布。
     <大磯に水着の女性
  ―――避暑の旅行は近頃官吏、学生ばかりに限らずして・・・・・紳士、紳商の類も多けれども、大磯に滞留する旅客中・・・・・殊に驚くべきは婦人連の大胆にも浴場に遊泳し、塩気強き大濤(おおなみ)の恐ろしき音にて打ち来たるにも構わず、妻君、令嬢並びに女教師、女性とらしき連中が、身に薄き金巾(かなきん)の西洋寝巻を纏い、首に大なる麦藁帽を冠り・・・・・余念もなく遊び戯むる・・・・・(22.8.17朝野新聞)。

 1894明治27年8月1日、日清戦争。
 1895明治28年4月、日清講和条約。三国干渉。
     <銃後・妻の鏡
  ―――神奈川県下橘樹郡田島村字大島百五十番地 平民青木勘右衛門の長男・浪次郎は、客年七月以来第一軍にありて戎馬の間に奔走しつつあるが・・・・・妻ヤノはもっぱら両親に孝養を尽くし・・・・・毎朝午前三時、平間寺の梵鐘とともに寝所を出で、寒風凛烈、肌を刺すをも厭わず井戸端にて水垢離を取り、徒跣して村の鎮守を巡拝し・・・・・良人の武運長久、息災延命を祈・・・・・参詣終われば農具を担いで田圃に赴き・・・・・(28.2.27毎日新聞)。
  ―――地獄の山頂で野中至夫妻がんばる・・・・・(28.9.12時事新聞)。

  けやきのブログⅡ<2023.2.11富士山剣が峰で越冬し気象観測、野中到(至)・野中千代子>

 1896明治29年、<樋口一葉―――哀しくも美しく燃え
  ―――期待の新鋭作家、病床につく。着想の奇警にして文章の巧妙なる、近事の文壇優に一頭角を現し、おさおさ先進の男作家を凌がんとすとの世評高き閨秀作家 樋口一葉女史は、近頃病褥にありて・・・・・あわれ薫蘭茂らんと欲すれば、秋風これを破るとかや。女史、乞う我が文壇のために自愛せよ・・・・・(29.8.19読売新聞)。

  けやきのブログⅡ<2012.10.28樋口一葉『たけくらべ』(真筆版)と露伴・藤村の序>

 1898明治31年~36年、<女工虐待とザル7法・工場法案
   工場法諮問案(31.9.9時事新報)。  三井、女工の労働時間を十二時間に延ばす(32.1.4時事新報)。  鐘紡の女工虐待、監獄のごとし(34.8.1新聞新聞)。  殴る蹴るの暴行(34.9.8時事新報)。  幸徳秋水、法案にかみつく(35.10.24万朝報)。  製茶女工、ストで賃上げかちとる(36.11.29平民新聞)

 1899明治32年、<幸田幸も海外修行に>(姉の延はウィーン、幸はドイツに留学)
  ―――バイオリンの名手幸田幸子、音楽研究のために洋行することとなり、芝なる長兄・郡司茂忠大尉の基に、向島の令兄・幸田露伴子を始め姉上・延子嬢など・・・・・留別の席を開きたるが・・・・・大尉卒然幸子を顧みて「お前もいい加減にバイオリンを捨てて軍曹でも憲兵でも良いから人の妻になってはどうだい」と戯れしに、幸子はホホと笑いて、「お嫁にいって何が面白いのです」・・・・・楽しき家には楽しき兄妹の問答もありけり・・・・・(32.7.3読売新聞)。

  けやきのブログⅡ<2010.8.18千島占守島/夏草の間に戦車>

 1901明治34年8月、鳳(与謝)晶)子『みだれ髪』(歌)・島崎藤村『落梅集』(詩)。
     <梅ほころぶ向島にお嬢さんの自転車隊
  ―――日曜で天気で暖かくて・・・・・十余人の妙齢の令嬢は一列に自転車を並べて走り・・・・・新教育を受けたる貴女は、二十世紀の新舞台に乗り出さばやと叫ぶらんやうなり。新日本に御身等あるを知って、我が国の青年男子大いに意を強うするに足るべし・・・・・(34.2.12読売新聞)。

 1904明治37年2月10日、日露戦争始まる。
   11月、第3回旅順総攻撃を開始。12月5日、二〇三高地を占領(日本軍の死者1万6935人)。
 1905明治38年5月、連合艦隊、日本海でロシアのバルチック艦隊を破る。
     <“二〇三高地” 出現
  ―――流行はすべて速やかなるが慣いなれど、殊に婦人の衣裳、髪飾りのごときは、迅雷疾雨のごとく過ぎ去り生じ来たって迎接に遑なき・・・・・花月巻は庇髪、二〇三高地に圧されて、衰え行かんとす・・・・・(38.7.31東京朝日新聞)。

     <与謝野晶子ら、女性記者の昨今
  ―――与謝野晶子は、女子大学国文科生徒某子のためにアワヤ鏡を破られんとせし(離婚の危機)も辛くとりとめ、昨今大塚博士夫人、楠緒子、小山内学士妹・八千代とともにい菫文学会を興さんと計画中。 巴女史と呼ばれ、失恋の結果と噂されし朝報社を退いて気炎あがらず・・・・・「二十世紀の婦人」にて有名なる河村春子は・・・・・女塾を開くという。 己が主宰する雑誌(家庭の友)の広告に、「編輯に関する郵便物はいっさい羽仁吉一宛」と掲げし羽仁もと子は、家庭いよいよ円熟して・・・・・二六記者として一時文壇の多情漢を悩めし武内政子こと今の伊藤(銀月)夫人は、夫と共に「当世一百人」を著し・・・・・「僕君失礼」の遠藤清子といえば「電通」から「人民」に鞍替えした小学校教師上がりの女記者なり・・・・・(38.11.27日本新聞)。

  けやきのブログⅡ<2022.4.16お百度まうであヽとがありや 大塚楠緒子>
  けやきのブログⅡ<2022.2.12堺刃物・堺燈台・与謝野晶子>
  けやきのブログⅡ<2011.6.18六分の侠気四分の熱、与謝野鉄幹・晶子>

 1906明治39年、<良妻賢母主義に反すると政府
  ―――これまで数回の議会に向かって請願し来たりし女子参政権及び政談演説傍聴許可の件は、二十二議会にてようやく採択された事だけに止まり、その他の事は政府はなお全く反対の意見・・・・・元来我が国の女子の美点とする処は、温順貞淑なる事にありて、良妻賢母主義は我が国女子教育の方針なるに、かの政党の渦中に巻き込まるるがごときものは・・・・・我が邦女子教育の方針と相容れず・・・・・(39.6.2日本新聞)。
     <シンガー・ミシン裁縫女学院が開校
  ―――八戸のミシン台が据わって今盛んに車の音を発している・・・・・開校式を挙行し、勅語奉読、沢柳政太郎文部次官の演説・・・・・盛装したる生徒百余名は左手(ゆんで)に控え、右手(めて)には知名の来賓・・・・・中の働き手は中流以上の夫人なり、令嬢なり・・・・・(39.10.22国民新聞)。

  けやきのブログⅡ<2014.9.13ミシンと明治・大正・昭和>

 1907明治40年、<福田英子が請願運動
  ―――婦人にも男子と同じく政治運動の自由をあたえよとて、先ほど治安警察法第五条改正の請願を衆議院に提出したる進歩婦人の一群は・・・・・本会議に付せらるるの日、大挙して傍聴に出かくる良しなるが、それにつき福田英子女史の発行せる雑誌「世界婦人」には、「・・・・・私ども同志の婦人挙って傍聴に出かけたいと思います。英国議会における婦人のそれとは少し違いますが・・・・・議案通過にも多大の利益がある事と存じますから」・・・・・(40.2.20平民新聞)。

     <“この花会”結成
  ―――女子教育家・千葉秀胤氏が女学校教員、夫人、令嬢達の依頼によりて、安全と興味多きを主眼としたる小規模登山会を組織・・・・・今年は野中至氏夫妻の賛助を得て、野中氏夫人千代子を会長に仰ぎ、名も「この花会」と命じ・・・・・登山会を開く由・・・・・(40.7.6日本新聞)。

  けやきのブログⅡ<2019.9.21妾が天職は戦いにあり、人道の罪悪と戦うにあり、福田英子(岡山県)>

 1912明治45年、<松井須磨子の人気うなぎのぼり
  ―――日本一の女優という評判が高い。聞けばこの女優の稽古熱心な事は非常なもので・・・・・(45.5.8国民新聞)。

  けやきのブログⅡ<2016.12.3母は新聞社主・娘は女優、小野あき・東花枝(宮城)>

   参考: 『ニュースで追う 明治日本発掘』(全9巻)1995河出書房新社 / 『近代日本総合年表』1968岩波書店 / 『近現代史用語事典』1992新人物往来社 / 『日本人名事典』1993三省堂

   ※ けやきのブログⅡ過去記事 右列バックナンバーよりお願いします。

|

« 小説家『江戸から東京へ』・俳人正岡子規の弟子、矢田挿雲 | トップページ | 1912~1926大正期の女子 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 小説家『江戸から東京へ』・俳人正岡子規の弟子、矢田挿雲 | トップページ | 1912~1926大正期の女子 »