« 明治大正・学校野球部応援歌さまざま | トップページ | 大正14年『巣鴨総覧』にみる多様な住民 »

2023年4月15日 (土)

あまたの思想、政治理念をもつ新聞記者、末広鉄腸(重恭)

 「核攻撃 備えた医療を」
  ―――国内で、もし核兵器が使われたら、どんな医療が必要なのか。放射線の専門家らを中心に、日本で核兵器が使われた場合に備えた医療開発を目差す動きが・・・・・(2023.4.9毎日新聞)。
 この記事にぞっとした。ロシアの攻撃に晒されるウクライナ、日本と近隣諸国との緊張など不安がよぎる現世である。
 この4月、県議会議員、国会議員補欠選挙があったが例によって投票率が低い。

 1890明治23年7月1日、第一回総選挙。
   当選者は、大同俱楽部55・立憲改進党46・愛国公党35・保守党22・九州同志会21・自由党17・無所属その他147、合計300(『近代日本総合年表』)。
   鉄腸の出身地、愛媛県では
  ―――県会議員選挙で盛りあがった政治熱は、県内各地に両党派の政治倶楽部の結成をうながした。改進派は予讃倶楽部を愛媛県倶楽部と改称・・・・・大同派は伊予倶楽部を結成し全県を三地域に分け、支部として宇摩・新居・周桑・越智(東予)・久米・風早・和気・温泉・上浮穴・伊予・喜多(北予)・東・西・南・北宇和(南予)の各郡倶楽部を設置・・・・・両派は政談演説会を各地で開催・・・・・演説がたくみで政策に明るい論客が歓迎され・・・・・大同派から帰省をうながされていたのが末広重泰(しげやす)であった・・・・・(『愛媛県の百年』)。

      末広(廣) 鉄腸 (重恭) 

 1849嘉永2年2月21日、伊予国宇和島笹町85番地に生まれる。
   父は藩勘定役・末廣禎助、母は飯野氏の女、禎助の後妻。三男。
   本名は重恭(しげやす)、字は子倹、鉄腸、また浩齋とも号した。
 1860万延元年、12歳。父死去。この後、義兄夫妻に養育される。

 1865慶応元年、藩校明倫館の舎長。1869明治2年、藩校教授。
 1870明治3年、上京するも東京は混乱期にあり勉学に適さないと帰郷。
   途中、京都の陽明学者・春日潜庵に入門し2年間学ぶ。
  ―――藩校は朱子学を教えたが鉄腸は王陽明の学を好んだ。このことが、彼の政治思想、並びその生涯の生き方に大いに関係・・・・・(柳田国男『明治政治小説集』)。
 1872明治5年、帰藩し藩校教授に再任される。
   6月、廃藩置県。新設された神山県(宇和島県が改称されたもの)官吏になる。
 1873明治6年、上司と意見が合わず退職して上京する。翌7年、大蔵省出仕。

 1875明治8年4月、『東京曙新聞』社主にすすめられ編集長となる。
   6月、新聞紙条例・讒謗律発布。それを誹謗し禁錮2ヶ月、罰金20円の判決。
   10月、禁錮解除。成島柳北主催の『朝野新聞』論説編集主任となる。政府の言論弾圧に抗して筆禍を買い、言論人として名声上がる。
     <記者を次々と投獄>
  ―――曙新聞編輯長末広重泰君は・・・・・曙新聞第五百三十一号、同三十九号へ新聞条例を論ずる投書を載するにつき、罰金二十円、禁獄二月の公裁を・・・・・(8.8.9評論新聞)。

 1876明治9年2月、井上毅・尾崎三良を諷した柳北の筆禍事件により、柳北とともに鍛冶橋の監獄入り。
   9月、市ヶ谷囚獄所に移され10月出獄。この間、英語の独習に専念。

 1879明治12年、沼間守一らの「桜鳴社」 に加わり政談演説に活躍。
 1881明治14年、「桜鳴社」を脱退して馬場辰猪らと「国有会」結成。
   10月、明治十四年の政変。
   国会開設をめぐり、急進論の参議・大隈重信と漸進論の伊藤博文らが対立。開拓使官有物払い下げ事件で、在野の避難に直面していた政府は大隈を罷免、政府から追放。自由党に加わり常議員に選ばれる。
  ―――来る十五日、十六日、新富座にて府下諸大家の集合演説あり。「時勢論」岡本武雄・・・・・「物窮まって享る天の道なり」末広重泰・・・・・「再び開拓使処分を論ず」福地源一郎・・・・・(14.10.13東京日日新聞)

 1882明治15年、自由党の機関紙『自由新聞』に健筆をふるう。
 1883明治16年、板垣退助の外遊資金出所などを巡り意見が合わず自由党を去り、馬場辰猪と独立党を組織。
   この年、チフスにかかり、冬から翌年にかけて神経痛のため床につく。
 1884明治17年、明治協会(会長・前島密)加入、改進党と連絡をとる。
  ―――官民の争いが苛烈になり、流血を見ることになって日本の将来を憂え、外国の思うところも心配して官民調和の論を唱えた。今や日本が漸く海外に伸びようというときに上下喧嘩ばかりしていては仕方がないというのである。その政治小説は「雪中梅」・・・・・(中村光夫『政治小説集』)。
 作品は『明治政治小説集(二)』(明治文学全集8)本編、総ルビ挿絵入りで読める。

 1885明治18年、糖尿病の治療を受け、箱根温泉などで数ヶ月の静養を余儀なくされる。
 1886明治19年、38歳。5月、『二十三年未来記』刊行。
   8月、『政治小説・雪中梅』上編刊行。
  10月、『政治小説・雪中梅』下編刊行。
  ―――その政治思想の特色は英国風の穏健な自由主義にあり、文学者としてみるときは、漢詩文に特にすぐれており、紀行文にも特色があるが、やはり政治小説がもっとも重要である。政治小説史で坪内逍遙の注目した『雪中梅』は、政治小説を逍遙の意図する人情小説の域に近づけた点に特徴があり・・・・・一方『南洋及大波瀾』などは、かなり性格を異にし、黒岩涙香を想起させるのも注目に値しよう・・・・・(越智『日本文学大事典』)。
   このころ、星亨らと全国有志大懇親会を開会、政党の大同団結をはかる。

 1887明治20年4月、「雪中梅」の続編になる政治小説『花間鶯』上中下編を刊行、大成功を収め、多額の印税を得、翌年の外遊費用にする。
 1888明治21年4月、英船ベルチック号に乗船、欧米の政治事情視察に赴く。見聞記は『鴻雪録』『唖之旅行』(前後編)にまとめる。
   この旅行中、フィリピン独立運動の志士ホセ・リサールを知り、意気投合。のち『政治小説/南洋及()大波瀾』、続編『あらしのなごり』を生む契機となる。

 1889明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布。
    帰国後、『朝野新聞』の政治的立場の変化を不満として同社を去り帰郷。
   『大同新聞』『東京公論』の合併した『国会』主筆に招かれ翌年1月上京。
 1890明治23年7月、第一回総選挙、愛媛県第六区より立候補して当選
  ―――大同派の中心となっていた末広にも・・・・・その被選挙権資格に問題があった。それに必要な、直接税十五円に相当する資産が本県にはなかった・・・・・三月、同地入りした目的には、実は相当資産の名義を借りて被選挙権資格を確保することも含まれていた・・・・・宇和島融通座において、末広を中心にした大政談演説会を開催した。聴衆一六〇〇余人、末広の演説は「政府ノ組織ハ政党内閣トセサル可カラサルコト」を力説し、大同派の勢力強化に役だった・・・・・(『愛媛県の百年』)。

 1891明治24年、協同俱楽部に参加するもほどなく脱退。
 1892明治25年2月、第二回総選挙で落選。ちなみに、柴四朗東海散士当選。
   8月、朝鮮・シベリア・北清を歴遊し10月、帰国。
 1893明治26年、『北征録』『明治四十年之日本』『政事小説・南海の激浪』刊行。

 1894明治27年3月、第三回総選挙。郷里から立候補し落選。
   7月25日、日清戦争開戦。
   このころ舌癌を病むが手術の結果が良く再起。
   「対外自主派が強硬論」・・・・・諸氏は国民協会事務所に集会し日・清・韓三国交渉事件につき協議をなせしに・・・・末広、徳冨、陸の三氏に起草を嘱託する事となし・・・・・(7.26東京日日新聞)
   9月、第四回総選挙の立候補し当選、全院委員長に推され活躍するも健康悪化。

 1895明治28年10月、癌再発し和泉橋の大学病院に入院。
   11月、『大戦後の日本』刊行、発売禁止となる。
   12月、改題して『政治小説 戦後の日本』を刊行。

 1896明治29年1月、日清戦争後の経営方針について、政府と議会は大衝突。
  ―――同志の奮闘と責任、上奏案上程を聞いては、黙っていられず死を決して起ち、担架に担がれて登院し、上奏案賛成の一票を投じた・・・・・死ぬとわかっていてもそうせずにはいられなかったのである。新聞紙(2月6日東京朝日)の記するところによると、「当日の鉄腸は気息奄々(えんえん)、顔色憔悴、現世の人にあらざるか」と思われるほどであったという。今の代議士とは天地の違いがある。これが国士としての鉄腸の真面目であった・・・・・(柳田国男『明治政治小説集』   
   2月5日、病勢が悪化し大学病院で死去。享年47。
 
   芝増上寺での葬儀には朝野の名士の会葬者千名に及ぶ。碑文を書いた末松謙澄は「東京日日」のとき、「曙新聞」の末広鉄腸と交わりを結ぶが、謙澄は官途につき、鉄腸と生涯の方向を異にする。しかし交情は一生変わらなかった(柳田国男)。
   夫人・ソノ子は伊予八幡浜の八幡神社祠官・清家貞幹の女。
   長男・重雄は京都帝国大学法学部教授。
   次男・恭二は東京帝国大学法学部教授、子どもがお魚博士としてしられる末広恭雄博士(東京大学水産学教授)。

   参考: 『原題日本文学大事典』1965明治書院 / 『愛媛県の百年』1988山川出版社 / 『近代日本総合年表』1968岩波書店 / 日本現代文学全集3『政治小説集』1965講談社 / 明治文学全集6『明治政治小説集(二)』1983筑摩書房 / 『明治日本発掘』1995河出書房新社

|

« 明治大正・学校野球部応援歌さまざま | トップページ | 大正14年『巣鴨総覧』にみる多様な住民 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 明治大正・学校野球部応援歌さまざま | トップページ | 大正14年『巣鴨総覧』にみる多様な住民 »