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2023年4月29日 (土)

米沢藩士の明治、宮島誠一郎 & 雲井龍雄

 コロナ禍が下火になり観光地が活気を取り戻している。では自分もと思うが、混雑する様にためらっている。この調子では旅はいつになるやら分からない。ともあれ、それまでは映像で日本美術を愉しむことにしよう。皆さまも如何。

   「歴史探偵」~等伯幻の障壁画(仮) 安原成美出演
  放送予定  5月10日(水)22:00~22:45  NHK総合
  再放送予定 5月17日(水)16:15~17:00 NHK総合

  放映日未定 「孔雀の襖絵」 NHK・BS8Kで制作中。安原成美出演。
 兵庫県香住にある大乗寺の円山応挙の絶筆とされる「孔雀の襖絵」についての特集番組。
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 伝記を2冊書いたが、同時代なので双方に登場する周辺人物がいる。
 たとえば雲井龍雄、『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』ではあまり気にしなかったが、『明治の一郎・山東直砥』の雲井は気になった。その雲井と同じ米沢藩士に宮島誠一郎がいる。宮島はのちに貴族院議員となり大出世する。

 
     宮島 誠一郎 & 雲井 龍雄

 1838天保9年7月6日、宮島誠一郎、出羽(山形県)米沢藩士・宮島吉利の家に生まれる。
   号は栗香。別号・八十八渓漁夫。学を蠖堂に学び詩をよくした。
   4歳にして唐詩数首を諳んじて神童と目され、10歳で藩校・興譲館に入り13歳で「左伝」素読を終える。父に倍伴して東西両京に遊ぶ。

 1844弘化1年、雲井龍雄、出羽袋町の米沢藩士中村総右衛門の次男に生まれ同藩・小島才助の養子となり、小島龍三郎と称した。雲井龍雄は変名。

 1853嘉永6年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー、軍艦4隻を率い来航。
   ペリー来航に始まる幕末の動乱は殿様も家臣も大変、安閑としていられない。東北の米沢藩主、上杉齊憲・茂憲父子も江戸・京都・米沢を往来、各地に家臣を派遣し情勢を探る。
 そんな中、五十騎組右筆宮島一郎左衛門の嫡子、宮島誠一郎出府。
  ―――宮島は政治情勢を得るため、江戸にあってさまざまな人物と接触するが、もっとも信頼を寄せ頻繁に接触の機会をもったのが留守居添役兼周旋方の林三郎であった・・・・・(中略)・・・・・宮島は米沢藩京都留守居宛ての嘆願書(茂憲帰藩願)を携え、京都へ向かう。その後、幕府から帰藩の許可が下りる・・・・・(『歴史読本』)。

 1863文久3年、宮島誠一郎、将軍上洛の供奉をする米沢藩主に従い上京。
  ―――会津藩士柴太一郎の京都の住いは三本木にあって、秋月悌次郎(韋軒)ら数名と同居していた。ある日、その家を米沢藩士の宮島誠一郎が訪れた。宮島の「京城日記」によると、漢詩人の藤井竹外宅で開かれる漢詩の賦会に行く途中・・・・・会津藩士たちの会合の場に来合わせる・・・・・「文久三年七月十六日。秋月悌次郎、広沢富治郎(安任)、大野栄馬、柴秀次(太一郎)・・・・、何れも会藩士有名なり、然に肥前藩長森伝次郎来り、楼上会飲始り、甚だ面白し」・・・・・(『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』)。 

 ちなみに、米沢藩は京都守護職に協力し、長州勢を退去させるのに重要な役割を果している。米沢藩の宮島誠一郎は三本木の秋月らを訪れて以来、会津藩士阿部井や太一郎から情報を収集、家老に文書で伝えていた。たびたび太一郎にも会っている様子で、帰国のさいには施薬院で秋月と太一郎に挨拶と礼をのべている。
 宮島にとって会津公用方の人間は重要な情報源であり、米沢藩が直面する諸問題への意見を具申するにあたって力となったようである。維新後は貴族院議員となり、『アーネスト・サトウ公使日記』にも少し出ている。

 1865慶応元年、雲井龍雄、米沢藩江戸藩邸に出仕。役が終わると安井息軒に学び、志士と交わった。
 1867慶応3年10月、大政奉還。
   米沢藩家老・千坂兵部に従い京にあった雲井は京都にとどまり
 1868慶応4年、雲井は探索方として京都藩邸に出府を命じられ、薩長土肥の動向を探索して藩に復命。
   
 1868明治元年、雲井は米沢藩より貢士(諸藩士、有能な者を選任)にあげられ維新政府に仕えるが、新政府軍の東征が東北に及ぼうとするや、薩長の専横を憤り抵抗を決意して帰藩。奥羽越列藩同盟など東北諸藩の団結につとめ、薩摩藩の罪を訴えた「倒薩檄」を著す。
   ―――宮島は藩校・興譲館教授の任にあったが、天下の大勢を洞察して王事に心を寄せ、奥羽諸藩の間を奔走して聯盟建白書を携え、密かに京に上り、山内容堂を介して朝廷に進達・・・・・(『明治漢詩文集』)。

 1869明治2年5月、戊辰戦争終わる。
   9月、雲井は再度、新政府に出仕するも辞す。
  ―――薩長有司専制を是正するにはクーデター以外にはないことを、一途に考えつめるようになった。また各地に潜居しては連絡を密にしていた。浪士を「帰順部曲点検所」に収容し、これを天兵(正規軍)として採用することを政府に嘆願する間に不穏な計画も・・・・・これが政府転覆の陰謀とみなされる・・・・・(『郷土史事典』)。

 1870明治3年2月、雲井は東京芝日本榎の上行寺・円真寺に帰順部曲点検所を設けた。表向きは不平士族を政府に帰順させる説得所とされたが、実際は反乱を志向する不平士族の集会所となった。
   4月、監視を厳しくしていた政府は雲井を米沢に拘禁し、一味の浪士らを逮捕した。
   8月、米沢藩に幽閉されていた雲井は小伝馬町の獄舎の送られ、獄中で辞世の詩を作る。
  ―――獄中の龍雄は拷問にたえながら、新政府の役人の失政失態を攻撃してやまなかった(『郷土史事典』)。
  ―――「死所を求めて、何処にか向かわんと欲す。深く愧()ず、志乖(そむ)き身尚(なお)全きを。熱血吐き来たり、丹若(たんじゃく)うるおい、回天の事業、空拳に有り」・・・・・(『戊辰戦役朧夜話』)。
  ―――明治青年にとっては漢文調のリズムがうけ・・・・・その人気ぶりを三宅雪嶺は「人が盛んに吟詠したのは雲井龍雄の詩に次ぎ、東海散士柴四朗氏の「佳人之奇遇」に挟まった詩で学生がしきりに暗唱して吟じた・・・・・(『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』)。
   12月28日、雲井龍雄、小塚原の刑場に梟される。享年27。
  ―――遺骸は刑場に埋められたが、明治12年米沢出身者が遺骨を掘り起こし、谷中にある天王寺の吉田松陰の墓のそばに埋葬した。昭和5年米沢にある雲井龍雄の菩提所常安寺で六十年法要が行われることとなり、遺骨はそこに移葬。(『新・雨月 戊辰戦役朧夜話下』)。

   同明治3年、宮島誠一郎、*待詔院に出仕。
    待詔院:政府が「言路洞開」を図り有志者の建白を奨励するため設置した機関。のち、集議院に合併される。
   これ以後、宮島誠一郎は左院、少議官に任ぜられ、しばしば枢要の献策をなす。
   *内務省設置案はその一つで、大久保利通に重用される。
   内務省:明治7年1月、開省。各省から勧業行政と治安維持部局を引き継いで設置。主務は警察と地方行政、のち社会運動を取り締まる。昭和22年廃止。

 1877明治10年~1884明治17年、修史館御用掛・参事院議員補。
 1889明治29年、貴族院議員に勅撰。
   旧米沢藩主の伯爵・上杉茂憲は明治23年と30年に貴族院議員に選ばれる。
 1911明治44年3月15日、宮島誠一郎死去、享年73。雲井の刑死から41年後のことである。

   宮島の詩文は、その為人を反映して高雅清逸であると清国公使として来日の何如璋や黎庶昌からも高く評価された。
 ―――*黄遵憲が、「君の詩は実に僕に勝る」といい、王韜は「日東の詩人、当に巨擘を推すべし」と評している。『養浩堂集初集』五巻があり、『養浩堂詩鈔』二巻がある(『日本漢詩鑑賞辞典』)。
   黄遵憲(こうじゅんけん):中国、清末期の外交官・政治家・詩人。日本の政治家・文人と交わり日本研究を続ける。

 

   参考: 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『歴史読本 7月号』2010新人物往来社 / 『明治の一郎・山東直砥』中井けやき2018百年書房 / 『明治の兄弟 柴太一郎・東海散士柴四朗・柴五郎』中井けやき2018文芸社 / 明治文学全集62『明治漢詩文集』1983筑摩書房 / 『日本漢詩鑑賞辞典』猪口篤志1980角川書店 / 『郷土史事典 山形県』1979昌平社 / 『明治時代史大辞典吉川弘文館吉川弘文館 / 『新・雨月 戊辰戦役夜話 下』船戸与一2010徳間書店

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