大江健三郎さんのふるさと 愛媛県内子町
2023令和5年3月3日、大江健三郎さん死去。88歳。
1935昭和10年1月31日、愛媛県喜多郡大瀬村(現:内子町)に生まれる。
ノーベル文学賞 核廃絶・護憲訴え。
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大江健三郎さんの著作は多く、自分も若いころ少しは読んだ。本棚にその名残り『懐かしい年への手紙』があり、大江さんについて何かと思ったが身の程をわきまえて止めた。そのかわり大江さんが生まれた内子町を見てみた。
内子は江戸時代の伊予八藩のうちの大洲藩に属し、大洲藩で学問の道を志し「近江聖人とよばれた中江藤樹が有名である。
ところで愛媛県といえば、松山の道後温泉、漱石の『坊ちゃん』など有名である。
その松山と大江さんの生地、森に囲まれた谷間の大瀬村(内子)は、どのくらい離れているのだろう。
―――高知から四国山脈を越えて森に戻る僕ら家族を、待伏せする具合に迎えてくれたギー兄さんは、そのまま谷間の生家まで送り届けてくれたのではなかった。小田川ぞいの県道に降りて、日頃村に帰る道すじとは逆に川上から谷川に近づいて行く。「在」へ登る道が県道から分かれる橋のたもとに・・・・・(『懐かしい年への手紙』第四章)。
小田川:四国山脈西縁の狼ヶ城山(ろうがじょうやま)に発してほぼ西流し、大洲(おおず)市の鳥首橋付近で伊予灘に注ぐ肘川と合する川。内子町で南流する中山川を合わせて向きを南にかえる。山地を刻んで平地は少ないが、森林資源に恵まれる。
<内子町>
愛媛県中央部、県都松山市の南南西約40kmの、山間部に位置する農山村。町域は平均標高250~300m、北・東・南三方の町域を限る付近は、600~800mの山地となっている。
予讃線内子駅。内山盆地の北部にあって、定期市が開かれる門前町・旧宿場町。伊予灘に注ぐ肘川(ひじかわ)支流のの小田川中流域を占める農工業の町。
江戸末期~大正期は灯火用製ロウ・さらしロウ(漂泊、脱色した木蝋)の全国的産地。大洲半紙の集散地。タバコ・米・カキ・クリ・ブドウ・シイタケを栽培。
大洲和紙:大洲藩主が藩の御用紙を漉かせたのが始まり。宝暦年間(1751~64)に、生産・販売を統制し、内子に紙役所、五十崎(いそざき)に楮(こうぞ)役所を設けて取り締まった。紙は大阪に送られ藩財政をうるおした。
1757宝暦7年、内子で晒臘(さらしろう)を始める。
1861~64文久年間、八日市の芳我(はが)弥左衛門が、水におちた臘花の結晶が真っ白になることからヒントを得て、伊予式箱晒法による白臘製造を開発。以来、すぐれた品質で生産額は増加、大洲藩を潤した。
1862文久2年、坂本龍馬は勤王派と目された大洲藩領を選んで脱藩し下関に向かった。その後、貿易結社・亀山社中をおこした龍馬は大洲藩に蒸気船購入をすすめ、イギリス製の「いろは丸」を斡旋。のち、いろは丸は大洲藩より龍馬に貸与される。
1867慶応3年4月、小銃400丁などを積んだ「いろは丸」(船籍・大洲藩)が紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突して沈没。
その後、大洲藩は再び龍馬の斡旋で、西洋船・洪福丸を購入。
この船はのち戊辰戦争で政府軍に徴用され、日本海で大損壊、犠牲者もでた。
1871明治4年7月、廃藩置県。
大洲藩-大洲県-宇和島県-上山県-愛媛県
廃藩の号令が出された翌月、大洲藩領内の全域の農民を結集した一揆が起きたが、藩内改革の主導者の割腹自殺、藩首脳の説得によって解散する。
1889明治22年、町制施行。愛媛県12町のうちの一つとしていち早く町制を実施する。
1908明治41年、大洲産紙改良同業組合を設立。
地方改良功労者の表彰規定が定められ、第一回は髙野島太郎ら13人。
髙野島太郎1863~1953:喜多郡五十崎村(現内子町)村長。
髙野家は代々臘座、臘晒を家業とした素封家。島太郎は17歳で小学校訓導(教員)となり、34歳で五十崎村の村長に当選。以後1933昭和8年まで村長・町長をつとめた。
避病舎建築、里路改修、消防組の設置、小学校改築、下水道敷設など実績をあげた。なかでも、森林資源造成による村基本財産増殖、部落有林野統一は五十崎のなを高めた。
1912大正元年、主要輸出品であった晒蝋は、西洋蝋の発明・石油の輸入・電灯の導入によって需要が激減、大正中期には衰退する。
1916大正5年、内子座。大正天皇即位を祝して、有志が資金をだして歌舞伎劇場として建設された芝居小屋。収容人員は約650人。
1935昭和10年1月31日、大江健三郎、愛媛県大瀬村(内子)で生まれる。
1941昭和16年、大瀬小学校に入学。
この年、太平洋戦争が始まり5年生の夏まで続く。戦争中、県下中等学校生徒を軍需工場へ動員。
1945昭和20年1月、B29、愛媛県初爆撃。7月、松山空襲。8月15日、終戦。
1950昭和25年、愛媛県立内子高等学校に入学するも、いじめを原因に翌年転校する。
1951昭和26年4月、大江、松山県立東高等学校に転入。
文芸部に所属。石川淳、小林秀雄、渡辺一夫、花田清輝などを読む。
大江は同級生の伊丹十三(池内義弘)と親交を結ぶ。
<余 談>
伊丹十三(昭和8年生れ)は後年、義弟の大江健三郎原作で映画を監督製作する。俳優時代、アメリカ映画『北京の55日』に砲兵中佐・柴五郎役で出演。その節、撮影地ヨーロッパ、スペインのマドリードに赴き、エッセイを残している。
筆者は始めて『北京の55日』を見た時、日本の砲兵中佐が出ている意味が解らなかった。後年、義和団事変における柴五郎の大活躍を知ってからは描き方が不満でならない。テーマが映画と重なる『日露戦争を演出した男モリソン』(ウッドハウス暎子著)を原作に作り直してと言いたい。
1954昭和29年、大江健三郎、東京大学文学部仏文科入学。
1955昭和30年、五城・大瀬・立川・満穂(みつほ)4村と合併。中心集落は内子。
1957昭和32年、「飼育」(『文学界』)により芥川賞受賞。開高健と戦後世代を代表する作家として登場。
1982昭和57年、白壁を連ねた八日市の町並は、内子町八日市護国重要伝統的建造物群保存地区に指定。
1985昭和60年、内子座再建。国の重要伝統的建造物保存地区の指定をうけ、3ヶ年かけて「木臘と白壁の町並整備事業」として再建された。
注。市町村名について。参考資料が古く、現今は異なるものがあるかもしれない。
参考: 『伊丹十三記念館 ガイドブック』2007 / 『愛媛県の歴史』2003山川出版社 / 『郷土史事典 愛媛県』1979昌平社 / 『愛媛県の百年』1988山川出版社 / 『愛媛県の歴史散歩』2006山川出版社 / 『愛媛県 郷土資料辞典』1989人文社 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院
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