大正14年『巣鴨総覧』にみる多様な住民
先日、すっかりご無沙汰だった池袋にでかけた。コロナで出かけなかったのもあるが、池袋はほんとうに久しぶり。
私鉄・地下鉄が乗り入れ、ますます賑わう池袋駅構内をウロウロしてしまった。方向音痴にもかかわらず適当で勝手に動きまわるから余計迷う。しかし、待ち合わせでもない限り迷っても苦にしない。
この日は祭日で賑わう駅ナカを抜け、JR西口改札を出て豊島区立郷土資料館へ向かった。
東京芸術劇場の前を過ぎると消防署、その先に「としま産業振興プラザ」がある。その7階が豊島区立郷土資料館、【豊島区大博覧会】(~2023.5.28)会場である。
ところが、その日は休館。資料館は豊島区立、つまりお役所で祭日はお休みか~~。諦めて出直すことにしたが少し焦った。今週のブログ記事は「豊島区大博覧会」と思っていたから、直ぐには他のテーマが浮かばない。仕方ない。
それでは豊島区の幕末・明治にしようと「江戸○○」の類いを何冊か見たが出ていない。そういえば、「かねやすまでは江戸の内」と詠まれた乳香散という歯磨き粉で有名な「かねやす」が本郷にあった。東京大学のある本郷から先は郊外の趣きという。豊島区は郊外の村だったのだ。
―――江戸時代、区内には上駒込・巣鴨・雑司ヶ谷・下高田・池袋・長崎・新田堀之内村の七ヶ村があったが、幕府直轄領が大部分で、寺社領・旗本領も入り交じっていた。大名の下屋敷・抱屋敷・御鷹部屋・御薬園もあったが、大部分は農地で・・・・・ 駒込村は庭木・園芸類、巣鴨村は菊づくりで知られていた。・・・・・(中略)・・・・・明治元年、武蔵知県事に属し、1869翌二年東京府に編入され、1889明治22年の市町村制施行により、巣鴨町・巣鴨村・高田村・長崎村の一町三村が成立・・・・・(『郷土資料事典』)。
次は*三木露風の詞と詩の一部、
三木露風:明治・大正・昭和期の詩人。兵庫県出身。有名な「赤とんぼ」をなどを収めた童謡集や随想集がある。
―――私は、仲子と結婚して後は、東京西郊の池袋に寓居した。此処に居ること五年。其の間に第六詩集『幻の田園』と、第七詩集『良心』と、第八詩集『池袋詩集』・・・・・ 其の池袋に居た時は、多くの詩の門下を養成した。又色々の芸術家――文学者、音楽家、画家彫刻家等――が、私の家に訪問して来た。・・・・・ 池袋の田園は、私の心を安らかにした。私は朝夕に、その田園を逍遥したのであつた。
―――自然の面影を残した農村であった区内も、1885明治一八年、赤羽-品川間の品川線(現山手線)の開通によって目白駅が、さらに同三六年、日本鉄道豊島線(現山手線)の池袋・大塚・巣鴨の三駅が設けられ、区域も都市化への傾向をみせた。また、明治末年から大正にかけての市電の開通、さらに池袋を起点とする東上鉄道(現東上線)が1914大正3年、武蔵野鉄道(現西武線)が開通・・・・・ とくに1923大正12年の関東大震災後は人口も急激に増え・・・・・ 現在の池袋駅はJR線・東武東上線・西武池袋線・地下鉄丸ノ内線・同有楽町線の起点で、都内有数の盛り場となっている。最近は再開発が進み、とくに東京芸術劇場などができた西口側の発展が著しい・・・・・(『郷土資料事典』)
東京西郊の豊島区が東京23区の一つになった時、
―――1932昭和7年、北豊島郡巣鴨、西巣鴨、高田、長崎4町の合併によって成立・・・・・ 山手線に沿い、目白、池袋、大塚、巣鴨、駒込の5駅を有し、上中流の住宅地で関東大震災後に発達し、目白は文化村の一つとしてきこえた。池袋は近郊住宅地の発達にともない、私鉄のターミナルとして商業の中心地となった。学習院、立教大学を含み、雑司ヶ谷墓地、鬼子母神、とげ抜き地蔵などがある(『世界大百科事典』)。
< 1925大正14年『巣鴨総覧』にみる多様な住民 >
男爵 山川健次郎 枢密顧問官、理学博士)
―――1914大正三年、聖上の大典に際し、新に華族に列せられたもの九人。男(爵)は学者として此の恩命に良くした一人である。・・・・・ 明治初年工学研究のため独逸へ留学・・・・・ 東京帝国大学総長に任ぜられ・・・・・ 氏はまた愛町の念深く、1922大正十一年西巣鴨町自治会の会長に推薦されて鋭意同会の発達に心を傾け、又西巣鴨町の交通、衛生などの問題に就いても常に意を用ひ、殊に*刑務所移転に関しては、其の期成同盟会長として尽くされた所頗る多い・・・・・(現住所、西巣鴨町池袋100番地 電話小石川五六番)。
現在のサンシャインビルが建つ場所に1895明治28年から1971昭和46年まで戦犯を収容した巣鴨刑務所(のち東京拘置所)があった。再開発で小菅に移転(『明治・大正・昭和をめぐる東京散歩』)。
市橋光治 (大塚*三業組合常務取締役)
―――氏は1884明治一七年岐阜県本巣郡北方町に代々酒造家・菱屋に生まれ・・・・・ 神田中学より岩倉鉄道学校に転じ、卒業後は九州鉄道株式会社、関西鉄道株式会社等に経理課詰めとして勤務・・・・・ 鉄道局経理課詰として東京に転じ書記に進み、各駅検簿員・・・・・ 1920大正九年第一回国勢調査員に選ばれた。・・・・・ 官職を辞して専ら土地発展を念とし、花柳界発達のために極力尽瘁した結果、1923大正十二年大塚二業組合の成立・・・・・ 更に待合設置のため組合の代表者として運動を続け、1924大正十三年九月、組合員の宿望であつた三業組合を完成し、その常務取締役に就任・・・・・ 去る十一月、芸妓屋組合から記念品及び感謝状を受け、その功労を表彰された・・・・・(巣鴨町平松一三六〇番地。電話小石川二四七五番)
三業:料理屋・待合・芸者屋の三種の営業。
玉泉閣 (ラヂウム温泉旅館業)
―――大塚の終点から西へ約二丁ばかり離れた処にある都下唯一の湧出鉱泉である。主人は関長一郎氏で、茨木県東茨木郡竹原村の人、木綿調帯の発明家として有名な人物である。・・・・・大正六年温泉宿として開業・・・・・ 浮き世離れた閑雅な構えに居心地良く待遇・・・・・(西巣鴨町向原三四八五番地)。
近藤誠一郎 (法学士、弁護士)
―――法曹界稀に見る任侠家として有名な近藤氏は、常識円満に人間味が豊であるばかりでなく、弱者のためには報酬の多寡を論ぜず正義の味方となり、火の如き熱情を以て事件の解決に・・・・・ 大正九年東京帝国大学法律科卒業後は弁護士を開業し、悪徳不正の輩に対しては根本的に糾弾して正邪曲直を明白ならしむる・・・・・ 最近弁護士試験打ち切りの際に濫造された八百人組と称する怪しげな弁護士がポツポツ開業され、如何はしい噂を耳にする・・・・・ 氏の如き人格識見共に卓越した士を有する事は町居住者として心強い次第である。(西巣鴨町二〇二七番地)。
永田信一 (永田メリヤス機械製造株式会社専務取締役)
―――新しい時代には新しい人物を要する。終始を徹した奮闘の歴史を有する永田氏の如きは、真に時代が生んだ稀出のあいだあり、赤手空拳で今日の地位を築き上げ・・・・・ 氏は1884明治一七年、愛知県西加茂郡挙母村に生まれ・・・・・ 1892二十五年上京、1904三十七年メリヤス機械工場を牛込区喜久井町に創始・・・・・ 1910四十三年満鮮地方視察の途に上り、1912四十五年現在の地に大工場を新築移転・・・・・ 世界大動乱の勃発するや、しほんを倍加し工場を拡張して巨利を収めた。・・・・・ 東京機械鉄工場組合代議員、北豊島工業組合理事など・・・・・ 数え上げれば際限もない。読書と旅行に深き趣味を有し、蔵書も頗る多い。(西巣鴨町九〇三番地。電話小石川一〇七五番、六二三四番)。
株式会社並木製造所 (パイロット萬年筆製造業)
―――現代文化生活の標語たる「能率増進」に就いて、異常なる貢献をなした。・・・・・ 現代から萬年筆を奪ひ取ってしまふ事は、恰も人の両腕を取り去るに等しい・・・・・ 萬年筆が我国に伝わってから既に三十余年を過ぎた・・・・・ 1910明治四十三年現在当社の常務取締役・並木良輔氏は、東京商船学校機関科教授として専ら船用機関の教授研究に従事してゐたが・・・・・萬年筆用金ペン製作上の最要眼目たるイリヂウム金属の処理加工・・・・・ 最難点を突破・・・・・ 1915大正四年には萬年筆機械製造を開始し、翌五年さらに萬年筆付属装飾部、同1918七年萬年筆用エボナイト材料製作を開始し、始めて萬年筆製造業者として・・・・・ 株式会社とし、次いで始めてパイロット萬年筆を市場に・・・・・ 製品の優良確実なると相俟って外国品を遥かに凌駕する国産品として斯業界第一流のものと普く認められてゐる。(巣鴨町一六九三番地)。
水野 述 (土木建築請負業)
―――年歯僅か十歳にして、薬研堀の大政と呼ばれた岡島嘉七氏の家に年期を入れて小僧となった氏が・・・・・ 十年間には余りの苦しさに涙に暮れたことが幾十度あったであろう。独立してからも試練の焔・・・・・ 事業は常に失敗を繰り返したが、これが腕の磨き時と終始刻苦奮闘を続けた。1917大正六年、東亜綿絲が氏に託して西巣鴨新田に工場を新設する事となったが、この請負に於いて特異の技能と蘊蓄とは遺憾なく発揮せられ、名声は頓に上つた。・・・・・ 折戸町会副会長、巣鴨第四小学校保護者会理事・・・・・ 1925本年三月、郡から一名づつ都市研究会評議員に任じた際、北豊島郡からは唯一の適任者として氏が選ばれ・・・・・(西巣鴨町大字七百四十番地)。
参考: 『我が歩める道』三木露風1928厚生閣書店 / 『世界大百科事典』1972平凡社 / 『郷土資料事典13 東京都』1997人文社 / 『巣鴨総覧』中山由五郎編1925巣鴨総覧刊行会 / 『明治・大正・昭和をめぐる東京散歩』2007成美堂出版 / 2007国会図書館デジタルコレクション
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