科学技術史学者・加茂儀一の『榎本武揚』
2023.5.10<NHK「歴史探偵」長谷川等伯幻の障壁画 安原成美出演>
「歴史探偵」等伯の障壁画、豪華絢爛、映像とは言え素晴らしかったです。
戦国武将、合戦の物語に嵌まった時がありましたが、その時代に立派で豪華絢爛な障壁画が描かれていたのだ。
歴史探偵に導かれるまま、等伯のこと障壁画についてなど興味津々、惹きつけられました。
日本画家・安原成美さんが、その方面の研究に取り組んでいるのを他所ながらお聞きしていましたが、番組を視聴して改めて貴重な研究と知りました。
歴史といえば、年表の事件事項を思い浮かべがちですが、幻の障壁画の復元過程を見て美術こそ後世も目にする事ができる歴史の一幕、改めてそう感じました。
余談。
障壁画復元のため番組スタッフは上野・東京文化財研究所を訪れた。そこで障壁画の白黒写真を得、最新技術で彩色した障壁画を再現していたが、なんとも素晴らしかった。
同所に岡倉天心を調べに行った事があり、図書館もそうだが調べ物が出来る場所はありがたい。改めてそう思った。
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さて、世の中には専門分野はもちろん何事にも広く通じている人物がいる。科学技術史家・加茂儀一もその一人である。
その学問・業績、筆者には難しいが、『榎本武揚』を著しているので興味を抱いた。
科学技術の学者がなぜ「榎本武揚伝」?
榎本は戊辰戦争最後の戦い、箱館五稜郭で最後まで抗戦した人物として知られるものの人気は今ひとつ。加茂は榎本の何に惹きつけられたのだろう。
戦い破れ、やむなく帰順。それは止むを得ないにしても明治新政府に出仕、新政府の大臣を歴任、子爵にまでのぼりつめた。
福澤諭吉の『痩(やせ)我慢の節』は置いといて、栄達は本人の能力技倆、努力の賜物と思うが、戊辰の敗者に同情し応援する身としては微妙である。
―――当時榎本武揚ロシアより帰朝せりと聞き、無茶なことなれど、そのおりは大真面目にて、九段下今川小路の同氏邸を訪うも、面会を許されず・・・・・ついに面会叶えり。余が写真によりて想像せるより、はるかに恐ろしき人なり。・・・・・「何用か!」「一身のために教えを得たし」・・・・・「今後は暇あらば会うべし、士官学校の柴五郎なりと申してきたれ」・・・・・境遇のためならんか、余の心底にひがみ根性潜み、うるさき小僧なりと追い出される心地して、以後、一回も訪ねたることなし・・・・・(『ある明治人の記録)。
ともあれ、榎本武揚の伝記はあまり見かけない。それなのに科学技術の学者が伝記を書いたのは、武揚の何に魅きつけられたのだろう。気になって『榎本武揚』を読んでみた。
すると、榎本武揚の総てを表現したい、世に伝えたいという著者・加茂儀一の思いが伝わってきた。
生意気いえば、坂本龍馬が司馬遼太郎によって広く人気を得たように、榎本武揚は加茂儀一によって広く理解されたと思う。
年譜と著訳書を列記(著訳から学問研究の分野が推し図かれそうに思えるので)。
加茂 儀一
1899明治32年11月6日、兵庫県神戸市の商家に生まれる。
1913大正2年、兵庫県立神戸第一中学校入学。7年、卒業。
1918大正7年、神戸高等商業学校入学(神戸大学)。
1921大正10年、東京商科大本科入学(一橋大学)入学。13年、卒業。
1924大正13年、卒業。三井物産に就職。
1925大正14年4月、中央気象台長・*岡田武松博士の知遇を得、中央気象台付属測候所技術官養成所、講師を嘱託され英語を教える。
岡田武松:物理学者。神戸に海洋気象台を創設。第4代中央気象台長。富士山を始めとする全国各地の山に山頂測候所を設置するなど日本における気象観測の基礎確立と充実に尽力した。
1935昭和10年、ケルレル原著『家畜系統史』訳、岩波書店。
1937昭和12年、『家畜文化史』改造社。
1938昭和13年、『世界文化史』三笠書房。
1939昭和14年、シュペングラー『人間と技術』訳。三笠書房。
1941昭和16年8月、中央気象台付属気象技官教授。
ドゥ・カンドル『栽培植物の起原』訳、改造社。
1942昭和17年、中央気象台付属気生徒課長兼務となる。
1943昭和18年、『技術発達史』商工行政社 技術文化大系。東洋書館。
1945昭和20年8月、広島・長崎に原爆投下。15日「終戦」の詔勅放送。
1946昭和21年~1948昭和23年、東京帝国大学農学部講師兼任。
1948昭和23年~1949昭和24年、東京工業大学講師。
―――(第二次大戦後)学問の自由化とともに教師も自由化された。そのお陰か私は西洋史、技術史、畜産史の三つの学科について三つの国立大学からほとんど同時に教授として招きをうけた・・・・・技術史の本質は単に技術の発達のみを対象とするのではなくて、人間の能力の可能性を問題とし、それが人類の発展とどのような関連をもっているかを追求し、ひいては人間の本質を究明することであるという私の主張をしっかり了解してもらった上で、東京工業大学に勤めることになった・・・・・(田中実『科学史研究17(125)』)。
1949昭和24年~1957昭和32年、東京工業大学教授。
『ルネッサンスとヒューマニズム』日本評論社。
1950昭和25年、『人類文化発達史』三省堂。
『タバコ文化史』弘文堂。 『レオナルド=ダ=ヴィンチ伝』弘文堂。
レオナルド・ダ・ヴィンチの研究者としても著訳書が多い。人類の生活文化、とりわけルネッサンス期の研究を続けた。
1952昭和27年、ピエール・デュカセ原著『技術の歴史』訳 白水社。
オーギュスト・シュヴァリエほか原著『タバコ』訳 白水社。 『図解科学技術史事典』共編 弘文堂。
1953昭和28年、『栽培植物の起原』訳 岩波文庫。
1955昭和30年、『世界文化史』5冊(毎日ライブラリー)毎日新聞社。
1957昭和32年~1965昭和40年、小樽商科大学長。
『食物社化史』角川書店。 『人間の歴史』中山書店。 『近代技術文明』毎日新聞社。 『自然科学と技術の歴史』日本教育大学協会。 『動物社会の歴史』訳 理論社。
1958昭和33年、アメリカへ出張。 『世界の文化と人類の進歩』 三十書房。
1960昭和35年、『榎本武揚』中央公論社刊。
『科学史研究』掲載、「加茂儀一略歴と主要著書」一覧を目にして思った。
加茂儀一が榎本武揚に惹きつけられたのは、榎本が5年間のオランダ留学で得た最新知識・技術、それを実地に活用できる能力、4年間のロシア駐箚公使としての経験から世界情勢を理解していたことにもあったのではないだろうか。
幕末・明治期、外遊から帰ると航海記・滞在記の類を出版する人が多かったが、榎本は戊辰の戦で死去した人々に遠慮があったかもしれない。
加茂儀一はそのへんを汲みとって、生前発表されなかった榎本の日記や史資料を丹念に調べ伝記を著したようだ。
『榎本武揚』(中公文庫)お薦めしたい。
1963昭和38年、フランス・イタリアへ出張。
1964昭和39年~1970昭和45年、日本科学史学会会長。
1965昭和40年、小樽商科大学名誉教授。
1966昭和41年、関東学院大学教授。
1973昭和48年、『家畜文化史』改訂増補版 法政大学出版局。
1974昭和49年、『モナ・リザの秘密――レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』日本経済新聞社。
ケネス・クラーク原著『レオナルド・ダ・ヴィンチ』訳 法政大学出版局。
1976昭和51年、『日本畜産史 食肉・乳酪篇』 法政大学出版局。
1977昭和52年11月7日、関東学院在職中に死去。享年78。
東京都杉並区荻窪3-40-5
―――未刊の厖大なダ・ヴィンチ、日本家畜文化史、ギッシングに関する原稿を残し、執筆途中であった。まことに残念である(道家達将編・石山洋補)・・・・・(科学史研究Ⅱ)。
参考: 『民間学事典』1997三省堂 / 『科学史研究17(125)』日本科学史学会1978第一書房 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『民間学事典』1997三省堂 / 『ある明治人の記録』(会津人柴五郎の遺書)石光真人編著1984中公新書 / 国会図書館デジタルコレクション
毎日新聞(2023.5.25 夕刊)
「戊辰戦争で沈んだ開陽丸 残った古文書の謎」
―――開陽丸は幕臣の榎本武揚らが乗ったことで知られ、1868年、戊辰戦争の最後となる箱館戦争の前に沈没・・・・・1974年に始まった引き上げ調査で、船体の一部や大砲など約3万3000点の遺物が見つかり、日本の水中考古学の先駆けとなった。・・・・・(開陽丸の古文書の写真説明)和算家の関孝和らが纏めた数学書「大成算経」の第17巻と判明した=江差町教育委員会提供・・・・・。
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