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2023年5月 6日 (土)

動乱の京に飛びこんだ信州女子、松尾多勢子

 5月の連休、観光地はどこも混雑、高速道路は渋滞だが、中央道には夫の故郷へ行くたび車酔いしていた思い出がある。
 ある年、渋滞が更にひどく、ただでさえツライ吐き気は増すばかり。何とか車を停めてもらって外に出、しゃがみ込み一息ついて車に戻ると、小学生の息子が「お母さん行きたくないの?」という。
 言われて、行きたくないのを我慢している自分に気付いた。そういえば、帰りは酔わない。それからウン十年、今では車酔いしてたのが嘘のよう。
 さて、嫂も夫の姉妹も大きな農家に嫁してよく家を支え、よく働くしっかりした信州女子である。それに引きかえ、姑いわく「サザエさんみたい」な次男の嫁はボーッとしているが、みな親切です。
 
 信州女性にたいして働き者でしっかり家を守るイメージを抱くが、過去に驚くほど活発で国事に奔走した女性が居たのには驚いた。
 信濃国伊那郡生まれの松尾多勢子、幕末・維新期の女流勤王家である。
 筆者はつい最近までこの人を知らなかった。一時期、広く知られたようだが、いつしか郷里の下伊那郡でしか目立たなくなっている。それは女性だからなのかな。
 ともあれ、松尾多勢子は女性が学問をしたり表つことを好まない時代に、時勢を憂い積極的に行動した人物である。
 会津贔屓の筆者にとって熱烈な勤王思想、親しい志士が品川弥二郎、会津藩士・大庭恭平という辺りは微妙だが、その行動力には感心、頭が下がる。

 多勢子は信州から江戸へ京へと旅したが、交通機関が無い時代は旅に出るだけでも体力がいる。そして金も必要である。
 時勢を想うだけでも立派なのに、それを実行に移したところが凄い。一体、どんな女性だろう。

     松尾 多勢子

 1811文化8年5月、信濃国伊那郡山本村(飯田市山本)、竹村家の長女に生まれる。
   父の竹村常盈(つねみつ)は北原家から養子に入り、多勢子は北原家に預けられる。多勢子は北原家で従兄の北原因信に読書や和歌を学び、家庭教育を受ける。

 1829文政12年、19歳で伴野村(とものむら)の松尾佐次右衛門(淳齋)に嫁ぐ。
  ―――松尾家は庄屋を勤め、酒造や養蚕を営み、天竜川伴野渡しの船頭取り締まり方も兼ねる家だった。夫は病気がちだったので、多勢子は野良で泥まみれになって働く嫁として迎えられたのだった。3男4女をもうけ、家政につくした。そのかたわら、和歌の修養に励み、飯田町の福住清風や遠江国掛川の石川依平などに師事し、新古今調の優雅なおもむきを重んじた歌学を学んだ・・・・・(『伊那・木曽谷と塩の道』)。
  ―――国典を修め、歌道にも達しぬ。松尾家に嫁して後はよく家政をととのへ、召使いをいたはり、農業養蚕など自ら率先してとり行ひしかば、人々その労を称しぬ・・・・・(『京華婦人のかがみ』)。

  ?年、 国学・歌道を・などに学び、岩崎長世の勤王論に感化される。
 1851嘉永4年、夫・淳齋に従い江戸に行き、領主・松平義建に拝謁。
  ―――人みな藩主と幕府あるを知りて、上に皇室あるを知らず・・・・・多勢子は常に慷慨・・・・・我等臣子は一日も早く御快復に力を尽くさざるべからず。国家に身命を捧ぐるは豈男子のみに限らんや・・・・・(『京華婦人のかがみ』)。

 1853嘉永6年6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー、浦賀沖に来航。
  ―――ペリーの似顔絵や黒船を木版印刷したかわら版が、江戸を中心に地方へも伝えられた。・・・・・山深い信濃の民衆にも飛脚や出府中の村人の手紙、行き交う旅人の語り伝えなどのよって、対外情勢とそれへのさまざまな国内の対応ぶりがすみやかに、かなりの正確さをもって伝えられていた・・・・・(『伊那・木曽谷と塩の道』)。

 1861文久元年、多勢子は北原稲雄の紹介で平田没後門に入門。
  ―――多勢子は『玉だすき』を借りて繰り返し読んだ。座光寺や伴野では平田学の研究会が月々催され、多勢子は時事を談じ、尊皇攘夷に目覚めていった。・・・・・松尾家では長男誠は33歳・・・・・市岡家からたみ子を迎え・・・・・すでに家政は嫁が切り盛りしていて多勢子は楽隠居の身といえた・・・・・(『伊那・木曽谷と塩の道』)。
   家人として立派に勤めを果たしてから、自分の志を実行するところは伊能忠敬と同じに見える。

  ―――多勢子の歌 (『伊那市概要』)。
   敷しまのみちの八千またおほけれど 日本の道にしくみちあらし
   しつみつるそのかみかせもこりすまに またもよするか沖つ白波

 1862文久2年8月、52歳。多勢子は目立たぬよう山本村の実家に行くとふれて京都に赴く。
   京都では歌を詠んで公家の間に出入り。白河殿に候し、篤胤の『古史成文』を天覧に供したいと願う。
   *平田門の志士と交わる。藤本鉄石・品川弥二郎・三輪田元綱らと親交があったという。

   平田門:江戸後期の国学者、平田篤胤。烈しい儒学批判と尊皇思想が特徴。中部・関東以北の在方の有力者に信奉され一大学派をなした。その影響力はきわめて強く、幕末尊攘運動に大きな感化を及ぼした。

 1863文久3年2月27日夜、尊攘派、足利尊氏木像を加茂河原にさらす。
   多勢子はこの事件の関係者と親密に交際しており、天誅組の志士の保護につとめた。
   天誅組:脱藩士が結成した統幕尊攘の最激派。武力倒幕の先駆。

  ―――多勢子の身も危険日々加わり・・・・・長男誠は木像事件及び長谷川正傑などをかくまひし嫌疑より罪を得・・・・・尾州家の庇護により死罪を免る・・・・・折しも多勢子の夫病気にかかりしかば一先ず故郷に帰る事となしたりしに、志士等一同に会して別れを惜しみしかば、
  ふるさとに帰るも惜しき旅衣  大内山にこころひかれて・・・・・・(『京華婦人のかがみ』)。
  ―――幕府の厳しい追及の手を脱した志士達の伊那に逃げ込んで来る者が多かった。・・・・・平田学の盛んな所で尊王思想の燃えてゐたのだから、落武者の逃げ込み場所としては安全で・・・・・文久の末には多勢子は家に帰っていたが、この頃、松尾家には七八人の志士が絶えず寄食していた。多勢子はこれらの人を置いて賄ってやり、或いは衣服や旅費を与えて志す方に旅立たしめるなど、斡旋のかぎりを尽くした・・・・・(『伊那史概要』)。

 1868明治元年戊辰1月、戊辰戦争。
   多勢子は長男の誠・仲盈・為誠、孫の千振などを連れて江戸へ赴く。
   4月、倒幕軍江戸入城。慶喜、水戸へ退去。
      多勢子は長男らを倒幕軍に従軍させる。

   ?月、京に赴き、岩倉家に客分の老女として召し抱えられ、奥向き一切のことを処理した。また、同家の奥女中・宇田梅野(*三輪田真佐子)を、足利木像梟首に加わった志士・三輪田元綱(鋼一郎)に紹介する。多勢子は人の面倒をよくみたという。

   三輪田真佐子:女子教育者。梁川星巌に漢学詩文を学ぶ。日本女子大学創立に尽力、教授となる。

 1869明治2年3月、公議所を東京に開く。
   天皇、東京に向かう。
  ―――車駕東京に行幸の時、その鹵簿(ろぼ)の盛大なるを拝し、涙に咽びて「あはれ今ははや世に思い残す事なし」とて児孫を引き連れて信濃に帰り、風月を友として余生を楽しみきとなむ(『伊那史概要』)。
   郷里に戻って農業に従事。

 1894明治27年6月10日、死去。享年83。
   歌集『松の雫』 ほかに「都のつと」「千々の草々」「露の玉」などの遺稿を残している。

 

   参照: 『京華婦人のかがみ』1929京都市立高等女学校編 / 『伊那・木曽谷と塩の道』髙木俊輔2003吉川弘文館 / 『日本史年表』歴史学研究会1990岩波書店 / 『日本人名辞典』1993角川書店 / 『伊那市概要』市村咸人1935信濃郷土出版社 / 国会図書館デジタルコレクション

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