教育者・石田勝太郎とその時代
『上州奈良村に生まれた教育者 石田勝太郎の生涯』
(石田勝太郎の足跡を辿る会著、文責・桑原英眞、DiPS.A発行)
同書は石田勝太郎本人とその家族、周辺人物についても詳しい。
次は、勝太郎の著作『子供と父母』明治期の出版案内から。
『子供と父母』石田勝太郎著・滝澤菊太郎校訂・名取春仙・装幀挿画
―――学校の教育を受けて居らるる子供とその父母に 是非この本をみてもらひたいと云ふ先生の趣意によりて 家庭に於ける子供に教えふべきこと、行はすべき事、躾くべきことなど子供を中心として家庭に美風を吹込ましめ 重ねて児童教育を完全にせんとして其の十年間の蘊蓄を披瀝せられたるものなり 且つ瀧澤先生が親しく筆を採り校訂を加へられ 又当代棋界の名家と謳われし名取春仙画伯の筆に成れる挿画等は実に錦上花を添ふる・・・・・。
石田 勝太郎
(年譜は『石田勝太郎の生涯』を主な参考に)
1870明治3年4月14日、群馬県利根郡池田村大字奈良村58番地。
石田準太・なをの長男に生まれる。
1877明治10年、西郷隆盛、鹿児島で西南戦争をおこす。
10月、蒼新好小学校に入学。
1883明治16年、蒼新好小学校高等科卒業。
1884明治17年、群馬県師範学校入学。瀧澤菊太郎教諭と出会い感化を受ける。
1885明治18年、群馬県師範学校高等科第7級卒業。
1888明治21年、群馬県尋常師範学校卒業。吾妻高等小学校訓導となる。
訓導:明治6年以来用いられた小学校の正規の教員の職名。中学は教諭。
1889明治22年、大日本帝国憲法発布。発布の日、文部大臣・*森有礼暗殺される。
森有礼:政治家。伊藤内閣のもとで初代文相となり、小学校令・中学校令・帝国大学例・師範学校令を公布して学制改革を行い、草創期の近代学校制度を定めた。
6月、第164学区尋常小学校卒訓導兼校長。
1890明治23年7月、利根北勢多高等小学校訓導。「上野教育会」発足に尽力。
「生徒郡長の転任を惜む」を上野教育会雑誌に発表。
教育会:明治17年頃から全国各地に教育会が誕生(『日本教育史年表』)。
1891明治24年、「教育者の愛」を上野教育会雑誌に発表。
1892明治25年、教授法、管理法など取調のため高等師範学校へ出張。
1893明治26年、沼田尋常高等小学校訓導兼校長。
「学習、修業卒業の認定を論ず」を雑誌に発表。
明治27年、日清戦争。
1月、小学校教科用図書審査委員。
「2月11日に際して故森文部大臣を追懐す」・「修身科教授が教育上に及ぼす効果を論ず」・「原沢豊君に答ふ」・「小学校筆科除去法教授法に就ての実験」などを発表。
<利根川水源探検>
―――時は明治27年9月、探検隊は17名を以て組織された。技師・小西文之進・利根郡長・・・・・ 沼田小学校長・石田勝太郎・・・・・ その探検記は渡邊教諭の筆に成り、同年10月発行の「上野教育会雑誌」に12月号まで連載された。一行は導者三名 人夫39名の大勢で出発 ・・・・・ 探検に要した日数11日。一行の艱難辛苦もさることながら真実の水源には未だ人跡を印してはいない・・・・・(『上毛山水志』第二版山崎春治1916上毛新聞社)。
―――「利根水源探検紀行」・・・・・利根郡長・櫻井小太郎 沼田尋常高等小学校長・石田勝太郎 総計十七名・・・・・ (目的)利根の水源を確定し、越後及び岩代と上野(こうづけ)の国境を定むるを目的となせども、傍ら地質の如何を調査し、将来開拓すべき原野なきや否や・・・・・ 動植物及び鉱物の新奇なるものありや否等を究めるに在り・・・・・(『*台湾生蕃探検記』)。
台湾:日清戦争後、清国から日本に割譲、昭和20年まで日本の殖民地となる。
11月6日、7日、群馬県北甘楽郡教育、富岡尋常小学校にて総会。
地方視学・石田勝太郎の講演・*嘉納治五郎・海軍少佐岸栄太郎(『群馬県北甘楽郡教育史』1919教育会)。
嘉納治五郎:教育家。講道館を創設、柔道の研究・普及に努力。国際オリンピック委員会委員。
1895明治28年、陸軍恤兵部へ献金(群馬県利根郡沼田町沼田尋常小学校生徒有志総代・石田勝太郎)。
1896明治29年3月、沼田子守教育所を開設。
5月、群馬県属、内務部第三科勤務となる。
6月、小学校教員甲種検定委員。小学校教員乙種検定委員。
1897明治30年、群馬県地方視学。利根教育会設立に尽力する。
1898明治31年、小学校教育委員普通免許状下賜される。
10月、佐賀県師範学校教諭心得、地方視学となる。
1899明治32年4月、小学校乙種検定委員。
8月、小学校教員恩給審査委員。
1901明治34年、文部省*普通学務局属(さかん)となる。
局長・*澤柳政太郎、視学官・中川謙二郎、参事官・松本順吉。
普通学務局:師範教育、中学校、小学校・幼稚園 高等女学校・聾唖学校 教育博物館 通俗教育・教育会に関する事項。学齢児童の就学に関する事項。
5月、普通学務局第二課長心得。
澤柳政太郎:明治・大正期の教育家。文部省書記官をふり出しに、二高・一高校長を歴任。この年、再び文部省に入り、明治39年文部次官となる。この間、小学校令の改正、高等教育機関の充実などを行う。のち、京大で大学の自治をめぐり<澤柳事件>をひきおこし辞職。在野で初等教育の改革に尽力した。
―――石田勝太郎が、その手腕、才能、功績が認められた背景には・・・・・ 東京府師範学校長・瀧澤菊太郎の強い推薦と以前から親交のあった澤柳政太郎の推薦があったと思われる・・・・・ 修学旅行や運動会を開始したり、校舎の増築、それに群馬(高崎市)、多野(藤岡市)、甘楽(富岡市)、碓氷(安中市)、利根(沼田市)、新田(太田市)の六分校を県内の枢要地に設置し、本県中等教育の発展・充実に貢献し、いわゆる「澤柳時代」を築き上げた・・・・・(『石田勝太郎の生涯』)。
12月10日、田中正造、足尾鉱毒で天皇に直訴。
足尾鉱毒事件:足尾銅山から流出する鉱毒が渡良瀬川の田畑に被害を与え社会問題化。事件解決のため田中正造が奔走、その活動を扶けたのが左部彦次郎である。勝太郎は左部(さとり)と同郷人で親戚、交流があった。『石田勝太郎の生涯』に詳しい。
けやきのブログⅡ<2020.9.5『左部彦次郎の生涯』足尾銅山鉱毒被害民に寄り添って>
けやきのブログⅡ<2010.7.13足尾鉱毒事件/左部彦次郎のなぜ?>
1902明治35年、文部省普通学務局属・第二課長となる。
12月、教科書疑獄事件。教育会空前の大不祥事が勃発、一世の耳目を聳動した。
教科書疑獄:明治の検定制度の末期に小学校教科書の採択に関連して派生した贈収賄事件(明治35~37)。教科書会社の売り込みのための汚職が発覚、知事・代議士・県会議員・視学官など200余名が検挙され116名が有罪となる。これをきっかけとして小学校教科書の国定制度が実施された。
当時、文部省の役人だった石田勝太郎の動静については未詳。
1904明治37年、日露戦争。
7月、日本大学高等師範科、夜間に通学して卒業。
1906明治39年、東京府立師範学校教諭。4月、付属小学校主事。
5月、小学校教員検定臨時委員。
1907明治40年、小学校教員検定臨時委員となる。
1908明治41年、東京府師範学校第二種講習科講師。小学校教員検定臨時委員。
1909明治42年5月、小学校教員検定臨時委員。従七位に叙される。
9月、東京府青山師範学校舎監。
10月、小学校教員検定臨時委員。
12月、東京府青山師範学校主事を解任となる。
1910明治43年5月7日死去。享年41。
―――東京府青山師範学校教頭教諭兼附属小学校主事従七位にして神経麻痺に因り急死す(『国民過去帳 明治之巻』大植四郎1935尚古堂)。
参考: 『台湾生蕃探検記』(少年叢書:第4編)中島竹窩著1897博文館 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『日本史辞典』1981角川書店 / 『日本教育史年表』1994三省堂 / 国会図書館デジタルコレクション
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コメント
新たな視点からの情報を頂き、勉強になりました。ありがとうございました。今後ともご指導よろしくお願いいたします。
投稿: 桑原英眞 | 2023年6月 7日 (水) 02時06分