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2023年5月20日 (土)

岡山県果樹振興の祖、小山益太・大久保重五郎

 「魅力は敏腕司書たち」
  ―――全国の都道府県立図書館で2021年度、最も来館者が多かったのが岡山県立図書館(岡山市北区)・・・・・担当者は蔵書数が150万冊超と多いことに加え、近くに岡山城や美術館があり立地を理由にあげるが、一番の魅力は経験豊富な司書たちの迅速な対応にありそう・・・・・(2023.5.14毎日新聞わたしのふるさと便)。
  ―――図書館、大正期を中心に県下各地につくられた。昭和11年には、234の図書館(・・・・・第六高等学校付属図書館と正宗文庫は含まれない)があり、書数千冊以上の図書館も67(公立15、私立52)あった・・・・・(『岡山県の歴史』)。
 
 岡山・図書館で高校一年担任、難波紘子先生を思い出した。
 国語の授業中についお喋り、「コラ、そこの○○」と注意された。今思うと、大学出たての超まじめな先生に申し訳なかった。
 大学進学する女子が未だ少なかった昭和、自分も就職組で勉強はほどほど、呑気で楽しい女子高生活だった。
 その当時『赤毛のアン』の続編が次々と出て、難波先生はその都度購入、読み終えると私にくださった。今も本棚に並ぶ『赤毛のアン』全9巻がそれである。
 先生はまもなく岡山に帰郷されたが、のちに国内留学で上京、都内の大学で文字や言葉の研究をされていた。ある時、その大学の一般向け講座で講師の難波先生と再会、聴講できて嬉しかった。

     果樹栽培の先駆 小山益太・大久保重五郎

 さて、岡山県には日本三名園の一つ後楽園など歴史遺産が数あるが、今回は「果樹王国岡山」に注目!
  ―――岡山県は落葉果樹の栽培では夙に天下に名をなし・・・・・明治中年から晩年頃が最も華やかであつたかもしれぬ。即ち小山益太、山内淳一郎などいふ先輩が活動・・・・・果樹の観察でもしようと思へば、先づ岡山へ行くより外になかった・・・・・(『日本園芸案内記』)。

 1861文久元年9月、小山益太(こやまますた)、磐梨郡稗田村(岡山県赤磐郡可真村稗田)代々の名主の家に生まれる。
   号・楽山(らくざん)。幼い頃から自然界、とくに植物界に親しむ。
 1867慶応3年8月13日、大久保重五郎、磐梨郡弥上村山ノ池(岡山市東区瀬戸町塩納)に生まれる。赤磐郡千種小学校卒業。

 1868明治元年、明治維新後、小山家は悲境に陥り、益太は東京で学んだ後、帰郷。
 1881明治14年、磐梨郡五十三ヶ村連合会が中学校設置。
   小山、磐梨(いわなし)中学校助教員となる。
   この頃、大久保重五郎、小山益太に師事、果樹園芸学を学ぶ。

 1886明治19年、大久保重五郎、郷里・山ノ池に果樹園を開き、桃づくりに励む。
 1887明治20年、小山益太、赤坂郡役所書記・判任官(各省大臣が任命)十等を辞職。
   果樹園・六々園(六六園)を経営。
 1888明治21年、小山、播州加古川の髙木から、葡萄の挿穂を購入し苗木を育てる。
 1889明治22年、小山、播州池田の商人から夏橙(なつみかん)苗100本購入、開墾地に植える。その他、桃李園より白龍梨60本、埼玉県より梨の穂木12種、本穂木は運搬の不便、時間が掛かりすぎて枯死し土に埋める。
   モモ・ブドウ・ナシ・カキの品種改良、病害虫駆除、剪定などの技術改革を独学で進める。袋かけ法の改善。

 1890明治23年、大久保、桃白桃種の発見に成功、苗木を分譲し現在に至り、岡山の白桃、声望天下に冠たりと。
 1894明治27年、日清戦争。
 1895明治28年~1899明治32年、小山、桃の新品種「金桃」 「六水」を作り出す。

 1896明治29年、小山益太、見習い制度を設ける。大久保重五郎をはじめ多数の門下生を育てる。
 1899明治32年、梨が霜の害に遭う。
   以来、小山はこの予防の方法を8年余り研究、農薬・ボルドー液を試す。
 1902明治35年、除虫菊乳剤「六液」を発明
   この除虫剤は、明治時代から昭和初期まで全国で使用された。

 1903明治36年、鋸蜂の幼虫が桃の葉を食害、梨や林檎にも被害を与えた。
   駆除方法を研究、苦心の末、有効駆除剤を発見し一般の果樹栽培業者にも多大の利益を与えた。

 1904明治37年5月~7月、始めて大阪で第5回内国勧業博覧会開催。
   会場のイルミネーション及び冷蔵庫などの新製品、評判となる。
  ―――岡山県出品ノ洋種桃(アムスデンジュン)・・・・・右ノ他ニ栽培人ヨリ・・・・果ヲ本部ニ送致シタル者アリ岡山県ノ小山益太ノ六水桃(六々園水蜜桃ノ意義)及ビ金桃ノ如キ是ナリト・・・・・(『第五回内国勧業博覧会調査報告』)。
 1905明治38年、日露戦争。

 1906明治39年、小山益太、倉敷の「大原奨農会」に招かれ果樹園を経営。
   大久保重五郎、一時期、小山益太に同行、また大原奨農会・農業兼研究所、果樹園主任管理者を1929昭和4年までつとめる。この間、モモの品種改良と栽培技術の研究、新品種を創成して名を知られる。
 
 1914大正3年7月、倉敷紡績の二代目社長・大原孫三郎、財団法人大原奨農会を組織。
  ―――農地100町歩・・・・・ 農業資金貸与や小作者救済事業を展開し、自作農の育成を援助した。また、農業技術の発展をはかり、果樹振興の祖・小山益太や「白桃」の発見者・大久保重五郎らを招いて,向山に果樹園を開いた。・・・・・ 農学の本格的な研究機関として1929昭和4年、大原農業研究所(岡山大学資源生物科学研究所)・・・・・大原社会問題研究所(法政大学大原社会問題研究所)を開設・・・・・(『岡山県の歴史散歩』)。

 1919大正8年、大久保重五郎「奨農式剪定鋏」考案。噴霧器、農具改良にも貢献。
  ―――剪定鋏(せんていばさみ)ニシテ園芸家ノ満足セルモノ無キニ非ザレドモ・・・・・永キ使用ニ堪ヘ得ルモノナキニ・・・・・茲ニ於テ大久保氏ハ広ク内外ノ剪定鋏ヲ参考ニ供シ・・・・・実用ニ適するヲ目的トシ・・・・・労力ヲ軽減シ以テ大ナル疲労ヲ感ゼザルコト等ノ諸項、漸クニシテ此鋏ヲ製作セリ・・・・・(『大原奨農会要覧』)。
 1914大正3年、日本、ドイツに宣戦布告、第一次世界大戦に参加。

 1922大正11年、小山益太、農学講演<果樹栽培>。
  ―――明治22年以降、桃 和梨 葡萄は幸いに結果せしめ得たるも、洋梨と苹果(へいか・林檎)花芽を着生せしめ得ざりき・・・・・(中略)・・・・・我園の気温土壌肥料など相違あるは当然なるべし我は我園に於ける果樹を師とし之に教えを請ふにしかずと信じたり 故に先づ苹果を我園に栽植し 其の苹果の自然発育を観察しその樹の状態を熟視し而る後 鋏を加ふる・・・・・ 稚樹七本を園中に植付たり 是れ余の研究に於ける第一歩たるなり・・・・・(『農学講演集』)。
 1922大正11年、『米作増収法』小山益太著述・出版。

 1924大正13年、小山益太死去。享年63。
  ―――不撓不屈二十余年の久しき専心 斯業の研究に身を委ね遂に果樹栽培方法を自得し・・・・・岡山県の果樹栽培をして今日の盛況に至らしめたるの勲功は果樹園芸発達史上に特筆大書して不朽に伝へらるべきものなりとす(『全国篤農家列伝』)。  

 1926昭和元年8月、大久保重五郎、優良品種「大久保桃」の育成に成功、農事試験場を介して県下に配布し、果物王国の隆盛に寄与。
 1937昭和12年7月、盧溝橋事件で日中戦争おこる。
 1940昭和15年、大久保重五郎を岡山県知事、桃新品種育成功労者として表彰。

 1941昭和16年1月15日、大久保重五郎死去。享年74。
   山ノ池には大久保重五郎碑、赤磐市可真小学校跡に小山・大久保両名の顕彰碑が建てられている。   

 

   参考:『岡山県の歴史散歩』2009山川出版社 / 『岡山県の歴史』2000山川出版社 / 『農学講演集 第4巻』1922大原奨農会 / 『全国篤農家列伝』1910 愛知県農会 / 『第五回内国勧業博覧会調査報告』1904長谷川正直 / 『臨時報告第21報(葡萄害虫に関する研究)』1920岡山県立農事試験場 / 『日本園芸案内記』内田郁太1940賢文館  / 『岡山県教育史 中巻』1942岡山教育会編 / 『財団法人大原奨農会要覧』1926大原奨農会 / 国会図書館デジタルコレクション

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