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2023年6月 3日 (土)

八丈島、近い昔あれこれ

 テレビの番組名は忘れたが、山手線の話をする中で、秋葉原を「アキハバラ」ではなく「アキバハラ」という人がいると言っていた。それで、「アキバ」と言っていた明治生まれの父を思いだした。
 その父が元気な頃、夜間高校に通う娘さんがわが家に居候していた。そしてその娘さんの実家から届く「くさやの干物」の強烈な臭いも蘇った。
 当時、自分は未だ子どもで、「におい」に負けクサヤを食べなかったけど、今なら美味しくご馳走になる。
  ―――トビウオとムロアジを加工したくさやは、それぞれの時期に生産し、特産物とし て出荷したり、観光みやげにもなっていますが、島の人達も好んでたべているものです。とれたばかりの魚を使って特殊な液に浸て乾燥させるので。八丈島ほか伊豆諸島で乾燥に必要な自然条件がそなわってできるのだそうで。ほどよく焼いて、よくかんで味わうと一種独特な風味を味わえます。島酒(島焼酎)とよく合って酒席には欠かせないものです。少々ぜいたくして朝食のおかずにしても食欲をそそります・・・・・(『八丈島のたべもの』)。

 そういえば、八丈島にはクジラが出現する。ハワイで見たのと同じ種類かな。その八丈島、山手線走る都心から海を隔ててかなり離れてるけど東京なんですよね。

     八丈島

 1796寛政8年、鉄砲洲十軒町(東京都中央区)に島方会所を設け、頭取となった三井家に七島の産物を一手に取り扱わせた・・・・・島の行政区分は伊豆国にありながら、経済的には江戸と深く結びついていた。
 1803享和3年、大島噴火、江戸に降灰。1835天保5年も噴火。

 1826文政9年、近藤富蔵(北方探検家・*近藤重蔵の子)、殺傷事件により八丈島へ流罪。
   近藤重蔵:江戸後期の旗本・探検家。蝦夷地に渡ること4度、その間、択捉(エトロウ)島でロシア側がたてた標柱にかえて<大日本恵土呂府>の標柱をたてた。のち、子の富蔵の事件に連座して改易、近江国大溝藩預りとなり謫地で病没。

 1865明治元年、島々は流刑地の負担から解放
 1869明治2年、江川代官が韮山県権知事に任命され伊豆諸島は韮山県の管轄下に入る。
  ―――「伊豆七島」と呼びならわされた大島や八丈島の島々は・・・・・幕府の直轄地であった。離島で農業に適さない火山列島の七島では、塩や紬を年貢とし・・・・・罪人流刑の地とされていた。年貢の金納が認められると黄楊材(つげざい)・薪炭・椿油・・・・・鰹節・干物などが江戸に運ばれ、特定の島問屋が独占的に売買していたが、黄八丈(絹織物)だけは物納を原則としていた・・・・・(『図表で見る江戸・東京の世界』)

 1871明治4年7月、廃藩置県。
   12月、小田原県・荻野山中県・韮山県が統合され足柄県となり、伊豆諸島も管轄下におかれる。   
 1876明治9年、伊豆国は七島を含めて静岡県に編入
 1878明治11年1月、太政官布告第1号により伊豆七島は東京府に移管される。
   この年、東京都電信中央局開業式に、はじめてアーク灯が点火(電灯の始まり)。東京府は郡区町村編成法により15区6郡に。

 1887明治20年、八丈島織物。
   八丈島織物が貴重とされるのは―――染色ノ好キニ在リ其の色タルヤ重ニ黄色樺色ノ二種ニシテ此ノ二種ハ内地ニ於テ未タ曾テ染得サル特殊ノ色合ト光沢トヲ有シ容易ニ褐色セス且ツ練製セル絲ノ強力ヲ失ハサルナリ・・・・・(『興業殖産亀鑑』)。

 1900明治33年、大島・八丈島に島庁がおかれる。
 1908明治41年、本土との共通の町村制ではない島嶼町村制が敷かれ、名主は村長となり、収入役・書記などが置かれた。
   島嶼:大きな島と小さな島の意。島々。
  ―――この制度によれば、島民には(東京)府会議員の選挙権がないうえ、村長は収入役とともに、支庁長の具申により府知事が任免するしくみで、村民の選挙によらなかった。1932昭和7年、三多摩と島嶼を東京から分離しようとする案が発表されたことがあったが、このとき、伊豆諸島の全村長や村会議員が「島嶼始まって以来」の大同団結をかため、各島連合して"きりすて"反対運動を展開したこともある・・・・・(『東京都の百年』)。

 1926大正15年、島庁が廃止され、東京府大島支庁・八丈支庁が置かれる。

     <八丈島民謡>
  鳥も通はぬ八丈ヶ島へ
  やらるゝ此身はいとはねど
  後に残りし妻や子が
  どうして月日をおくるやら

  ―――八丈島と云へば直ぐに此唄を思ひ出すほど人口に膾炙してゐるが、此唄は決して八丈島の民謡でなく、内地で唄はれた八丈追分といふ追分節の一種なのである。
 それではほんとうの八丈島の民謡は・・・・・

 1 しただんくんくんこゝとほあがら
   いものちんごをやいておかつろが
   さんめいかしだんのう 
    (2・3略)
 ・・・・・これにはちょっと面喰らふだらう。三首何れも八丈の方言・・・・・第一は「鳩の啼く音に忘れてゐたが、父と母とで小さい芋を焼いておいてくれた、もう焦げてしまやしないか、どうしたらう」といふ意・・・・・ 今唄はれる八丈民謡の歌詞は可なり豊富である・・・・・(『海島風趣』)。

 1929昭和4年、『伊豆海島風土記・伊豆めぐり』(東海文庫)静岡郷土研究会編。

 1937昭和12年、<八丈島から南洋へ>読み物作家・安藤盛。
  ―――東京を見捨てゝ、私は八丈島から小笠原へとつぎつぎに渡つて、南洋の旅に向つた。八丈島では、波のために丸くなつた海岸の丸石で、石垣をつみ上げた中に建つた家々のぐるりの椿がなつかしかつた。大賀郷といふところでは、*宇喜多秀家の墓を訪れたりした。・・・・・昔、ここへ流された宇喜多秀家一族の名を見たときは、何とも云へない感慨につつまれた。家康が敗れたら或は、ここにかうして名がつけられてゐたかもわからないのだ・・・・・ ここの小さい、八丈島は、美人がどういふものか非常に多いのには、また、不思議な気がした。・・・・・ 土地はやせてゐる。昔、罪人の流された島らしさが、まざまざと目に迫つて来るのである。島の周囲は荒磯で、打つ浪は相当に高くしぶきを立ててゐる・・・・・(『未開地』)。

   宇喜多秀家:関ヶ原の戦いに敗れた西軍の総帥。流人の島とよばれる八丈島に流されたのは宇喜多秀家が最初で、その後、1871明治4年までの265年間に約1900人が八丈島へ配流されている。

 1940昭和15年4月、伊豆七島に普通町村制が施行され、八丈島に属していた青ヶ島は独立して青ヶ島村となった。
 1943昭和18年、郡制実施により、伊豆諸島は東京都となる。

 1945昭和20年8月15日、終戦。
 1946昭和21年1月29日、大島をふくむ伊豆諸島は占領政策の一環として、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書によって日本国から行政分離された。
  ―――覚書のなかの日本領域の範囲外の諸島に「伊豆南方」とあることが、自分の島はどうなるのだ、という波紋をよぶことになった。日本政府・東京都などの復帰に向けた働きかけによって、3月22日にGHQの指令が修正されて、伊豆諸島は日本国に復帰した・・・・・ 小笠原諸島は、欧米系島民の帰島が許され、日本国への全面返還は、1968年6月26日に実現することになった(『東京都の歴史散歩』)。

 

 参考:『八丈島のたべもの』山崎陽子1976調理科学研究会 / 『東京都の歴史散歩』(下)多摩・島嶼2005山川出版社 / 『海島風趣』本山桂川1926坂本書店  / 『興業殖産亀鑑』若松雅太郎1887村上勘兵衛 / 『未開地』安藤盛1937岡倉書房 / 『図表で見る江戸・東京の世界』1998江戸東京博物館 / 『東京都の百年』1986山川出版社 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 国会図書館デジタルコレクション

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