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2023年6月17日 (土)

江戸~明治前期の将棋名人、伊藤宗印

 コロナが5類になり、マスクの人止めた人それぞれ仕事に買い物に街を歩いている。暮らしは元のペースに戻ったようだが、どうもイマイチの感がある。
 ロシアのウクライナ侵攻は長引き、公共料金・物価の値上がりは私たちの暮らしを直撃している。温暖化で気候の変化も極端で身体の不調を訴える人もいる。
 そうした中、元気と笑顔をもたらしてくれるのがメジャーリーガー・大谷翔平選手と将棋の藤井聡太七冠である。
 二人の人間業とは思えない大活躍をライブで愉しんでいるが、それが叶わない時代、野球は新聞記事など将棋は「棋譜」で愉しんだ。
 「棋譜」は囲碁・将棋の対局の手順を示した記録、昔の対局を再現したり鑑賞できる。
 たとえば、『詰むや詰まざるや 将棋無双・将棋図巧』で江戸時代の将棋名人、伊藤宗看・看寿の詰将棋を味わう人は現代もいるかもしれない。
 
   けやきのブログⅡ2020.10.24<将棋知らずの将棋ばなし>

 2023年藤井聡太七冠が史上最年少の将棋名人になったが、「名人」はかつて幕府から俸禄をもらう家元のものであった。
 1603慶長8年、江戸幕府が開かれると、本因坊算砂や大橋宗桂は囲碁、将棋の上手として幕府により召し抱えられた。
  ―――扶持を受けたのは画期的なできごとであったが、「五十石」は連歌師や絵師の二百石、猿楽能芸人などに比べれば、はるかに低い評価であった(『日本将棋集成』)。

  ―――将棋界は幕府の庇護をうけて育ってきた(五十石三十六人扶持を支給された)が、将棋の家元、三家、すわわち、大橋本家、大橋分家、伊藤家は明治維新で有名無実となった・・・・・幕府の崩壊によって、家元制度がなくなった・・・・・三家のうち、大橋本家(大橋宗金)、大橋分家(勝田仙吉)は明治初期になくなり、わずかに伊藤家だけが伊藤宗印によって、たんに十一世名人として名籍だけが残ったが・・・・・廃絶・・・・・(『将棋百年』)
 その明治前期の名人、伊藤宗印をみてみる。

     伊藤 宗印 (上野 房次郎)

 1826文政9年7月、江戸神田松永町(東京都千代田区)に生まれる。幼名・上野房次郎。
  ?年、 幼くして十一世大橋宗桂に入門。同門・天野宗歩は10歳年長。
 1836天保7年、10歳で初段。
 1843天保14年、17歳で四段。
 1845弘化2年、19歳。伊藤家七代・宗寿の養子となり伊藤印寿(いんじゅ)と改名。
   7月、お目見をして御城将棋に初出勤。
    以来、1861文久元年の最後の御城将棋まで二十三番、十六勝五敗二持(引き分け)と当時あっては圧倒的な成績を残している。
 1850嘉永3年11月、六段。
 1852嘉永5年、七段。名を伊藤家八代、宗印を名乗る。

 1856安政3年、天野宗歩と平手(ひらて)で戦う。
  ―――八代宗印には敗局であるが、御城将棋史上でも屈指の熱戦譜である・・・・・ところでこの期間、将棋所は天保以来、空位をつづけたが、次代の第一人者と目された八代宗印は七段で将棋所の有資格者ではなく、やむなく名人空位に甘んじつづけた。・・・・・(『将棋文化史』)。
   平手:将棋は、一般的には平手(「対馬」 「対場」などといい、対等に駒を配置し合って指す)、振り駒で指すことが多い(『日本将棋集成』)。

 1862文久2年、江戸城火災により幕府年中行事・御城将棋は中絶。
 1868明治元年、幕府俸禄は廃止。家元は受難期を迎え、裸一貫で再建の道を歩む。
  ―――八丁堀松屋町の拝領屋敷を返上して下谷御徒町に移り、さらに本所相生町に転じて生涯を終える・・・・・(『将棋文化史』)。
  ―――明治の初期は囲碁や将棋の悲境時代だった。幕府時代には碁所、将棋所というものがあって宗家は幕府から扶持を貰つて生活していたし、社会的地位も高かったが、明治になるとその総てのものを失ってしまった棋士の生活は惨め・・・・・一代の名人伊藤宗印でさえ将棋では飯が食えなくて、細君の手内職で辛うじて糊口を凌いでいる始末。現代のように将棋大会とか、連盟とかいうものはない時代だった・・・・・(『本朝名匠伝』)。

 1872明治5年12月、『将棋月報』伊藤清遊、保存会出版。伊藤宗印・小野五平閲。

  ?年、 ―――(伊藤宗印は)天保以来名人空位が続くなか、大矢東吉・*小野五平・関澄伯理(せきずみはくり)らと将棋校合手合会・清交会・魁進社(かいしんしゃ)を結成、棋界振興に尽す・・・・・(『明治時代史大辞典』)。
   小野五平:福澤諭吉みずからは将棋はささなかったというが、『時事新報』が将棋欄を新設、小野のパトロンとなる。同時に明治の棋界再建に力を尽くしたといわれる。

 1875明治8年、48歳。八段。
 1877明治10年、天野宗歩・対局譜を編集し『将棋手鑑』として刊行。
   『将棋手鑑』ほか宗印の著述を国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。

 1879明治12年10月19日、53歳。十一世名人
  ―――名人空位に甘んじつづけ・・・・・35年の長い空白ののち、十一世名人を襲位した・・・・・新名人は、八代宗印としては将棋所の復興という願いをこめたものであったが、実質は新しい制度の終生名人であり、この新制度は明治・大正・昭和初期まで棋界を支える基本路線となってゆくのである・・・・・(『将棋文化史』)。

 1881明治14年、魁進社を結んで『将棋新報』を創刊したが続かなかった。
 1891明治24年、九々社を結んで『将棋新誌』を刊行。
  ―――66歳の十一世名人・八代宗印を盟主とし、八段大矢東吉、六段小菅剣之助・・・・・四段関根金次郎・・・・・15人が加盟し・・・・・ 『将棋新報』の主旨を引き継いで手合わせを掲載・・・・・不幸にして長くつづかず、第十五集をもって打切り・・・・・つぎに将棋雑誌が世に出るのは、明治41年(一九〇八)になってからである。・・・・・(『将棋文化史』)。

 1893明治26年1月6日、死去。享年67。墓は東京・横川橋の本法寺。

  ―――徳川家光公の時代になつて、伊藤宗印が一派を立て、こヽに、大橋、伊藤の両家が棋界の牛耳を握ることになつた。将棋の名人即ち九段の人はこれまでに沢山あつたが、古今を通じての真の名人は、初代宗看、天明の頃の大橋宗英、天保の天野宗歩、幕末から明治中葉にかけての伊藤宗印(八代)、この四人を数へるに過ぎぬ。・・・・・名人宗印の跡を、小菅が継ぐ筈だつたのを、彼がこれを断って相場師になったので伊藤家は潰れ、また大橋家も絶へて、今では、両家に何の因縁もない関根が名人になってゐる・・・・・(『財界人物我観』)。

   <伊藤宗印 没後>
  ―――八代宗印の実践集『将棋名家手合』は没後、*小菅剣之助が編集の任に当った。・・・・・已にして先生病に罹り、将に逝れんとするに際し、剣之助を召び、嘱して曰く、予が一生間に於て、天下の名家と手合したる手録此に在り、今之を吾子に付すれば、予歿せる後ち、吾子宜しく之を世に公にすべし・・・・・ これは上野房次郎の少年時代から、天野宗歩を目標に精進した印寿時代、さらに明治棋界の立役者として大駒落は無双といわれた名人時代の棋譜八十番を収めたものである。・・・・・(『将棋文化史』)。
   小菅剣之助:伊藤宗印門の名誉名人。名古屋市。

 1936昭和11年、宗印の門弟・小菅剣之助の発起により、東京護国寺に「棋聖宗印之碑」建立。

 

   参考: 『将棋文化史』山本亨介1980筑摩書房 / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『将棋百年』山本武雄1966時事通信社 /  『本朝名匠伝』村松梢風1853読売新聞社 / 『財界人物我観』福澤桃介1930ダイヤモンド社 / 『日本将棋集成』窪寺紘一1995新人物往来社 / 国会図書館デジタルコレクション

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