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2023年6月10日 (土)

純国産の万年筆を開発した並木良輔

 “けやきのブログⅡ” 思い付くまま書いているが毎週更新はけっこう忙しい。
 近所の図書館、国会図書館デジタルコレクションのお陰でなんとか書けている。大学の講座を受講すると大学図書館が利用できるので、それも助けになる。
 ともあれ、「本と図書館好き」はけっこう居そう。その人たちに、中公新書『帝国図書館』(近代日本の「知」の物語)著・長尾宗典>を薦めたい。
 『帝国図書館』を読むきっかけは、書評(加藤陽子東大教授・近代史)である。
  ―――国家が運営する図書館の歴史を、1897年の官制で設置された帝国図書館を核に描く。・・・・・図書館に割く予算を一貫して渋ってきた日本にあって、国の図書館が利用する人々との間に、いかなる関係を紡いできたのか。それが初めて正確に書かれた通史を読めるのだ・・・・・各時代の時々の利用者・・・・・帝国図書館の前身・東京図書館には、樋口一葉が2年ほどの間に31回も通い・・・・・学校に通うより図書館に熱心に通ったと回顧する菊池寛・・・・・(「毎日新聞・今週の本棚」)。

 さて、今回は読む方ではなく書く方、筆記具で人のためになった人物を紹介したい。筆者も愛用のパイロット万年筆、純国産万年筆の開発に成功した並木良輔である。
 
    並木 良輔    (なみき りょうすけ)

 1880明治13年3月、埼玉県大里郡玉井村(熊谷市)、並木眞太郎の4男に生まれる。
 1904明治37年7月、24歳。商船学校卒業。
   商船学校:商船学校は逓信大臣の管理に属し、航海、運用、機関に関する学術及び技芸を教授する所とす。校長は勅任または奏任とす。逓信大臣の命を承け校務を掌理し所属舶員を統督す。
        校長・海軍大佐平山藤次郎。教諭・八等六級・並木良輔。

   三井物産会社の外国航路船に乗り機関長、海の男として生活。
   商船学校発電機及び汽罐並び暖房汽罐増設工事監督・竣工調査書作成を命ぜらる。

 1909明治42年、東京商船学校機関科の教授となり、後進の指導にあたる。
  ―――たまたま製図用烏口の使用不便なるを感じ烏口尖万年筆および金ペン尖にイルジュームを付着せんことに着眼し商船学校を辞し、自宅において研究を続ける・・・・・(『財界二千五百人集』)。
  ―――並木がそれまでに、軸の内部に墨汁を貯えることのできる製図用の<並木式烏口>を発明、特許をとっていた・・・・・いっそのこと万年筆をつくってみたら・・・・・万年筆をつくることが並木の心の大半を占めるようになり、以来彼は北海道でとれるイリドスミンを溶解して球をつくり、それを金ペンの先端にけることに成功するまで、実に6年の歳月を費やした・・・・・(『万年筆』)。

 1911明治43年、並木良輔は自宅の近くに研究室を設けて種々の発明を行う。
   10月、「受話器ごむ口」を新案特許no.274(『実用新案分類総目録』特許局)。
   万年筆用金ペン製作上の眼目たるイリヂウム金属の処理加工に就いては苦心惨憺たる研究を重ね、墜にイリヂウムの溶解を完成し、万年筆製造上の最難点を突破する。
  ―――鉛筆、鵞ペン、或は毛筆――それらの時代は夙(つと)に過ぎ去った。万年筆の出現は、現代文化生活の標語たる「能率増進エフィシェーンシ」に就いて、異常なる貢献をなした。万年筆が我国に伝はってから既に30余年を過ぎた。・・・・・(『万年筆』)。

 1912大正元年8月、商船学校教授、横浜へ出張(逓信省)。
 1913大正2年、京都・大阪・神奈川・兵庫・長崎・広島の各県へ出張(逓信省)。
 1915大正4年8月、6坪ほどの並木製作所を創業。万年筆軸機会製造を開始。
   製作所は品質の良い金ペンの完成に今一歩に迫りながら、経営が立ち行かなくなるも、同窓であり刎頸の友である和田正雄がその急を救う。

 1916大正5年2月9日、万年筆付属装飾部を設ける。
   商標登録 <パイロット14金ペン><耐久25年>
 1918大正7年1月、株式会社並木製作所を創立。資本金60万円。
   専務・和田正雄、常務・並木良輔、取締役・清水雄次郎。
   支店・出張所:東京市京橋区南伝馬町・大阪市。工場・東京市北豊島郡巣鴨町。
   3月、万年筆軸用エボナイト材料製作を開始し、始めて万年筆製造業者として必須の要素をそなえパイロット万年筆を市場に出す。

1920大正9年3月、*戦後恐慌(株式市場の大暴落が契機。第一次世界大戦に便乗した好況による生産拡大の反動)。
   並木製作所は操業5年で、月産1万本台をようやく達するも世界恐慌の波をかぶる。
  ―――万年筆が一般化し、需要がのび・・・・・需要の急増に甘えて粗製濫造の群小メーカーの多くが挫折・・・・・品質を大切に一途に生産にはげんだメーカーだけが恐慌の波をのりきることができた・・・・・ このころの<パイロット万年筆>には、船の浮き輪のマークが刻みこまれている。・・・・・かつて創立者であった和田、並木の二人がかつてともに<船乗り>で同時に海の男達の時代に先駆しようとする<水先案内人(パイロット)>・・・・・(『万年筆』)。
 1922大正11年、実用的万年筆<海国>を開発、従来の半額程度で発売。

 1925大正14年、視察のため渡欧。
   逸品<ダンヒル・並木>を製作。
  ―――万年筆軸の艶を出すために漆を塗り、その装飾のために蒔絵を施す考案を採用・・・・・エボナイト軸にカーボン・ブラックを少量塗り込んで、その上に漆を塗る方法が工夫され、それが<ラッカーナイト>仕上げとして特許を取得・・・・・さっそくイギリスのマルコニー社から実施権譲渡の交渉があったほど、すぐれたものであった・・・・・そこから、わが国独特の蒔絵の技術を生かして、万年筆を装飾するというアイデアが・・・・・腕の立つ蒔絵師とされた飯田光甫などの手によって工芸品ともいうべき高蒔絵の万年筆が出現・・・・・海外に輸出され好評を博した・・・・・(『万年筆』)。  
  ―――工場は450坪、従業員500名、年産約80万本で、販路は遠く海外まで・・・・・売渡後・・・・・「伺状」を購買者に渡し、購入品に関する種々の注意を聴取して製造上の参考に供し・・・・・製品の優良確実なると相俟って外国品を遥かに凌駕する国産品として斯業界第一流のものと普く認められている(『巣鴨総覧』)。

 1929昭和4年7月発行、『パイロット・タイムス誌』に写真「ダンヒル・ナミキ」掲載。
  ―――そこは、当時、ロンドン販売店でつかわれていた鳥居形の真中の部分が万年筆のショーケースとなっているショースタンドが・・・・・このように<パイロット高級万年筆>はわが国を代表する万年筆であるばかりか、文字どおり<世界の>それに・・・・・(『万年筆』)。
 1930昭和5年、支店:紐育(ニューヨーク)ブロードウエー・倫敦(ロンドン)ブロードストリート・新嘉坡(シンガポール)上海(』『実業之日本と新興満洲国 下巻』)。

 1938昭和13年6月27日、並木製作所をパイロット万年筆と改称
   この間に万年筆の材料であるエボナイトはセルロイドに変わり機構も進歩する。
    <牧野富太郎、愛用の万年筆>
     練馬区立牧野記念庭園に再現された富太郎の部屋。
  ―――3000冊の蔵書で埋め尽くされ、座卓には書きかけの原稿用紙・・・・・パイロットの万円筆、ヤマトのりなど愛用の文房具・・・・・(「私のまいにち」2023.6毎日新聞社)。 

 1941昭和16年、「工員月給制度について」渡部旭(産業指導資料)
  ―――私共の工場が21年前に月給制度を実施・・・・・当時の専務取締役和田正雄及び常務取締役並木良輔両氏が「事業経営は人を人らしく遇することに精神があり、人を人らしく働かしむることに運用があり、人を人らしく生活せしむることに目的がある。・・・・・人のさうしてそれを唱えたばかりでなく月給制度と高率ボーナス制度との形に於て之を実行して居るのであります」・・・・・(中略)・・・・・工場に於て「人の和」を得るには「人を人らしく遇する」所の月給制度に如くものはないのであります・・・・・(「大日本産業報国会」)。

 1954昭和29年、死去。享年74。
   家族は妻とく子(海軍中将・永田泰治郎の妹)、五男一女。
   住所、豊島区巣鴨7-1693  電話、大塚1948

   <余談>
 筆者は夫からのプレゼント、梅の花木が描かれた太いパイロット万年筆を永く愛用していた。
 ところが、ワープロ、パソコンを使い出してからはあまり使わなくなった。どんなに便利でいい道具も時代と共に需要が減ってしまうのは仕方がない。とはいえ寂しい。せめて目上の方へのお便りは手書きにしようか。

 

   参考: 『埼玉縣人名選』1938埼玉縣人會編 / 『万年筆』梅田晴夫1979青戸社 / 『工員月給制度について』(産業指導資料、第9輯)1941大日本産業報国会 / 『広告総覧 大正15年版』新聞解放社 / 『日本登録商標大全 9輯下』1917東京書院 / 『巣鴨総覧』中山由五郎1925巣鴨総覧刊行会 / 『実業之日本と新興満洲国 下巻』1934日満経済調査会 / 『財界二千五百人集』1934財界二千五百人編集部 / 国会図書館デジタルコレクション

 

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