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2023年6月24日 (土)

自由学園創設者・羽仁もと子、歴史家・羽仁五郎、評論家・羽仁説子

 先日、高校生の投稿(2023.6.21毎日新聞・みんなの広場)「真実を知るため日本史学ぶ」を読んでとても感心した。
 高校時代、歴史の授業を避けて好きでもない地理をとり、加害の歴史を見ないようにした筆者と大違い。
「自国の過ちを見過ごさず、真正面から向き合わなければならない。つらくても、日本史の授業を一生懸命受けよう」と思う高校生がまぶしい。
 思えば、自分にも前向きな若い時があった。
 かつて朝日新聞社が有楽町にあって、羽仁五郎の講演を聴きに行った。その節、力強い話ぶりに感動して熱に浮かされ、さっそく『三木清全集』全18巻を注文した。
   三木清:1897~1945。哲学者・評論家。東大哲学科卒。
 しかし、全集は手つかず積ん読ウン十年。
 また、羽仁五郎著『明治維新』頁を繰ったものの読みこなせたと言えない。それなのに今回、羽仁五郎を選んでしまい落ち着かず至らないが、併せて家族も紹介してみたい。

    日本最初の婦人記者・女子教育家・自由学園創設者、羽仁もと子

 1873明治6年、青森県三戸郡八戸町の旧南部藩士・松岡家に生まれる。
 1889明治22年、16歳。祖父につれられ上京。
   東京府立第一高等女学校二年に編入。
 1890明治23年、在学中、築地の明石町協会で洗礼を受ける。
 1891明治24年、岩本善治校長の明治女学校入学。
   月謝は免除され寄宿料は『女学雑誌』の校正でまかなう。このとき、秀英社(のちの大日本印刷)を知る。
 1892明治25年、夏休みに帰郷してそのまま退学、地元の小学校や盛岡女学校の教師をつとめる。
 1896明治29年、結婚したが半年で離婚、再度上京。
  ―――吉岡弥生の至誠病院で女中として働いた。在学中から一貫して仕事をもっていた経験が、女性の自律の主張のささえとなった(『民間学事典』
 1897明治30年、報知新聞に校正係として入社。のち記者となる(日本初の女性記者)。
 1901明治34年、28歳。職場で出会った羽仁吉一と結婚、退社。
 1903明治36年、30歳。長女・説子生まれる
   羽仁吉一も退職して『家庭之友』(のち『婦人之友』)創刊。女性の自由と独立のための家庭論を展開、婦人が自主的に合理的な生活設計をすすめていく婦人運動の先駆となる。
 1904明治37年、説子生まれる。家計簿を創案・出版。

 1921大正10年、北豊島郡高田町雑司ヶ谷に夫の羽仁吉一自由学園創立
   初等・中等・高等の各部をとおして自由主義の系統的な女子教育の機関として発足させ、学園に雇人をおかず、すべての学園生活を生徒の自主・自治にまかせる生活中心の教育をおこなった。
   昭和初期に男子部と幼児生活団(幼稚園)を加えた。
 1923大正12年9月1日、関東大震災。生徒が救援活動をおこなった。

 1930昭和5年、全国にひろがる『婦人之友』読者の「友の会」を組織。戦前・船中・戦後一貫して、家庭を通して人と人とが自由を学び、協力しあい、愛のあふれる社会を創ることにつとめた。
 1938昭和13年、大蔵省国民貯蓄奨励委員。
 1945昭和20年、敗戦。
 1957昭和32年4月7日、死去。享年84。
   東京雑司ヶ谷墓地に葬られる。
  ―――文部省令によらない女子教育を創始・・・・・没するまで書き続けた月刊『婦人之友』中の文章は、婦人解放のために大きな啓蒙的役割を果たした。クリスチャンで、政治的主張はなく、自由主義的合里主義者であった(羽仁説子)。・・・・・(『世界大百科事典』)。
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     歴史家・羽仁五郎

 1901明治34年、群馬県桐生の裕福な織物業者・森宗作の5男に生まれる。
  ?年、東京帝国大学法学部に入学するも退学して渡欧。ハイデルベルク大学で歴史哲学を学び、大内兵衛・三木清らと親交を結ぶ。
 1924大正13年、23歳。帰国後、東大文学部国士科に入学。   
 1926大正15年、東大在学中、羽仁説子と結婚。森姓から改姓、羽仁姓となる

 1927昭和2年、東大卒業。東大史料編纂所の嘱託(~1928昭和3年)となる。
 1928昭和3年~1932昭和7年、日本大学史学科創設の任を負って日大教授となる。
   日大・自由学園教授となり、マルクス主義者として活躍。在野の立場を貫く。
   <講壇史学への戦い>
  ―――講壇史学の日本における本山は東大を中心とする史学会であった。・・・・・その東大卒業生として、史学会や『史学雑誌』を舞台として、内部から体質批判に踏み出す。従来のすべての明治維新解釈をしりぞけ、プロレタリア的立場からのそれを主張した「明治維新史解釈の変遷」や、『転形期の歴史学』は新しい歴史学を鮮明にうちだす作品となった。こうした姿勢は、大学の史学授業に飽きたりぬ学生たちをひきつけた・・・・・(『民間学事典』)。
 1928昭和3年、雑誌『新興科学の旗のもとに』を三木清と共に創刊。
   同誌に「清算明治維新史研究」「言語および文字と階級」など論文を発表。学問としてのマルクス主義の確立と展開をめざす。

 1929昭和4年、秋田雨雀・三木清らとプロレタリア科学研究所を創設。
   『転形期の歴史学』
 1932昭和7年~1933昭和8年、「日本資本主義発達史講座」の編集に加わり「幕末に於ける政治的支配形態」など執筆。また、「東洋に於ける資本主義の形成」を発表し、野呂栄太郎・服部之総と共に科学的明治維新研究の樹立に貢献。
 1933昭和8年、治安維持法違反の容疑で検挙。
   ―――「手記」を書いて釈放されたが、その屈辱をばねに、のしかかるファシズムとの戦いに突き進んだ。なかでも①『白石・諭吉』(1937) ②『ミケルアンデェロ』(1939) ③『明治維新史研究』(1940)のち『明治維新』(1946)は、自由と理性の勝利を熱烈に希求する精神ゆえに、時代の息苦しさにあえぐ人々に、蘇生の想いをもたらした・・・・・(『民間学事典』)。

 1945昭和20年、敗戦。
   歴史学研究会の再建に努力。
 1947昭和22年、第一回参議院議員選挙、当選。
 1948昭和23年、国会図書館の創設を主導、日本学術会議会員としては、学問・思想の自由委員会委員長をつとめた。
   国会図書館に刻まれた「真理がわれらを自由にする」という銘は五郎の発案になる。

 1967昭和42年~1968昭和43年、『羽仁五郎歴史論著作集』全4巻。
 1981昭和56年~1982昭和57年、『羽仁五郎戦後著作集』全3巻。
 1983昭和58年6月、羽仁五郎、死去。享年82。
   ―――『都市の論理』(1968)革新自治体の簇生と学生反乱の興起という状況とあいまって、爆発的な人気をよんだ。戦闘性と批評性にうらづけられた切れ味の良い文章と明快な論理は、ときに教祖といわれながらも多くのファンをもった・・・・・自伝的作品として、『私の大学』『自伝的戦後史』がある(鹿野政直)。
  ―――羽仁五郎は、日本の現代史において特異な地位を占める知識人である。「数千年の過去の歴史的経験を追体験し、数歩の将来をつねに思案していると自覚する福沢諭吉や戦前の羽仁五郎のような大秀才」という評価がある。・・・・・(斎藤孝)。
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     昭和期の教育家・評論家、羽仁説子

 1903明治36年、羽仁吉一・もと子の長女に生まれる。
 1924大正13年、自由学園卒業後、『婦人之友』記者となる。
 1926大正15年、羽仁五郎と結婚。
   三人の子を育て、家庭と仕事を両立させながら、生活や教育の問題について執筆。
 1945昭和20年、敗戦。
 1946昭和21年、宮本百合子らと、「婦人民主クラブ」を結成。
 1948昭和23年、『シーボルトの娘たち』刊行
  ―――いままでの歴史には、女性についての記録があまりに少なすぎる。・・・・・多くの優れた女性たちの愛と涙の人生を知ろうともしなかった。・・・・・シーボルトの愛人おたき、愛子のおいね、そしてその娘のおたか、その三人の女性が、日本の黎明時代に数奇の人生を生き抜いた人生記録をとりあげてみたいとおもう(『シーボルトの娘たち』)。

 1952昭和27年、日本こどもを守る会創立、副会長となる。1961年、会長就任。
   一貫して母と子のしあわせのために力をつくす。
 1962昭和37年、「新日本婦人の会」結成。
 1978昭和53年、『わが子を生かす家庭教育』ナツメ出版。
 1979昭和54年、羽仁説子『妻のこころ-私の歩んだ道』岩波書店。
 1980昭和55年、『羽仁説子の本』草土文化。全5巻。
 1982昭和57年、『教科書の検定』羽仁説子・星野安三郎編、四星社刊。
   1章・教科書ができるまで /2章・検定の実態 /3章・検定教科書の移り変わり /付・検定制度。
 1987昭和62年、羽仁説子、死去。享年84。
   長男・羽仁進は映画監督。


   参考:『民間学事典 人名編』鹿野政直ほか1997三省堂 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 『世界大百科事典』1972平凡社 / 『人生の朝の中に』1995婦人之友社 / 『羽仁五郎歴史論抄』編集解説・斎藤孝1986筑摩書房 / 『明治維新-原題日本の起原-』羽仁五郎1984岩浪新書 / 『近現代史用語事典』安岡昭男1992新人物往来社

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