明朗時代小説作家、「桃太郎侍」 山手樹一郎
面白くてタメになる? 橋本治『完本 チャンバラ時代劇講座』を読んだ。
小中学生のころ、夏休み冬休みじゅう泊まっていた伯母の家は遊び放題、映画見放題。どういう縁か東映の映画館にただで入場でき、チャンバラ映画をいっぱい見た。
その映画の数々が登場して懐かしく、また大好きな『大菩薩峠』についても語られる橋本治の「時代劇講座」。
時代劇人気。ついては、一般大衆のその時どきの心理についての解説など「なるほど、そうなんだ」、感心するばかり。それで、『チャンバラ時代劇講座』をお薦めしたいけどよくできないので、おなじみ時代劇「桃太郎侍」作者・山手樹一郎を見てみた。
けやきのブログⅡ<2020.12.5『大不況には本を読む』『桃尻語訳 枕草子』橋本治>
けやきのブログⅡ<2010.5.13 『桃尻語訳 枕草子』橋本治
山手樹一郎との出会いはずいぶん昔、中学生当時の貸本屋である。
一日一冊、菓子パン一個ほどの料金で借りられた。学校帰り毎日のように寄っては山本周五郎や中里介山など借りた。
学校の図書室で「偉人伝」「世界名作全集」『赤毛のアン』を借りる一方、貸本屋で時代小説を借りる変な子だった(おそらく今も)。それこそ雑読濫読、寝る間を惜しみ、夜中、親によく叱られた。
山手 樹一郎
年譜は主に『大衆文学大系 第27巻』参照。
1899明治32年2月11日、栃木県黒磯で生まれる。本名、井口長次。
井口浄次・よし夫妻の長男。生後まもなく父の東京転勤で東京田端 「道灌山の東がわ、音無川にそった」 鉄道官舎に移る。
<「残暑の道」 山手樹一郎メモ >
1901明治34年3月『風俗画報』臨時増刊を拾い読みしていたら・・・・・ 汐留(新橋)川河岸にあった船宿・・・・・ 文久から慶応のころ、ここに十軒ばかり船宿が並んでいて、たいてい屋根舟、荷足、猪牙舟がつないであった。・・・・・舟は人の足よりおそい上に、料金も今日のハイヤーよりはるかに高いわけだ。つまり、屋根舟は余ほど贅沢なもので、とても庶民には縁の遠いしろものだったということになる(『代表作時代小説』)。
1917大正6年、明治中学卒業。この頃『幼年世界』(博文館)に童話など投稿する。
1919大正8年、編集者生活に入る。
1924大正13年、広部秀子と結婚。東京郊外長崎町(豊島区要町)に住む。
1925大正14年、長男・誕生(作家・井口朝生)。
この頃、小学新報社発行『少女号』の編集に従事。月給75円。
1927昭和2年1月、博文館に入社。
『少年少女・譚海』の編集。寄稿家の山本周五郎らと親交を結ぶ。
7月号に井口長二名で「大剣聖荒木又右衞門」発表。
1933昭和8年、大林清・番伸二・梶野千万騎らと同人誌「大衆文学」を創刊。
9月、山手樹一郎の名で「一年余日」が『サンデー毎日』大衆文芸、選外佳作。
以後、「うぐいす侍」「泣虫康」など短編を発表。
1936昭和11年、「飛燕一殺剣」 「身すぎ鈴慕」を発表。
―――私(朝生)が小学生のころ父は少年雑誌の編集者でいわゆる日曜作家でもあった。サラリーマンであるかたわら山岡荘八、村上元三、山本周五郎、海音寺潮五郎ら諸氏と親交しながら小説を勉強していたそう・・・・・毎夕六時に父は勤め先から帰宅して、私たち子供との団欒に一合の晩酌をした。・・・・・深夜に目を覚ますと、父は必ず三畳の小部屋に電燈をつけて、なにか書いたり読んだりしていた。父の友人の作家や画家がしばしばわが家に集って酒をのみ、議論をした。狭い家の中で放歌高唱、あげく庭へ飛び出して取っ組合いの喧嘩になることもあった・・・・・(『大衆文学大系』)。
1937昭和12年~1938昭和13年、「喧嘩大名銘々伝」「恋慕街道」「さむらひ鑑」「賭小町一本勝負」「艶姿女親分」「元禄片恋ひ娘」ほか。
1939昭和14年、博文館退社。筆一本の生活に入り長谷川伸に師事、「新鷹会」に参加。
「将棋主従」「辻斬り人魂」「果たし状由来」「抜かれ剣客」「侍の道」ほか。
1940昭和15年、第一著書『うぐいす侍』(博文館)刊行。
代表作となった「桃太郎侍」を岡山合同新聞に連載、作家としての地位を固める。
「供養祝言」「暴れ姫君」「売り出し遠山桜」ほか。
1941昭和16年12月8日、日本軍ハワイ真珠湾奇襲攻撃、対米英宣戦布告する。
『桃太郎侍』『遠山の金さん』など刊行。
1942昭和17年、『さむらひ街道』『戊辰進軍譜』刊行。
10月、文化団体・くろがね会結成。顧問・海防義会理事長・海軍中将上田良武、菊池寛ほか。理事長・木村毅、事務長・山手樹一郎。
1943昭和18年~1944昭和19年、「獄中記」「檻送記」「蟄居記」三部作(のち『崋山と長英』)『大衆文芸』に発表。本格的な歴史小説として評価され、新鷹会賞・野間文芸奨励賞を受ける。
―――明朗時代小説を書く山手樹一郎の世界は、文字通り独擅場だが、その基礎には本格的な歴史小説である『崋山と長英』をまとめるだけのたしかな眼が秘められているのを忘れてはなるまい・・・・・(『大衆文学の歴史』)。
1945昭和20年、敗戦。46歳。
1948昭和23年、「又四郎行状記」「夢介千両みやげ」「十六文からす堂」の連載、娯楽長編の書き手として地位を獲得する。
―――このころの国民一般の生活事情は深刻で、主食の配給量はまだ二合五勺にとどまり・・・・・(中略)・・・・・戦後はアメリカの占領によって、チャンバラ小説はさまざまな規制を受けた・・・・・剣客ものも仇討ものもダメとなり・・・・・剣による殺しに代わって・・・・・捕物帖や明朗時代小説が歓迎され、同傾向の作品が巷に氾濫・・・・・その中にあって、山手樹一郎の時代小説は、戦前からの年季のたしかさをしめし、とりわけ人気をよんだ(『大衆文学の歴史』)。
―――「暗さは実生活だけで、たくさんではないか。大衆はどこかでもっと心温まる、楽しさを求めている。その大衆を忘れては大衆文学はあり得ないびではないか」 これは仲間の山岡荘八にむかって語った言葉らしいが、これほどみごとにその文学的心情を吐露したものはあるまい・・・・・(尾崎秀樹『大衆文学大系』)。
―――からす堂、書かれた時期も、敗戦まもないころから晩年におよぶ長い期間にわたっている・・・・・シリーズは作風を反映して人情味が濃く・・・・・真相の追究よりその円満な解決に重点をおいた点に、作品にあたたかさが感じられる・・・・・(『大衆文学の歴史』)。
1951昭和26年、時代小説の研究会「要会」をつくり後進の指導育成に努める。
1952昭和27年~1961昭和36年、『紅梅行灯』『野ざらし姫』『江戸群盗記』『深網笠からす堂』『浪人市場』ほか。
1962昭和37年~1972昭和47年、『江戸の顔役』『素浪人案内』『幸福を売る侍』『虹に立つ侍』『名物からす堂』ほか。
1964昭和39年8月、日本作家クラブ会長就任。
1978昭和53年3月16日、死去。享年79。
明朗時代小説にすぐれ。エンターテインメントの文学として、又四郎・桃太郎侍・などの作中人物は、いずれも山手樹一郎の理想主義が生んだ人間像である。
―――山手さんの僚友であった山本周五郎は、より高いといわれる仕事をした。これは困難な道であった。それなら山手さんの娯楽中心小説道が安易かというと、決してそうではない。気楽に読める小説ほど、身を削る作者の苦心がいるのである。・・・・・(『大衆文学大系』(月報27)萱原宏一)
参考: 『昭和39年度 代表作時代小説』1984東京文芸社 / 『大衆文学大系 27』1973講談社 / 『大衆文学の歴史 下』尾崎秀樹1989講談社 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院
| 固定リンク
コメント