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2023年7月29日 (土)

岐阜県の明治 いろいろ

 毎年、7月新盆と8月旧盆どちらもお墓詣りするが、今夏はあまりの猛暑に足が出ない。でも、行かないとですよね。
 お盆といえば、子どものころ浴衣で小さい提灯を提げ夕闇を歩いたのを思いだす。あわせて岐阜提灯の優雅な灯りも思いだす。

     <岐阜提灯
  ―――高尚優美を極め、上は雲深き九重の宮居より、下は庶人に至るまで治く愛翫せられ、また盛に海外に輸出せらる、・・・・・明治時代に至りその形状製造法彩畫模様等に漸次改良を加へて現今の如き精巧なるものを製造・・・・・
  涼しさに美はしさをもこめて見る この燈火にますかけはし (*福羽美静)・・・・・(『岐阜市案内』)。
   福羽美静ふくばびせ。幕末・明治期の国学者。

  ―――岐阜はもと井ノ口といい、濃尾平野東北の要地にあり、室町・戦国時代、稲葉山に土岐氏の重臣斎藤氏が在城。のち織田信長が入城して岐阜と改め、城下町を経営。しかし、関ヶ原戦後、廃城・・・・・(『日本史辞典』)。
   岐阜関ヶ原古戦場記念館:JR関ヶ原駅から徒歩10分

 1868慶応4年、新政府は接収していた美濃郡代所に笠松裁判所(笠松県)を置く。
 1868明治元年、大垣藩の重臣・小原鉄心は戊辰戦争にあたり、いち早く藩論をまとめ新政府への帰順を決めた。新政府の東北出兵にも同行、大垣藩士は新政から褒美を得る。鉄心は越前本保県知事に任命されるも病のため赴任せず免職。1872明治5年死去、享年55。
   
 1870明治3年、美濃恵奈郡の一万石の苗木藩、徹底した廃仏毀釈を行う。
   廃仏毀釈:明治新政府は王政復古・祭政一致を唱え、神仏混淆を禁じ神道国教化政策を実施。この神仏分離令を契機に西日本を中心に極端な廃仏運動がが激化、寺院・寺院・仏像などの破壊や寺領没収が続出した。

 世の変わり目いろいろ起こるが、時代が変わり新しい学問で世に役立つなど前向きの話もあるはず、岐阜県の明治を見てみよう。

 1871明治4年、廃藩置県により各藩は県と改称。
   美濃では笠松県のほかに大垣・加納・郡上・高富・今尾・岩村・苗木・野村の八藩、美濃地方が岐阜県となる。
   草創期の岐阜県政は、旧福井藩士を中心に県外の「館員様」に牛耳られていた。
   美濃の南宮神社を国幣大社、飛騨の水無神社を国幣小社に格付け。
 1872明治5年11月、県下初の大垣小学校を設置。
 1873明治6年、県下初の『岐阜新聞』創刊。
   12月、師範研修学校(岐阜大学教育学部)を大垣町に開設。
   この年、歴史学者・津田左右吉、美濃加茂市に生まれる。
 1875明治8年、公立病院・医学校設置。岐阜町に「瀬古写真館」創業。

     <美濃と飛騨
 美濃は、木曽川・長良川・揖斐川という三つの川がつくった広大な平野と、それを三方から囲む後背地とからなる豊かな国。濃尾平野の人々は、遠い昔から代々洪水と闘い、かつ水を利用し豊かな生活を築いてきた。
 飛騨は、飛騨山脈と白山火山脈とが走り、その間に飛騨高地がひろがる山国である。
 というように美濃人と飛騨人は異なった自然の中で異なった生活文化を育ててきた

 1876明治9年、県の統廃合が行われ美濃と飛騨をあわせた岐阜県がおかれる。

  ―――政府は中央からの諸指令に従わない県の解消と、地方の行政整理による経費削減を目的として府県の統廃合を行う・・・・・すべての県が旧石高で60万石以上となった。この一県あたりの規模拡大が、美濃と飛騨の合併を実現させたのである。その後、福井県・愛知県・滋賀県・長野県・三重県などとの間で県境の確定や異動を行っている・・・・・(『岐阜県の歴史』)。

 1877明治10年、第十六国立銀行、岐阜松屋町で開業。このころより洋服の着用増加。
 1879明治12年、第一回県議会。山岳派と水場派が対立。
 1880明治13年、洋画家の熊谷守一、初代岐阜市長・熊谷孫六郎の三男に生まれる。
 1882明治15年3月、濃飛自由党結成。板垣退助来県。4月、岐阜中教院で板垣退助遭難

     <飛山濃水
   海抜0mから標高3000m級の山々をかかえる飛騨、山がちの東濃から木曽三川がつくりだした西南濃の平野までの対照的な地形をみごとに表現している。全く違う性質の国が合体!
 この違いが県会を山岳派水場派の論戦の場にし、治水工事、道路橋梁工事修繕費などで対立、紛議する。

 1883明治16年、県は予算で木曽・長良・揖斐の三大河川については治水費を支出し、他の42河川の修繕などについては町村の土木工事にくみこみ、補助費を支出することにし予算を均衡させると、抗争は終息した。
   この年、東海道線長浜(滋賀県長浜市)-関ヶ原(関ヶ原町)間が開通。大垣-桑名間に小蒸気船が就航。
   この年、*名和靖岐阜蝶を発見。
 1884明治17年7月、加茂郡農民約400人、地租軽減・諸税廃止・徴兵令廃止を求めて蜂起(愛国交親社の美濃加茂事件)。

 1887明治20年、東海道線、大垣-加納(岐阜市)間が開通。木曽川下流改修工事開始。
 1890明治23年、第一回総選挙。
 1891明治24年10月28日早朝、日本近代で最大規模の濃尾大地震発生
   震源地、本巣郡水鳥(みどり)村(本巣市)でマグニチュード8・4、関東大震災を上回る。
   県内の被害は、家屋全壊5万1戸、家屋半壊3万3459戸、家屋焼失4455戸、死者4984人、負傷者1万3762人。
 1892明治25年秋、西濃各地で震災救済、復旧措置をめぐる農民の糾弾事件続発。

   野麦峠:飛騨の出稼工女で有名化した野麦峠(1672m)は高山市高根町と長野県境にあり、飛騨から信州っや江戸への最短距離として古来から活用されてきた。伊能忠敬一行も野麦で一泊し信州越えした(『ぎふ峠ものがたり』)。

 1894明治27年3月、岐阜聖公会*訓盲院、岐阜市神田町に設立。
   8月、日清戦争開戦。県下応召兵・約5000人、うち戦没者238人。
 1895明治28年、五十嵐喜広、吉城郡古川町で飛騨育児院を開院。のち濃飛育児院と改称。拠点を移して活動を続ける。

 1896明治29年4月、名和靖、市立名和昆虫研究所を設立
     <名和 靖 (1857~1926)>
  ―――名和は岐阜県農学校で、世界で最初にイチョウの精子を発見した平瀬作五郎、校長の石川千代松(ダーウィンの進化論)から学んだ。・・・・・岐阜尋常師範学校、中学校教師をつとめるかたわら、県内各地の農民に害虫防除の講話・・・・・幻灯機をつかいながら婦人や子どもにもわかるように話した・・・・・名和が発行した『昆虫世界』昆虫文学欄の俳句選者は当時26歳の塩谷鵜平・・・・・農会に名和の親友・桑原貫之助は研究所を設立したとき周囲から狂人扱いされた名和をはげました・・・・・(『岐阜県の百年』)。

 1897明治30年、うんか(ツマグロヨコバイ)が全国的に大発生。
   名和の唱える害虫駆除法はいちやく有名となり、名和は急に「有用視」され、毎年、研究所で開いた害虫駆除講習会は全国から受講者を集め、明治31年~大正11年までの修了者は約1600人にのぼった。

 1900明治33年、佐々木とよ、岐阜裁縫伝習所(現、鶯谷女子高校)を開設。
   この年、*杉原千畝(すぎうらちうね)、八百津町で生まれ幼少期を過ごす。
   杉原千畝:1939昭和14年、リトアニアの日本領事館勤務。ナチスの迫害から逃れるユダヤ人たちに通過ビザを救うためビザを発行し続けた。

 1901明治34年11月、美濃紙同業組合設立認可。
 1903明治36年5月、岡田只治、「岡田式渡船装置」で特許取得。
 1904明治37年2月、日露戦争開戦。県下応召人員約2万7000人・戦没者3668人。
   日清戦争に比べ戦没者数が格段に多いが、岐阜県に限らないだろう。
   
 1906明治39年11月、岩村電気軌道、電鉄と電灯の両事業を開始。
 1907明治40年1月、岡本太右衛門ら、岐阜電気を設立し水力発電に進出。
   2月、岐阜市内に電話開通。
 1908明治41年3月、歩兵第六十八連隊、稲葉郡北長森村に移転。
 1909明治42年11月、恵那郡蛭川村、済美図書館を設置。
 1911明治44年3月、美濃電鉄、柳ヶ瀬・美濃町間に電車運転開始。
   4月、女子師範学校設立。
   10月、名古屋電燈、木曽川発電所竣工。
   この年、吉城郡袖川村(総戸数350戸)の男女出稼工77人に達し出稼ぎが恒常化。

 

   参考: 『岐阜市案内』1921岐阜保勝会編 / 『岐阜県の百年』1989山川出版社 / 『岐阜県の歴史』2000山川出版社 / 『郷土史事典 岐阜県』1982昌平社 / 『岐阜県の歴史散歩』2006山川出版社 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 /  『日本史辞典』1981角川書店 / 『ぎふ峠ものがたり』2017岐阜新聞社 /  『岐阜のトリセツ』2021昭文社 / 国会図書館デジタルコレクション

 

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