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2023年7月 1日 (土)

大正時代の美術教育者・画家、山本 鼎(かなえ)

  ―――私(山本鼎)は 何よりもまづ畫()を描く事を諸君にすすめたい。殊に道楽として畫()を選ぶ事をすすめたい。人間は楽しむ為に生きて居る動物である。それ故自分の食ふ為の職業の外に誰人(だれびと)も道楽を持ち何等かの楽しみを得やうとする。
 道楽には種々あらう・・・・やればやる程自然がかわいいゆくなつて来る事を思ふと 何故人は皆画家にならないのかと思ふ。
 芸術の楽しみは永遠であるとレオナルド ダ ヴィンチの言つた事は草一本を見ても思ふ・・・・・(『油絵ノ描キ方』)。

 小中学生のころ、図工の授業、とくに戸外の写生が好きだった。さっさと樹木を描き、後は集合時間まで思いっきり遊んだ。一度などは小川の浅瀬に入ったのを先生に見つかり叱られた。遥か昔のことだが小さな流れを見ると、あの水の感触が蘇ったりする。
 コロナ禍は小中学生の絵にどんな影響を与えただろう。写生をしに戸外へ行くのかな? その子どもらに自由画教育や農民美術を推進したのが版画家・洋画家の山本鼎である。

     山本 鼎   (やまもと かなえ)

 1882明治15年、三河の岡崎(愛知県)で生まれる。
   東京で育つも父は長野県で北信の農村で医業を営んでおり、長野県人とも。
 1906明治39年、東京美術学校(東京芸大)卒業。
 1912明治45年/大正元年、フランスに留学。後期印象派の個人的リアリズムの影響を受ける。
   4年ほどしてロシアに赴き、滞在中、児童画と農民美術に感銘する。
 次は山本鼎『美術家の欠伸』から。
  ―――私は巴里(パリ)で三度春を迎へた。・・・・・量は少いが巴里は雨の多い處だ。併し春の雨は細くて光線のやうだ。行人は傘もさヽずに、むしろ楽しげに濡れてゆく、もし、濡れすぎると思へば身ぢかなカフェに憩めばよい・・・・・。
  ―――モスクワで私は三人の美術家と近づきになつた。其一人は、ニコラス、ヤツセルブーセツと云つて独逸仕込みの彫刻家で子供のやうに無邪気な大男で、私がとある横町で、霧に煙つた大聖教世主寺の眺望を描いて居る時通りかヽつて、「此処で畫なぞ描いて居ると巡査に引つ張られますよ」と注意してくれたのはこの人であつた・・・・・・。
  ―――巴里には未練が残りました・・・・・全く自由で、且つあの孤独の情味は今も僕を招きます・・・・・芸術家にとつての自然な境遇があるのです。併しとうとう発つ日が・・・・・。
 1916大正5年、モスクワ経由で帰国。

 1917大正6年、日本美術院同人となる。
 1918大正7年、日本創作版画協会を設立。会長となる。
   12月、長野県に帰省。小県(ちいさがた)郡神川(かんがわ)村、現上田市で金井正・山越脩蔵と農民工芸・美術教育について語りあう。
   神川小学校長・岡崎袈裟男を知り、同校で児童自由画について講演。
   明治以来の手本を模写する画一教育を不自由画と批判、野外写生などのよって子どもに自由に描かせることを提唱。全国的に大きな反響を呼んだ。

 1919大正8年4月27~28日、神川小学校で日本最初の児童自由画展覧会を開催。
   7月、日本自由画協会(のち日本寿雄自由教育協会)を結成。
   9月、秋季皇霊祭の日、長野県下伊那郡龍丘小学校で第二回展覧会開催。

 1920大正9年2月、神田神保町の兜屋画堂・4月、赤坂溜池の三会堂で小展覧会。
   その後、この種の展覧会が京都府中郡峯山町・九州福岡など諸方で開かれる。東京日日新聞協賛の展覧会、大阪朝日新聞主催の世界児童自由画展覧会は大いに宣伝となった。この運動は『赤い鳥』『金の船』『少年雑誌』などの自由画募集にも現れた。
   4月、第一回農民美術制作品展覧会を開催。
   5月、銀座で農民美術制作品展示即売会をし、好評を博す。
      日本自由教育協会を北原白秋・弘田龍太郎らと設立。
   7月、芸術教育夏期講習会を開催。

 1921大正10年、機関誌『芸術自由教育』を創刊。
  ―――従来の手本(臨本)を模写させるだけの図画教育は子どもの創造性を抑圧するものだととしてこれを否定し、子どもの個性と創造性にもとづく直接、かつ自由な表現を主張・・・・・この自由画の提唱は図画教育会に衝撃を与えたばかりでなく、教育観や児童観の革新として・・・・・一世を風靡する・・・・・(『民間学事典』清水康幸)。

    <児童と図画> 自由学園教授・画家 山本鼎
 「まづ林檎を食べさせ、然るのちに其味ひを問ひ、段々に廣く深く関係的知識に誘つて、自然に美の価値を悟らせる」私は、家庭へも学校へも、此方法をおすすめし度い・・・・・
・・・・・子供には、お手本を具えて教へてやらなければ畫()は描けまい、と思うのふならば、大間違ひだ。吾々の身辺の豊富な「自然」は、いつでも色彩や、濃淡や、緑や塊や、ポーズや、コンポージョンのありとあらゆる表現を子供らの眼の前に展開しているではないか。それは美術家の仕事の酵母であつたと共に、子供らにとつても唯一のお手本なのである・・・・・(『玩具手工と図画』)。

 1922大正11年、自由学園開設に際し美術教育を開催。
   けやきのブログⅡ2023.6.24<自由学園創設者・羽仁もと子、歴史家・羽仁五郎、評論家・羽仁説子>

 1923大正12年、上田市外の農村青年に農閑期副業のため工芸品制作を指導。大屋に日本農民美術研究所を設立。農民美術制作品の産業化をめざした。
 1924大正13年、「春陽会パンフレット」掲載住所。東京府下大森新井宿1394番地。

 1939昭和14年、日本農民美術研究所、閉鎖。しかし、現在でも上田市の木工芸品にその影響がみられる。
 1946昭和21年、死去。享年64。

  ―――山本氏はフランスのデャツク・エミール・ブランシュ氏に似た所があつて多能で、そのうち文章もうまい。・・・・・ポール・セザンヌの自然に対する態度を執り・・・・・自然の実相を最も重じて、細工的技巧を後回しにする所に、ヂオット、セザンヌのにほひがする。そして自然から受くる印象が強いだけ、かつそれを強いままに移さんとする意志が圧倒的に働くのであるから、画家のいわゆる筆触(ツーシュ)振りが能く出ている・・・・・(『仏蘭西文化の最新知識』)。
  代表作:白菜と玉葱・サーニヤ・時化の朝・霧の湖畔など。 絵や作品、児童画の批評など。
  国会図書館デジタルコレクションに挿画・著書などある。
  著書:『油畫のスケッチ』『油畫の描き方』『美術家の欠伸』『自由画教育』ほか。

 

   参考: 『美術家の欠伸』山本鼎1921アルス / 『油絵ノ描キ方』山本鼎1917アルス / 『玩具手工と図画』 / 『民間学事典』1997三省堂 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『図画教育の新思潮と其の批判』新井溶之助1922大同館書店 / 『仏蘭西文化の最新知識』重徳泗水1922アルス

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