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2023年7月22日 (土)

女性記者の草分け・民権家・作家、清水紫琴(豊子)

 電車・バスの車内で乳母車を見かけると、つい笑いかけてしまう。赤ちゃんの笑顔が返ることもあれば、不審顔されることもある。でも、み~んな可愛い。
 世の中いろいろ便利になって機器も発達したが子育てはもう大変、楽じゃない。イクメン、どのくらい普及しているのだろう。
 子育てに限らず何かと制約のある女子だが、困難にめげず活躍する女子は今も昔もいる。
 明治自由民権運動期に活動した婦人解放運動の先駆者、福田(景山)英子はその代表と言えよう。その英子の友人で同士でもあった清水豊子、筆名・清水紫琴を英子の記述からどういった人物なのか興味をもった。
  けやきのブログⅡ<2019.9.21妾が天職は戦いにあり、人道の罪悪と戦うにあり、福田英子(岡山県>

   大阪事件で入獄していた福田英子は、憲法発布の大赦(明治22年)で出獄。
  ―――・・・・・妾(英子)が出獄せし如きも・・・・・*泉富子は妾を迎えて郷里に同行するなど、妾との関柄もほとんど姉妹の如くなりしに(泉富子が英子と内縁関係にある*重井と交際し懐胎したため)・・・・・妾は直ちに重井と泉に向かってその不徳を詰責せしに、重井は不徳の本性を現したりけれど、泉は女だけにさすがに後悔せしにやあらん・・・・・その後、久しく消息を聞かざりしが首尾よく農学博士の令室となり・・・・・(福田英子著『妾の半生涯』)。
   泉富子:清水とよ・紫琴のこと。
   重井:大井憲太郎大阪事件の首領。英子と内縁で男児あり)と富子(紫琴)、恋愛関係になり一子をもうけるが、間もなく離別。
  
   政治運動に関わった明治の女性として福田英子を思い、英子の『妾の半生涯』を読み返し、泉富子こと清水紫琴が気になった。そこで手元の人名辞典をみると清水紫琴の名はあったが、『現代日本日本文学大事典』にはない。作家なのに、なぜ文学事典に載ってない?
 評価が分かれるのか、それとも研究されてないのか気になる。見てみよう。
 ちなみに、福田英子・清水紫琴二人とも幕末の慶応生まれ、和初期まで生きた。

     清水 紫琴   (しみず しきん)

 1868慶応4年(9月8日明治元年)2月4日、備前国和気郡(岡山県)で生まれる。
   父は漢学者・清水貞幹、母は留以。
   本名はトヨ。号は花園。筆名はとよ・豊子・秋玉・生野ふみ子・紫琴・つゆ子など。
   父の京都府出仕に従い、2歳から京都麩屋町で育つ。
 ?年、京都府女学校小学師範諸礼科卒業。
  ―――明治維新後、京都に移り住むと共に何か工場を経営しましたが・・・・・火災のため工場を失ひ、一家は非常な窮境に陥り・・・・・生立ちは平和でなく、世の波風に揉まれつつ成長・・・・・女史が東京に出て明治女学校に学び。その文才を以て小説に志したのも、このやうな苦労から・・・・・年若でもよく人生を語ることが出来た・・・・・(『明治初期の三女性』)。

 1885明治18年、弁護士(民権家の代言人)の岡崎晴正と結婚。女権拡張運動に活躍。
   国会開設を前にした大同団結運動のなかで、民権家が設立した興和会と寧楽交詢会に夫妻で参加。
 1887明治20年11月、奈良県の集会で「女学校の設立を望む」という題で演説。
   興和会の機関誌『興和の友』にも、岡崎とよ・清水秋玉名で「敢て同胞兄弟に望む」などの評論を執筆し、女権拡張論・婦人参政権要求を展開。
 以後、弁論活動を続けるなかで、植木枝盛中江兆民らとも交流。
   植木枝盛の『東洋之婦女』に序をよせたのはこの頃か?

 1889明治22年はじめ、岡崎晴正と離別。
  ―――2月、大阪事件の出獄社を迎え、景山(福田)英子と数ヶ月間行動を共にし、女性の大同団結を図る組織作りと女権拡張が目的の雑誌『女権の魁』発行を企てるが実現せず。同じころ「一夫一婦建白書」を京都府経由で元老院に提出し、婦人白標(はくひょう)俱楽部に参加・・・・・(『明治時代史大辞典』)。

 1890明治23年、上京。*岩本善治主催の『女学雑誌』に入社。
   岩本善治:『女学雑誌』創刊。明治女学校創立。

   草分けの女性記者として、清水豊子・生野ふみ子・つゆ子などの名で探訪記や評論を発表。半年後には主筆となり、論説に筆を揮う。
  ―――集会及び政社法制定に対して「何故に女子は政談集会に参聴することを許されざる乎」、衆議院規則案で女性の議会傍聴が禁止されると、政治家に働きかけるとともに「泣いて愛する姉妹に告ぐ」を書いてその不当性を訴えた。これらが功を奏して女性の傍聴禁止は削除された。・・・・・また、結婚への無邪気な無双や誤想を戒め、隷属するな、自主性を持て、そして家庭の変革者たれと読者の女学生たちに呼びかけ・・・・・・(『明治時代史大辞典』)。

 1891明治24年、『女学雑誌』に「こわれ指輪」発表、好評を博す。
   「こわれ指輪」:女性の筆になる、はじめての離婚小説。
   11月、大井憲太郎の子・家邦を産み、兄の養子にする。福田英子はすでに大井の子を産んでおり、英子から激しく誹謗される。

 1892明治25年12月、東大農科大学助教授・*古在由直(こざいよしなお)と結婚。結婚後も記者として生野ふみ子名で随筆や実用記事を執筆。
   古在由直:1864元治1~1934昭和9年。明治大正期の農芸科学者。
   10月、『女学雑誌』に「一青年異様の述懐」を掲載。人格主義・精神主義の恋愛観に貫かれ、同時進行の二人の恋愛の内実をうかがわせる。
 1893明治26年9月、長男・由正生まれる。
 1894明治27年春、女学雑誌社を退社。以後、随時の寄稿者になる。

 1895明治28年3月、夫がヨーロッパに留学。
   京都に移って義母や子どもと暮らしつつ、清水紫琴名で随筆や小説を発表。生活は楽ではなかったようで、紫琴の原稿料が大いに役にたったもよう。以後、1900明治33年まで、「花園随筆」を『女学雑誌』『太陽』に連載。

 1897明治30年、「心の鬼」を『文芸俱楽部』、「二人娘」「誰が罪」を『世界之日本』に発表。
 1898明治31年、「したゆく水」を『文芸俱楽部』に発表。
 1899明治32年、「もつれ糸」を『万朝報』、「移民学園」を文芸俱楽部』に発表。
   「移民学園」は、被差別部落を扱った社会派小説で、島崎藤村『破戒』より7年早い。

 1900明治33年7月、夫が帰国、東京帝国大学農科大学教授となる。
 1901明治34年、34歳。次男・由重(昭和期の哲学者)生まれる。
   1月、『夏子の物思ひ』を最後に筆を絶ち、その後は4人の子をもうけ、家庭人として生きる。
  ―――「花園随筆」は幼児の教育につきてと割書、・・・・・思ふに随筆育児の経験など、家庭の人らしいものを書いた場合は、本名を出し、創作を発表するには新に紫琴女の名を用ひ・・・・・しかし文名自ら隠れなく・・・・・随筆に紫琴女と署名し、また古在紫琴女と明白に打つてでているものも・・・・・かうして女史は、或る時は小説を書き、或る時は育児や家庭内の雑感を書き・・・・・女史の執筆年代はいよいよ短いものとなります。
 尤も明治二十九年に惜しまれつつ短命でこの世を辞した若松賤子と樋口一葉の文筆生活も長くはなく、この両先輩に比すれば女史はまだしも長かつたことになるのでありますが、・・・・・文筆の生命を自らここで絶つてゐるといふところに、私どもの不審があり、大いに遺憾に感ずる・・・・(『明治期の三女性』)。

 1902明治35年、古在由直、足尾鉱毒調査委員として栃木・群馬に出張、精密な土壌分析を行い、被害農民の主張の正しさを立証した。
 1920大正9年、由直、東大総長となり1928昭和3年まで在籍。

 1933昭和8年7月31日、清水紫琴、死去。享年65。

  ―――君(由直)は其の夫人に先立たれた時、慟哭してその死を悼まれた。そして夫人の生前に於て今少しく親切にして置けばよかつた、何故もつと懇ろに遇しなかつたかと・・・・・由重(次男)「父の追憶」、母が弱かつたのでもなければ、父のみが勝手だったのでもなかつた。・・・・・私は元来なみなみならぬ愛情によつて結ばれたところの父母が根本において いかに親睦な間柄であつたかをよく知つている・・・・・・(『明治初期の三女性』)。

   参考:『明治初期の三女性:中島湘煙・若松賤子・清水紫琴』相馬黒光1940厚生閣 / 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『日本人名辞典』19934三省堂 /『妾(わらわ)の半生涯』福田英子2001岩波文庫 / 『現代日本文学事典』1965明治書院

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