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2023年8月26日 (土)

天童藩士の内職、将棋駒

 前に<2020.10.24 将棋知らずの将棋ばなし>を書いたが、駒にも興味をもった。
  ―――東村山郡天童町は古来、将棋駒の産地にして旧藩士の内職として多額の産出あり。殊に日露戦役後、行軍将棋の案出に伴ひ其の生産を増加しつヽあり・・・・・(『山形県産業要覧』1916山形県)。

     天童藩:出羽村山郡に置かれた藩。
     藩主・織田氏。 外様大名・2万石。
 1767明和4年、以後、織田信浮が出羽置賜郡高畠に封ぜられ、天童を領有。
 1830天保元年、信義のとき、居城を天童に移し天童藩政立。
 1868慶応4年/明治元年、戊辰戦争後、新政府は奥羽越列藩同盟に対し戦争責任を問い冊封や転封を行う。上山藩・天童藩など残されたが、廃藩置県により山形県となる。

     天童市
   山形県の中央に位置、市域の西部には平野部が開けているが、東部は奥羽山脈に含まれる山岳地帯。
 最上川は、市の南西部から市域に沿って北流し、中央部を倉津川、北部を乱川が西流して最上川に合流している。
 天童は、南北朝期、北畠天童丸の領地であったところからこの名が生まれ、天童氏の城下町として発展した古い町。
 県都山形市に隣接、市域を国道13号・奥羽本線が縦断して交通の便にも恵まれる。

   名所旧跡: 天童公園・天童温泉・建勲神社・天童市将棋資料館・愛宕神社・天童市美術館・願行寺・仏向寺・若松寺(じゃくしょうじ)・天童高原県立自然公園・原崎沼。

     天童市沿革
 1889明治22年4月1日、天童町・老野森(おいのもり)村・久野本(くのもと)村・北目村合併、町制施行。
 1954昭和29年10月1日、天童町・成生(なりう)村・蔵増(くらぞう)村・津山村・寺津村・山口村・田麦野(たむぎの)村合体、天童町となる。
 1958昭和33年10月1日、市政施行。
 1962昭和37年10月20日、豊栄(とよさか)村(昭和30年高擶村・干布村合併、昭和31年山寺村大字荒谷編入)を編入。

   さて、天童駒の普及について、藩士の吉田とする説・殿様とする説があるが、おそらく両々相まってだろう。少し長いが二書を参考、引用して紹介したい。

     『経済風土記 東北の巻』羽前三草の今昔
          東京日日新聞経済部1928-1930刀江書院

  ―――山国の景物はとりどり面白いものに将棋の駒に笹野彫(ささのぼり)がある。天童町の将棋の駒は天童駒といつて天下の将棋党にもぜひ紹介してをかねばならぬ。・・・・・天童駅から一年六十トンの駒が全国へ発送される。六十トンの内訳は将棋の駒六十五萬組(王将以下齣数二百六十万余個)軍人駒一千五百万個、町内では六十七軒の駒屋が朝から晩まで傭人を使つて駒けづりをやつている。
 この駒製造には立派な由緒がある。文政十二年(1829)織田信美(のぶよし)という殿様が、羽前高畑からこの天童へ転任・・・・・ 祖先に織田信長を持ちながら、北国のしかも二万石の小藩に追われて、家来を養へない。
・・・・・ 信長は将棋を好み、初代宗桂には碁の本因坊と同列、八十石の禄を与えた。家中将棋に凝るものも多かったらしい。・・・・・碁よりも民衆的で需要多しと着眼した信美の遺業は、今日全国の熊さん八さんにまで娯楽を提供してゐる。駒の年産五万二千円、安いおなぐさみ。
   引用文中、()内数字は筆者。『経済風土記』出版年1936-70=1866慶応2年。

   
     『郷土研究 第2輯』1936山形県女子師範学校

  ―――天童将棋駒は約70年前(1866慶応2年)にその製作をはじめた。当時、天童藩織田家の用人、吉田大八、藩政に参画して藩内の産業奨励に努力した。織田家は国替えによる出費はあり、家来多きに僅かに二万五千石の大名であり、ことに薄禄の足軽輩の生計は非常に困難であった。吉田はこの救済策として将棋駒製作に従事することを建言。
 かかる内職をすることは武士の面目を傷つけるとか、他の執政から反対が多くあったが、吉田は、将棋は戦争に象る遊戯であるから之を弄ぶことは悪しからず、米沢藩で鷹山が藩士に内職を勧めて好結果を得た・・・・・信長が「将棋は作戦の秘訣なり」として将士に奨励した事などを引用して説得、藩主の許可を得た。
 何故に吉田が将棋駒の製作に着目したか。当時、天童藩には将棋の使用法を知っている者はなかったが、吉田家には使用法が明和時代から伝わっていた
 山県大弐(江戸中期の尊王論者)が吉田玄蕃の家に出入りして軍学を講ずる際、余興的にこの技を玄蕃に授けた。また、米沢では藩士に内職を勧めていたが、その内職に将棋駒製作もあった。大八の母は米沢の人、大八は駒の製作について見聞する機会があった。
  ―――吉田は藩主の許可を得たので藩士野呂武太夫と謀り、下役の菅井太右エ門・丸山清兵衛二人を監督とし、駒の製作方法を知れる大岡次郎・河野道介を米沢から招聘して駒の製作及び使用法を藩士に教えさせ、ここに駒の製作がはじまったのである。
・・・・・ 廃藩置県あり、家禄を離れた士族の多くはその生計に困却したが足軽輩は内職の駒製作によって裕に生活することができた。
・・・・・ 天童将棋駒の製作は吉田に負うところ大なるを以て、製作業者は吉田の命日6月18日に組合総会を開き・・・・・感謝の意を表している。
従来、将棋駒の産地は名古屋・大阪・天童の三地であったが、名古屋は製作を止めた。
 現在(出版年の昭和11年?)天童産の将棋駒には天童駒・大阪駒の二種がある。
 この他に将棋駒類似のものとして行軍駒(軍人駒)、計数駒の二種がある。
 行軍駒は小児の遊戯用として作られたもので日露戦争頃から製作された。

  <原 料
  ―――普通に使用する材は朴、槇、黄楊などで、ほかに梅・槐・黒柿・石榴が少量、特殊な好みによってじゃ白檀・象牙などが用いられる。

 
   参考: 『日本史辞典』1981角川書店 / 『山形県の歴史』1998山川出版社 / 『山形県の歴史散歩』2011山川出版社 / 『郷土資料辞典6 山形県』1998人文社

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