« イタリアで活躍した明治の女流洋画家ラグーザお玉(清原たま) | トップページ | 天童藩士の内職、将棋駒 »

2023年8月19日 (土)

銅像の応召

 今も昔も野球少年が憧れる甲子園球場!
 猛暑にめげず高校球児が熱戦を繰り広げている。しかし大正時代、才能があっても無国籍のため出場できなかった少年がいた。
 ロシア革命の混乱を逃れて日本に辿りついたスタルヒンである。

  ―――<スタルヒン無念の球児 露から亡命の身「無国籍」に甲子園阻まれ>
 ロシアによるウクライナ侵攻が続く中、第105回全国高校野球選手権記念大会が行われている・・・・・(中略)・・・・・55年に通算300勝を達成して引退したが、引退試合もセレモニーも開かれなかった。・・・・・日本の球界でビクトル・スタルヒンの評価が定まったのは死後・・・・・旭川市の市営球場には82年に「スタルヒン球場」の愛称がつけられ、銅像が建つ。・・・・・(2023.8.14毎日新聞・夕刊)。

 さて、8月15日は終戦記念日、各地で戦没者慰霊行事が行われている。78年間、いろいろあっても平和に暮らしてきた。この先も続きますように。
 自分は戦中生まれだが、B29空襲の怖さは話に聞くばかり。でも、戦後の苦労は子どもながら分かる。たとえば、弟の小学校入学式。
 大正生まれの母に「あの着物を着ていくの?」すると「あれは皆のお腹の中」「えっ」。着物はお米や野菜に替わり、とっくに食べていた。
 朝ドラ<らんまん>に質屋が登場するたび、その話を思いだす。それにしても、苦労したろうに母はいつも明るかった。会いたいなあ。

 

     大熊氏広 & 銅像の話

  ―――明治時代に西洋から導入された導入された銅像という表現形式は、一人の人間の記念碑として作られ、公共の場所におかれ、新しい都市の景観の一部となる。・・・・・『特命全権大使米欧回覧実記』図版のうちには、広場の中心に立つ、または建物の前に置かれた銅像や記念碑を描いたものが少なくない・・・・・ 日本の近代について語るとき、どうしてもぬぐい去れない重苦しい影というべきものと直面せねばならない。日本がたどる軍国主義への道のことである。・・・・・ 「銅像」をテーマの一つとして選んだとき、それが権力の側の要請と密接な関わりを持っている・・・・・(『近代日本最初の彫刻家』1994吉川弘文館)

 1893明治26年、日本で初めての本格的な西洋式の銅像「大村益次郎像」が靖国神社に建立される。作者は大熊氏広。
   大熊作品:三条実美像・大久保利通像・福沢諭吉像・岩崎弥之助像・北里柴三郎など。
 1894明治27年、日清戦争。

   1897明治30年、上野公園に高村光雲作、西郷隆盛像
 1899明治32年、浅草公園・瓜生岩子像(大熊氏広)、日本での女性の銅像の始め
 1903明治36年、港区有栖川宮公園・有栖川宮熾仁親王像(大熊氏広)。
 1905明治38年、日露戦争。

 1910明治43年、上野動物園門前・小松宮彰仁親王像(大熊氏広)。
   東京国立博物館表慶館車寄・左右ライオン像(大熊氏広):皇太子(のち大正天皇)ご成婚奉祝記念、東京市民有志によって献上。今も来館者を迎えている。

 1914大正3年、ドイツに戦線布告、第一次世界大戦に参加。
 1919大正8年、伊能忠敬像(大熊氏広)。
 1923大正12年9月1日、関東大震災。

     銅像の応召
 
 1927昭和2年、第一次山東出兵。
 1937昭和12年7月7日、盧溝橋事件で日中戦争おこる。

 1941昭和16年8月、金属回収令
   国家総動員法に基づいて軍需生産の原料として金属類の国家への供出を定めた。
   スタルヒンの銅像は戦後なので無事だったが、太平洋戦争末期にはマンホールから鍋釜、銅像も回収された。
   12月8日、日本軍、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃、対米英戦線布告。
 1942昭和17年2月、シンガポール占領。6月、ミッドウェー海戦敗北。

 1943昭和18年4月8日、連合艦隊司令長官・山本五十六ソロモン上空で戦死。
   12月、第一回学徒兵入営、出陣。

  ―――昭和十八年三月十五日の新聞は、「いざ弾丸に軍艦に、銅像大挙して応召」という見出しで、日本各地の銅像供出の模様を報じている。その時の調査では銅像は全国で九百四十四基あった。「特に国民崇敬の中心」という理由で残されたものは一割に満たない六十一基だと記録されている・・・・・ たとえ軍人の銅像であっても、作品によっては、供出は免れなかった。(中村伝三郎『明治の彫塑』文彩社)・・・・・ たとえば昭和十八年三月八日の『毎日新聞』(朝刊)には「わしも征くぞ・川村大将の銅像応召」の見出しで、軍人の銅像供出の記事が載っている。・・・・・(『近代日本最初の彫刻家』)。

  ――― *横川省三銅像は戦時中に供出されて現在は台座しか残っていないが、その原型は同市須賀川町の報恩寺に保存されている。・・・・・(けやきのブログⅡ<219.11.16 昭和戦前期を代表する彫刻家、堀江尚志(岩手県)

  ――― 芸能界各方面の銅像応召に負けじと、浪曲界でも品川妙国寺境内の桃中軒雲右衛門の銅像が、進んで献納することヽなつた。・・・・・(『雲右衛門以後』正岡容1944文林堂)。

  ―――明治期、陸軍省・参謀本部があった三宅坂に寺内正毅の騎馬像があった。しかし平成の今、乙女らが楽しげに語り合う「平和の群像」に様変わりしている。台座は昔のまま立派でいかめしく、乙女の像とはそぐわない。銅像のすげ替えは時代を写す鏡か・・・・・<けやきのブログⅡ2013.1.19西郷隆盛銅像の台座を作った建築家・塚本靖>

   各市町村で「二宮金次郎銅像応召告別式」「二宮金次郎銅像応招会」など行われた。
  ―――二宮翁銅像応招のため、福岡まで児童が運搬し、金属回収・・・・・(『河内村史』1981河内村)。

 1944昭和19年1月、仙台市の伊達政宗騎馬像供出
   市観光協会1964昭和39年、伊達政宗騎馬像を再建。10月、東京オリンピック開会式前日、復元除幕式・・・・・(けやきのブログⅡ<2017.7.1伊達政宗騎馬像、彫刻家・小室 達(宮城県)>

 1945昭和20年8月14日、ポツダム宣言受諾回答。9月2日、降伏文書調印。

  ※ けやきのブログⅡ過去記事 右列バックナンバーよりお願いします。

|

« イタリアで活躍した明治の女流洋画家ラグーザお玉(清原たま) | トップページ | 天童藩士の内職、将棋駒 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« イタリアで活躍した明治の女流洋画家ラグーザお玉(清原たま) | トップページ | 天童藩士の内職、将棋駒 »