イタリアで活躍した明治の女流洋画家ラグーザお玉(清原たま)
1935昭和10年、
―――五十三年を地中海の孤島シシリー島のパレルモに暮らして来たラグーザお玉さんこと清原玉女が、非常時の意気に燃える昭和八年十月二十二日故国日本へ帰つて来た、七十歳でも腰さへ曲らぬ健康さで・・・・・明治十五年、当時日本にゐたヴィンツエンツオ・ラグーザ氏と結んだ国際愛の大先輩、夫君に伴はれて伊太利に渡つて後、夫は逝き子供もなかつた、たヾ一人異国での淋しい孤独の春秋を送り・・・・・皺の深い両手をあげて「おおニツポン」と呼びかけた・・・・・(『毎日年鑑』)。
幕末の江戸に生まれた少女・清原たま。イタリア・シシリー島出身の彫刻家ラグーザと結婚、かの地で暮らし自らも画業で名をなした。今、外国人と結婚、外国暮らしは珍しくないが、明治の世は少ない。国際結婚の走りとも言える清原玉女の生涯をみてみた。
ラグーザお玉 / 清原たま
1861文久元年6月10日、江戸芝新堀(地下鉄芝公園駅付近)、清原定吉と兼の二女に生まれる。家は江戸時代、芝増上寺境内の差配(管理人)をしていた。
1867慶応3年12月25日、幕府側諸藩兵が薩摩藩邸を焼き討ち。
鳥羽・伏見の導火線となったこの事件をお玉は目の当たりにした。
1872明治5年、龍和学校(小学校)で読書と算盤を習う。
栄洲という絵師について日本画を学び、進境著しく永寿と号す。
1874明治7年、父の定吉は芝山内に大弓店、茶店、花舗など植木園を開く。服部誠一『東京繁盛記』に載るという。
―――定吉は、増上寺の南に位置する筑後久留米藩有馬中務大輔(なかつかさたゆう)の預かり地を貸し下げてもらい、これに手を入れて花園にし・・・・・(『明治大正を生きた女101人』)。
1876明治9年11月、イタリア人彫刻家ラグーザ来日。
*工部美術学校彫刻科の教師として招かれる。
工部美術学校:明治政府は,欧州の塑造といった本格的な洋風彫刻の技術を日本に移入するため、画学科(イタリア・フォンタネージ)と彫刻学科を設置。
ヴィンチェツオ・ラグーザVincenzo Ragusa(1841-1928):イタリア・シシリー島パレルモ郊外の生まれ。 1860年(万延元年)、20歳のとき、イタリア統一を目差すガリバルディの愛国義勇軍に身を投じ、イタリア各地を転戦。兵役を終え、塑像学校に入学、古典彫刻の素描も学んだ。全イタリア美術展覧会で石膏製「装飾暖炉」で最高賞を得る。
1877明治10年、ラグーザ、清原家の植木園を訪問するようになる。
1878明治11年、ラグーザは玉の画才を愛し、洋画の技術を指導。
玉もラグーザの三田小山町の官舎を訪ね、洋画と共にイタリア語も勉強する。
「清原玉女胸像」ラグーザ制作(東京藝術大学美術館蔵)。
―――明治14年3月第二回内国勧業博覧会に出品・・・・・当時は開国貿易を背景とした工芸的な象牙彫刻が全盛の頃で・・・・・職人技術の鏤刻の表現で埋まった。そのなかで、まるで違った自然の姿の像が出品されたことは、異彩を放ったに違いない。アカデミックな正確な肉づけは、波うつ頭髪や着物のひだ、顔の個性的な特色などをリアルにあらわしている。・・・・・(『近代の建築・彫刻・工芸』)。
1880明治13年、玉はラグーザに伴われ、京阪地に古美術研究行脚をする。
1882明治15年6月、工部美術学校の彫刻科は廃止となり、ラグーザは解任。西南戦争後の財政難もあるらしい。
―――ラグーザの蒔いた種が芽を出し始めるにはそれから二、三十年・・・・・薫陶を得た*大熊氏広や藤田文蔵といった弟子たちのその後の活躍により、日本への洋風彫刻の移入はその成果を着実になしていった・・・・・(『近代日本美術家列伝』)
けやきのブログⅡ<2009.12.4大村益次郎像制作者・大熊氏広略伝>
ラグーザはかねて郷里パレルモに工芸美術学校を創立し、日本の伝統芸術をヨーロッパに移植する計画があった。そのため帰国にさいし、玉と姉・刺繍家の清原千代、その夫で漆工家・清原英之助を同伴し、8月、イタリア・シシリーに渡る。
1884明治17年、ラグーザはパレルモに工芸美術学校を開設し校長となる。
英之助は漆工、千代は刺繍、玉は水彩画と蒔絵の教師となって、日本の伝統芸術とその製作方法をヨーロッパに紹介する。
その工芸美術学校は認められ市立、ついで官立の高等工芸美術学校となる。
玉はイタリア政府から教授に任命され、副校長となる。
1889明治22年、高等工芸美術学校の漆工科が廃止、英之助・千代夫妻は帰国する。玉は一人イタリアに残る。
?年、 パレルモで大博覧会開催。玉はイタリア皇帝の母マルグリータ皇太后と出会う。
パレルモ開催、第一回美術教育家競技会に刺繍と絵画を出品,両方とも一等金杯を受賞。
カトリック寺院でラグーザと結婚式、以来、エレオノーラ・ラグーザと名乗る。
1890明治23年、モンレアレ美術展覧会で銀盃受賞。
1892明治25年、イタリア全国大博覧会で玉の「小鳥」一等金牌になり名を高める。
1893明治26年、シカゴ万国博覧会でも一等金牌受賞。
1894明治27年8月、日清戦争。
1894明治27~28年頃より、イタリア画壇に喧伝される。
ニューヨークとベネチアで開催の万国美術展覧会にはいずれも婦人部の最高賞金牌を得る。
1901明治34~1902明治35年、カルーソー家の大サロンの天上壁画「楽園の曙」は生涯最大の作品である。今残る「天国礼賛」はその一部。
1904明治37年2月、日露戦争。
父の怒りとけて日本より戸籍届き、晴れて盛大な結婚式を挙げる。
1906明治39年、画の注文が多く多忙な日々をおくる。
1910明治43年、ニューヨーク国際美術展覧会にイタリアの女流画家として出品を命ぜられ、天井壁画「楽園の曙」が婦人部の最高賞牌を受ける。
1914大正3年8月、ドイツに宣戦布告、第一次世界大戦に参戦。
1921大正11年、母と姉の死が生家より報告される。
1928昭和3年、ラグーザ死去。
玉はイタリアから、ラグーザの遺作多数を東京美術学校(東京藝術大学)に寄贈。
1930昭和5年春、*木村毅イタリアに旅行中に玉の存在を知る。
―――9月、小野七郎さん(東京日日通信員)が尋ねて来て下さいました。パレルモの私の家の扉を叩かれた五人目の日本人です。・・・・・翌六年、思いがけなく日本から一包みの新聞と手紙が参りました。・・・・・手紙は英文で書いてありましたので・・・・・パレルモ大学で英文学を専攻しているのがありましたから読んでもらって・・・・・「ラグーザお玉」と題して、私のビオグラフィ・ロマンセエ(事実小説)・・・・・荘八さんの挿画は、たいてい、私に思い当たるものばかりです。・・・・・一旦、絶たれてしまっていた祖国との絆が、新聞によってまた回復しました。・・・・・(『ラグーザお玉自叙伝』)。
木村毅:明治文化研究・大正昭和期の評論・早稲田大学百年史編集員ほか。
1931昭和6年、11月から『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』両夕刊に、木村毅「ラグーザお玉」連載、世に広まる。
2月、東京・松屋、大阪・白木屋にて「ラグーザお玉展覧会」催される。
6月、木村毅、伝記小説『ラグーザお玉』単行本として発売。
1933昭和8年9月18日、72歳。ナポリ発の諏訪丸に乗船して帰国の途につく。
10月22日神戸着、26日横浜着。生家の近くに画室を構え制作に耽る。
11月13日、銀座の伊東屋で展覧会開催。
11月17日、*長谷川時雨の主唱で「輝く会」から招待。
12月11日、明治文化研究会同人の歓迎会が催される。
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1939昭和14年4月6日、生家で死去。享年78。
―――(ラグーザお玉夫人の展覧会を見る人に)お玉さんは熟覧した文化をもつ生粋の江戸の娘として生まれ、かつ育った。そしてその生涯は、伝統の最も正しく古い、イタリヤの芸術に委ねたのである。お玉さんの画に対すると、若くふくよかな皮膚にクリームが溶けこんで行くように、匂やかな南欧芸術が、その若い魂にしみ渡って行った過程が、目のあたりに見えるような気がしてならない。・・・・・(『ラグーザお玉自叙伝』)。
参考: 『毎日年鑑 昭和10年』1934大阪毎日新聞社 / 『ラグーザお玉自叙伝』木村毅編1980恒文社 / 『新訂増補 海を越えた日本人名辞典』2005日外アソシエート / 『近代日本美術家列伝』1999美術出版社 / 『原色日本の美術28巻 近代の建築・彫刻・工芸』1972小学館 / 『明治大正の美術』匠秀夫ほか1981有斐閣 / 『明治・大正を生きた女101人』「歴史読本」編集部2014 /『日本人名辞典』1993三省堂
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