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2023年8月 5日 (土)

埼玉県熊谷市、幕末~最後の空襲までの100年間

 2323令和5年8月、コロナ禍そして酷暑まっ盛り。
 皆そうだから文句の持って行き場がない。それでも終戦から70年あまり平穏に暮らしてきた私たちはまだいい。これから70年後、どうなっているだろう。
 2023令和5年7月24日、熊谷出身の作家・森村誠一さんが90歳で亡くなられた。旧日本軍の細菌部隊について書いて社会に衝撃を与えた作家である。
  ―――「悪魔の飽食」で戦争犯罪を告発。「日本国憲法の証明」(1984年)で護憲と非核を訴え、・・・・・自身の戦争体験に裏打ちされた反戦を訴え続けた気骨のある人だった。
  ―――大学進学を機に熊谷を離れても故郷を愛し続けた。・・・・・森村さんは熊谷の中心部、星川の近くで生まれた。ポツダム宣言受諾を決めた跡の熊谷空襲で自宅は全焼。・・・・・「無意味で不条理なスケープゴートであり、そこに熊谷空襲の悲劇があります」 空襲体験が作家としての原点だと明かした。・・・・・(2023.7.25毎日新聞)。

  ―――昭和二十(1945)八月十四日の夜、私はいつものように身の回りに品を詰めたリュックサックを枕元に置いて寝ていた。   突然、父親に枕を蹴飛ばされて起き上がると、周辺が真昼のように明るくなっていた。 一家五人、かたまって地悪の星川という小川に避難した。   いったん川に逃れた父親は、ここを危険と察して、すぐに猛火に包まれている通りの真ん中を、モーゼの十戒のように、水ならぬ火の壁の谷間を伝うようにして、市外へ逃げた。すでに聞き及んでいた広島、長崎の、新型爆弾による壊滅を、父親は連想したらしい。・・・・・ ようやく安全圏に達した家族を抱えて、ほっとしたらしい父親は、私に、「誠一、よく見ておけ。お前の町がもえている」・・・・・(後略)・・・・・(『最後の空襲 熊谷』)。

     熊谷100年(弘化~昭和20年)

 1845弘化2年、利根川・荒川満水となり、数カ所で堤防が決壊し大洪水となる。
 1846弘化3年、荒川大洪水。
 1856安政3年、中村定右衞門、新堀に馬庭年流道場「調兵館」を開く(明治24年まで)。
 1861文久元年、皇女和宮降嫁のため中山道を下る。
   和宮降嫁にともない、関東取締出役より治安取締りを触れる。和宮、中山道下向の際、籠原の茶店「志がらき」にて小休止。本陣竹井邸に宿泊。
 1866慶応2年、武州世直し一揆おこる。甲山村根岸家が打ち毀し対象になる。
 1868慶応4年、岩倉具定の官軍、竹井本陣に入る。

 1869明治2年、版籍奉還。熊谷宿は忍藩知事・松平忠敬の管轄となる。
 1871明治4年、廃藩置県。熊谷は忍県に編入。忍県廃止で入間県に編入される。
 1873明治6年、徴兵令公布。熊谷県の誕生。
 1875明治8年、埼玉県内初の民権結社「七名社」発足。
   鯨井治助、乳牛を輸入し牛乳業を始める。
  ―――産卵紙の輸出で横浜と関係をもっていた治助は、横浜で外国人が牛乳を飲むのを見て、横浜で牛一頭を購入・・・・・明治20年、荒川堤外(宮前町)に牧場を開くまでに・・・・・(『通史でたどる熊谷の歴史』)。

 1876明治9年、熊谷県を廃し、埼玉県の管轄となる。
 1877明治10年、巡査屯所を熊谷警察署と改称。
 1879明治12年8月、アメリカ人動物学者*エドワード・モース、石上寺でダーウィンの進化論講演。
    エドワード・モース:大森貝塚を発見して発掘。日本考古学研究の端緒を開いた。
 1882明治15年、荒川に架橋。村岡の渡しに初めて木橋を架ける。
 1883明治16年、熊谷堤に桜を植樹。吉野桜・彼岸桜・名物桜計450本。
   日本鉄道会社、上野-熊谷間の営業開始、熊谷駅開設。
 1885明治18年5月、秩父事件の田代栄助ら4名、熊谷監獄で死刑執行される。
   荻野吟子、公許女医第一号となり東京本郷に医院開業。
    荻野吟子:1851嘉永4~1913大正2。東京女子師範学校をへて、私立医学校好寿院入学。キリスト教婦人矯風会に加わる。北海道に赴き開業、のち東京に帰り開業。

 1888明治21年、熊谷駅熊谷寺で埼玉県人懇親会が開かれ*後藤象二郎来る。
    後藤象二郎:土佐藩出身。大政奉還に貢献。大同団結運動を提唱。民権派の盟主と仰がれるが、のち政府と妥協。
 1889明治22年、町村制施行。石原村と熊谷宿が合併、熊谷町が誕生。
 1894明治27年、日清戦争おこる。
      市域では戦死者・7名。なお、西南戦争では傷病死者を含め19名。
 1896明治29年、県立熊谷中学校(熊谷高等学校)開校。熊谷測候所開設。
   12月、熊谷測候所開設。『気象月報』創刊。

 1898明治31年、*正岡子規、熊谷を訪れ『寒山落木』に俳句と共に記す。
    正岡子規:俳人・歌人。日清戦争に記者として従軍。『ホトトギス』創刊。
 1900明治33年、県立農事試験場、玉井に開設。
 1901明治34年、熊谷-寄居間に上武鉄道が開通。
 1904明治37年、日露戦争おこる。
    市域の戦死者75名。
 1906明治39年、高崎水力電気熊谷出張所、開業。熊谷町点灯する。

 1907明治40年、熊谷連隊区が新設され徴兵事務を行う。入間・比企・秩父・児玉・大里の5郡この所管となる。
   連隊:歩兵の場合3個大隊。騎兵は3~5中隊からなる戦闘単位。連隊長は大佐。
 1908明治41年、熊谷郵便局に特設電話開設。加入者71名。
 1909明治42年、荒川大橋開通。鉄製橋桁、手すり付木橋で全長509m。
 1910明治43年、2個の台風と低気圧停滞による大雨で荒川・利根川大洪水。
   熊谷の流出家屋298、死者55人。
 1911明治44年、県立熊谷高等女学校開設(県立熊谷女子高等学校)。
 1912明治45年、私立熊谷図書館を町に移管。

 1912大正元年、牛島半輔、地方新聞第一号『熊谷時報』創刊。
 1913大正2年、原蚕種製造所、開設。
 1914大正3年、第一次世界大戦おこる。
 1915大正4年、*奥原晴湖の碑、竜渕寺境内に立つ。
    奥原晴湖(節子):1837天保4年~1913大正2年。近代日本の代表的な文人画家。熊谷に隠棲し、「水墨山水図」「月ヶ瀬梅渓図」など佳作をのこした。

 1920大正9年、第一回国勢調査実施。世帯数4190、人口2万2282人。
   熊谷商業学校開校(県立熊谷商業高等学校)。
 1922大正11年、秩父鉄道が北武鉄道を合併、熊谷-羽生間全線開通
 1923大正12年9月1日、関東大震災
   熊谷震度6。負傷者5人、全半壊・破損家屋459戸。
   9月4日、震災後、流言飛語のため朝鮮人が多数殺害される。15日、朝鮮人虐殺容疑者の一斉検挙が始まる。
 1925大正14年、熊谷町大火。墨江町から出火、全焼641戸、半焼17戸。

 1927昭和2年、小林友雄『*蓮生房直実』を刊行。
    蓮生房直実:熊谷直実。熊谷郷出身の武将。保元・平治の乱、一ノ谷の合戦で活躍。のち、出家し法然の門に入り、法名を蓮生と称した。

 1929昭和4年、昭和恐慌。世界恐慌を受け深刻な恐慌となり、農村大打撃。
 1933昭和8年4月、市制施行。川越市に次いで県下二番目の市となる。
   1月2日、作家・森村誠一、熊谷町に生まれる。
 1935昭和10年12月、熊谷陸軍飛行学校開校。
 1937昭和12年、日中戦争はじまる。
 1941昭和16年、太平洋戦争はじまる。
   佐谷田村・玉井村・大麻生村・久下村が熊谷市と合併。
 1943昭和18年、東武鉄道熊谷線(妻沼線)、熊谷-妻沼間開通
 1944昭和19年、小原陸軍飛行学校建設始まる。
   熊谷市、疎開事務所設置。学童集団疎開、受入始まる。
 1945昭和20年、終戦前夜の8月14日夜、グアム島から飛来したB29爆撃機約80機が熊谷に約8000発を投下。熊谷は日本最後の空襲被災地になった
   第二次世界大戦終戦・連合国軍の進駐・熊谷飛行場にアメリカ軍進駐開始。
  ―――森村さんが元気が良かったころは、熊谷に足を運び、熊谷空襲の実相を講演などで語っていた。15年発足の市民団体「熊谷空襲を忘れない市民の会」の賛同人に、俳人の金子兜太(故人)とともに名を連ねた。・・・・・(2023.7.25毎日新聞)。

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  2023.8.2 毎日新聞
  <「熊谷の植物文化史」講演>
  ―――埼玉銀行(現埼玉りそな銀行)の頭取などを歴任した長島恭助(1901~92年)の生家で熊谷市名勝の「長島記念館・邸宅」で、同市立江南文化センターの山下佑樹学芸員が「熊谷の植物文化史と牧野富太郎」をテーマに講演した。
 ラン科の多年草で絶滅危惧種のクマガイ草(熊谷草)は、花の形が・・・・・熊谷直実が矢から身を守るために背負った母衣(ほろ)に似ていることから名付けられた・・・・・(後略)。
 

   参考:『最後の空襲・熊谷』2020社会評論社 / 『通史でたどる 熊谷の歴史』2022熊谷市立図書館 / 『熊谷ゆかりの女性先覚者たち』2000熊谷市立図書館 / 『熊谷歴史年表』2003熊谷市立図書館 / 『近現代史用語事典』安岡昭男編1992新人物往来社 / 『日本人名事典』1993三省堂

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 「熊谷空襲 継承活動、第3世代に」(2023.10.9毎日新聞)
  ―――米軍機よる「最後の無差別攻撃」で焼き払われた熊谷市。・・・・・体験者が減り継承活動の担い手は第3世代に移ろうとしている中、(2015発足の市民団体「熊谷空襲を忘れない市民の会」)参加者は「見て・感じて・伝える」意義をかみしめていた。・・・・・(2023.10.9毎日新聞)。
            

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