『エコロジーの先駆者・南方熊楠』 武内善信
神宮外苑再開発「中止を」・・・・・イコモス(国際記念物遺跡会議)は再開発で文化的資産が危機に直面しているとして・・・・・事業者に計画の撤回を、都には環境影響評価(アセスメント)の再審議を求めた。・・・・・伐採対象ではないイチョウ並木も「スポーツ施設の建設で日射が減るなどのストレスがかかる」・・・・・(2023.9.16毎日新聞)。
神宮球場のナイター、東京ドームもいいけど夜風に吹かれて見る試合もいい。
ヤクルトファンならずとも球場全体そして夜空もいい感じ、勝敗をこえて愉しい。周囲の緑や空間がいい雰囲気をかもしだしていそう。
ところが今、外苑再開発による影響が心配され、再開発に反対の声が多い。しかし、ハラハラ見守るだけだ。叶わぬ願いを言えば、明治のエコロジー先駆者・南方熊楠によみがえって欲しい。
まずは、明治生まれの新聞記者で評論家、鵜崎鷺城の熊楠評。
―――南方熊楠といへば一部の読書人の間にしらるヽのみで・・・・・日本の学界は全然彼を閑却して居るが、博物学者としては居然として一家を成し、特に植物学に至つては今日我邦の学者中、彼と蘊蓄を争ひ得る者は殆ど一人もない・・・・・ 彼は日本に知られずして却て英米に多く知られ、学説としいへば学者間に重きを為し・・・・・無味乾燥なる植物学上の話も、一たび彼の口と筆を以てすれば忽ち趣味津々たるものとなる・・・・・(『奇物凡物』)。
『エコロジーの先駆者・南方熊楠』 武内善信著
Ⅰ 「明治」という時代とともに
城下町和歌山と熊野 / 「南方」という家、「熊野」という名前 / 城下町和歌山の学問・文化・教育と南方熊楠
Ⅱ 在米民権運動とアメリカ時代の意味
熊楠の渡米と自由民権/ 在米民権新聞『新日本』からの手紙/ 南方熊楠所持の*条約改正反対意見秘密出版書/ アナーバーの回覧新聞『大日本』の再検討/ 補論 南方熊楠対長坂邦輔――『珍事評論』の背景
Ⅲ ロンドンから熊野の森へ
孫文と南方熊楠
南方熊楠における珍種の発見と夢の予告/ 「那智隠棲期」の検討
Ⅳ 神社合祀反対運動と「エコロジー」
―――第一に、熊楠は地域における本来の自然植生を全体的に保護しなければならないと主張・・・・・ 第二に、「千百年来斧斤を入れざりし神林は、諸草木相互の関係はなはだ密接錯雑致し・・・・・ 種が豊富である事が鎮守の森の特徴としてとらえ、生物の多様性の価値を熊楠は本来的に理解していた・・・・・ 第三に、森林を伐採すると「鳥獣族滅のため害虫の繁殖非常」になる道理を説いている・・・・・ 第四に、単木保存を批判して、地球規模の生態系で重要な・・・・・ 菌根共生について、熊楠が指摘・・・・・(p325~326)。
南方熊楠と神社合祀反対運動
神社合祀反対運動の始動と展開
南方熊楠と世界の環境保護運動 ―― 坪井正五郎・大野雲外苑「神社合祀反対意見」を中心に
日露戦後の自然保護運動と「エコロジー」 ―― 南方熊楠の神社合祀反対運動と三好学の天然記念物保護活動
神社合祀反対運動における神社林と入会林
―――牧野富太郎宛書簡で、熊楠は「田辺の神島・・・・・も神社を移しおはり(蛇の霊といふ)、もはや畏るる処なしとて、タブの木及びモチノキに密林を入札し、三四日後に伐り悉すといふ」・・・・・(p347)。
「大逆事件」と運動の終局
あとがき/南方熊楠の神社合祀反対運動関係年表
南方 熊楠
1867慶応3年、和歌山の金物商、南方弥兵衛の次男に生まれる。
1874明治7年、小学校入学。この頃から生涯にわたる諸書の筆者を始める。
1877明治10年、10歳。『和漢三才図会』(一種の百科全書)105巻を数年かかって筆写する。
1879明治12年、和歌山中学入学。卒業後、大学予備門に入学するも落第し帰郷。
1886明治19年、渡米。ランシング農科大学に入学するも退学。
以来、動植物の観察採集、図書館で勉強、フロリダ州からキューバに渡り独立戦争を目撃、曲馬団に交じり西インド諸島を巡る経験もして6年間アメリカ大陸を放浪。
1892明治25年、26歳。ロンドンに赴く。天文学懸賞論文「東洋の星座」が当選。
学界に認められ大英博物館東洋調査部に入り「日本書籍目録」の編集に尽力。
馬小屋の2階に起居し、勉学に励む。かたわら、天才的な語学力(19ヵ国語とも)を駆使、同館所蔵の宗教学・考古学・人類学関係文献を思うさま読破し筆写する。このころ、孫文と出会い交際。
1900明治33年、おびただしい標本・書籍・抜書帳のほか何も持たず、みすぼらしい姿で帰国。
帰国後は、熊野那智村付近を放浪して隠花植物、とくに粘菌(変形菌)の調査・採集の日々を送る。和歌山県下の植物採集につとめ、70種の新菌種を発見。
1906明治39年、40歳で結婚。妻は田辺の闘鶏神社の宮司の娘・田村松江28歳。翌年、長男・熊弥が生まれる。
1911明治44年、「南方二書」出版。
神社合祀・社林伐採によって動植物学の貴重な資料がそこなわれることの非を論じて「南方二書」を自費出版、このことから、熊楠を「日本人の可能性の極限」とまで讃歎する柳田国男との協力研究がはじまる。
―――幸田露伴に「紀州に過ぎたるもの、なわまきずしと南方熊楠」といわしめた人物の生涯と学問の全体像をとらえることは容易ではない・・・・・(谷川謙一『民間学事典』)。
武内善信はそれに取り組み、『エコロジーの先駆者・南方熊楠』を著した。
1929昭和4年、昭和天皇の南紀行幸に際し、田辺湾内の神島で天皇をむかえ、お召艦の長門艦上で進講。このとき、熊楠はキャラメルのボール箱に、動植物の標本を献上したという話が残っている。
1941昭和16年、死去。享年74。
―――熊楠は仏教にも造形がふかく、粘菌のような原始生物から宇宙の深遠な哲理までを抱え込んで、その壮大な熊楠の世界を「南方、まんだら」とよぶ人もいる。・・・・・科学者でありながら、純血無垢の生涯をつらぬいた。・・・・・(谷川健一)。
主著、『南方閑話』『南方随筆』など国会図書館デジタルコレクションで読める。
参考:『闘う南方熊楠 エコロジーの先駆者』武内善信2012勉誠出版 / 『民間学事典』1997三省堂 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 国会図書館デジタルコレクション
| 固定リンク
コメント