彼誰時(かはたれとき) 誰彼時(たそがれどき) あれは誰時
子どもの頃、母に仲良しの話をすると、「目の寄る所は玉」と言われ、「何それ?」と思ったが意味を聞きそびれた。
それからウン十年、意味がわかった。
「目の寄る所へは玉も寄る」: 目が動くにつれて瞳もうごく。同類が集まるの意。
母は大正生まれ。関東大震災を経験、太平洋戦争中は田舎がなく都内を逃げまわったそう。
父と「あの家はどう、この家はこうだった」と話すのを聞いて、「よく家があったね」といったら、空き家がけっこうあったという。みんな疎開していたのかな。
戦後も苦労だったと思うが、母はいつも明るかった。そして、よく諺を口にしていた。
今思うと、辛い時や悲しい時も前向きな諺を口に出して、自分を励ましていたのかもしれない。しかしその一方、面白いことも言った。
例えば、
<世の中は寝るより楽はなかりけり 浮き世の馬鹿は起きて働く>
時々、そう言いながら寝についていた。私もこれ唱えると眠くなるような。試してみます?
さて、今日は2023令和5年9月29日曇り。今夜は十五夜、晴れるといいな。
けやきのブログⅡ<2013.9.14十五夜それとも十三夜>
名月に逢えなかったら、趣のある詞句を詠むといいけど能がない。そこで、時や歳月に関する詞句などを並べてみた。
「オヤ」 「そうなんだ」というのがあったらいいです。
「送る月日に関守なし」
月日には、その運行を止める関所番はいない。光陰矢の如し。今日でいえば停車駅のない急行というところ。
「月日変われば気も変わる」
時が経つと、人の気持ちや考え方も変わるものである。
「日月に私照なし」
恩恵をほどこすのに、偏私のないことをいう。
<○○どき>
「時正の日」(彼岸の中日)
けふ出る春の半の朝日こそ まさしく西の方はさすらめ
彼岸の中日には、太陽は真東より出て真西に入るので、西方浄土の真の方角は、この日でなければ知る事ができない。
「彼誰時」(かはたれとき)
時鳥ねざめに匂ふたちばなの かは誰時に名のりすらしも
暁のほのぐらくして未だ誰とも明瞭に弁別し得ざる時。
「誰彼時」 (たそがれどき)
よりてこそそれかとも見めたそがれに ほのぼの見ゆる花の夕顔(源氏物語)
「あれは誰時」
黄昏時を時をあらわしている。
「王莽時」(おうもうどき・おもうどき・おもとき等と呼ばれる)
黄昏時の事。
前漢の王莽は帝を殺して位を奪い自ら帝と称し、在位15年で後漢の光武帝に滅ぼされた人物。前漢・後漢の間に僅かの年月存在していたのを、昼夜の境になぞらえて、このようにいった。
「いりあい」
漢字としては日没、晩鐘、入逢、入相など。
日没時すなわち酉時(午後6時ころ)からその後暫くの間を指す。
山ざとの春の夕暮きてみれば いりあひのかねに花ぞ散りける(能因法師)
「丑三つ時」(うしみつ時)
日本独特の、一日四十八刻による時法で、丑の三刻、午前2時に相当している。
「丑満と時」と書くのは間違い。
「秋の日は釣瓶(つるべ)落とし」
秋の入り日は、釣瓶を井戸の中に落とすように速く沈む。月日がたつのも速いが、日暮れも速い。
二六時中
朝の六つと夜の六つを合わせた時間、十二とき、一昼夜。四六時中。
<時の太鼓 時の鐘>
江戸時代の時報は、江戸城内のものと、市中のそれと二種類あった。城内ではそれぞれ時計の掛りや太鼓の掛りの者がいて、時報を司っていた。城中の諸行事や、城門開閉もすべてこの太鼓によって行われていた(『日本の時刻制度』)。
どんどんで女の駆る一つ橋
江戸城内の男子は夜九ツ時まで外出を許されていたが、女子は夜六ツ時という規定があり、六ッ時の太鼓がなり始めると門限に遅れないように一ツ橋のあたりを大急ぎで走っている情景。
石町は江戸を寝せたり起こしたり
江戸市中では、本石町三丁目に最初の時の太鼓が作られ、のちに鐘と取り替えられた。
石町で出しても同じ鐘の割
本石町の鐘は、江戸初期には唯一の鐘で有名だったらしい。
「時の鐘」がはっきり聞こえる石町でも、遠い所でかすかに聞こえる所でも、同じ額の鐘役銭で不公平の意。
その後、江戸が繁栄し八ヶ所(浅草寺・本所横川町・上野・芝切通・市谷八幡・目白不動・赤阪田町成満寺・四谷天竜寺)につくられた。
<明治の改正>
外国人との交渉が頻繁になり、西洋機械時計が普及するにつれ、遂にそれまでの不定時法を廃止、定時法を採用せざるを得なくなり、1873明治6年1月1日、太陰暦を廃止して太陽暦に改正。
不定時:各地の日出・日没を基準の時刻として、昼間と夜間を別個に等分する時法。
<「とけい」の呼び方>
トキノキザミ
「日本書紀」御進講のときに使われたもので、最も古い。
ロコク・ルコク
いろは順に排列された最古の国語辞典「伊呂波字類抄」にある。
ロウコク
建仁寺の僧によって編まれたと推察される「天正版節用集」にみえている。
とけい
江戸時代に入って西洋機械時計が舶来されるようになり、新しい時刻測定器を「とけい」と名付け、時計の字をあてはめた。徳川家康の在世中、1600年代初めにはすでにこの言葉が使われていたらしい。
参考: 『日本の時刻制度』橋本万平1966塙書房 / 『故事ことわざ事典』1974新文学書房 / 『ことわざの辞典』1991三省堂 / 『広辞苑』新村出編2022岩波書店
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