大正・昭和の女流作家・吉屋信子とその時代
猛暑に負けているのは人間ばかりではない。庭の隅に生えてる茗荷(ミョウガ)、例年たくさん花が咲くのに今夏はゼロ。葉や茎は見るも哀れにやせ細り、若い花穂(みょうがの子)をのぞむべくもない。しかし、雑草は伸び放題。
しかし、雑草といえどもプロの作家ともなれば、赴きのある表現ができるでしょう。吉屋信子の『安宅家の人々』を読んだばかりのせいか、そう思った。
吉屋信子は筆者の生まれる前から大人気の小説家、少女時代から投稿を始め小説家になった。多くの文壇人と交際があり、各々の名をあげると活躍した時代が垣間見えそう。
吉屋 信子
1896明治29年1月12日、新潟県、吉屋家の長女に生まれる。兄4人。
父・雄一は新潟県警務課長で旧毛利藩士で長州閥、母・マサも同じ山口県人。
1898明治31年~1901明治34年、父は警察畑から行政職に転じ佐渡郡郡長・北蒲原郡郡長・栃木県芳賀郡郡長を歴任。
1901明治34年12月10日、田中正造、足尾鉱毒事件で天皇に直訴。
1902明治35年、真岡小学校入学。父が下都賀郡郡長になり栃木町官舎に住む。
渡良瀬川流域で足尾銅山からの鉱毒が農作物に被害をもたらし、反対運動が盛んで田中正造と信子の父は何度も接触を重ねる。
<田中正造・野の義人>吉屋信子
―――小学生の幼い私がわが家のからたちの垣の門に立って・・・・・ 門に入ってくる人を見た一瞬ぎょっとした。その人は蓑を着て菅笠をかぶって・・・・・ たくましい老顔のあごに一束のひげが白く払子(ほっす)のようにさがって目のこわいおじさん・・・・・ いきなりおかっぱの頭をなでられた。
「コワガランデイイ」という態度らしかったが、節くれだった太い指の手でなでるというより、つかまれた感触だった。母はこの蓑笠姿のこわいおじいさんを平伏して迎えた。役所から帰っていた父も奥から現れた。
・・・・・ 大騒動でもてなす客は田中正造という足尾銅山の鉱毒事件で天下の義人と称されたその人・・・・・ 谷中村事件と題した大鹿卓氏の著作中の到るところに、この事件に引きずりまわされるあわれな運命の父の行動が描かれている。・・・・・(中略)・・・・・ 年を経て谷中村を池底に沈めるために強制的に土地を買収、村民立退きの強圧手段の執行官吏として父はその村に出張したまま、一ヶ月も帰宅せぬ留守に、小さい弟が疫痢で危険状態となった。父は病児が亡骸になってからやっと帰宅・・・・・わらじ履きの土足のまま座敷に駆け込むやつめたくなった死児を抱き上げて、うろうろ畳の上を歩き回ったのもつかの間、ふたたび谷中村へ引き返す・・・・・
・・・・・ なぜこんなにまでその県の地方官吏のすべてが悪戦苦闘したのか―――時の内務大臣のきびしい命令によってだった。時の内相は原敬、足尾銅山主古河家の鉱業会社の最高顧問役だった・・・・・(『作家の自伝』)。
1908明治41年、栃木高等女学校(栃木県立栃木女子高等学校)入学。
*新渡戸稲造が学校の講演会で、古い良妻賢母思想を批判し女性の新しい生き方を説いた。信子はこれに深く感銘する。
けやきのブログⅡ<2015.4.11札幌遠友夜学校(新渡戸稲造)と有島武郎(北海道)>
1910明治43年、14歳。『少女界』懸賞小説に「鳴らずの太鼓」を応募、一等。
『少女世界』に応募、「花物語」が栴檀賞となる。少女向きのメルヘン風な物語は10年余り連載される。
1911明治44年、大人の雑誌『文章世界』『新潮』に投稿。入選の図書券で海外小説などむさぼり読む。
1912明治45年/大正元年、女学校卒業。父は上都賀郡長になり鹿沼に移転。
1913大正2年、小学校代用教員になるも間もなく辞め、投書生活を続ける。男が文学を志しても反対される時代、両親は文学熱を喜ばなかった。
1915大正4年、父が退官、日本赤十字栃木支部主事となり一家で宇都宮へ。
信子は上京して東大生の兄の下宿に同居。生田春月・花世夫妻、岡本かの子らを訪問。平塚らいてう『青鞜』のメンバーとも親しくなる。
幼年雑誌『良友』、博文館『幼年世界』に原稿を書き収入を得る。
1917大正6年、東京四谷のバプテスト女子学寮に入る。
寮生の佐藤千夜子(歌手・東京行進曲などヒット)と内緒で浅草に映画を見に行き、退寮処分となる。
1918大正7年、神田のキリスト教女子青年会YWCAの寮生になり、津田塾や女子美術の学生らと友人になる。
1919大正8年、父死去。朝日新聞の長編小説に応募、『地の果まで』一等当選。
選者は徳田秋声・幸田露伴・内田魯庵。
1920大正9年、20歳。元旦から『地の果まで』連載始まり、小説の注文来る。
1922大正11年、東京本郷林町に移転。徳田秋声を訪ねる。また。終生の友・三宅やす子(小説家・評論家)に出会う。
朝日新聞連載、『海の極みまで』映画化される。
1924大正13年、友人・門馬千代が下関の女学校に赴任、信子も同道。
『婦人之友』掲載の「薔薇の冠」が好評で、*羽仁もと子との交際が始まる。
けやきのブログⅡ<2023.6.24自由学園創設者・羽仁もと子、歴史家・羽仁五郎、評論家・羽仁説子>
1926大正15年/昭和元年、家を建て門馬千代と共同生活。
千代は信子の秘書役をかってで、家事一切を取り仕切る。
小説家の片岡鉄兵・中河与一・林芙美子らと親しくなる。
徳田秋声らの「二月会」会員になり正宗白鳥・室生犀星・山田順子を知る。
1927昭和2年7月24日、<ぼんやりした不安>で芥川龍之介自殺。
その死は知識人に強い衝撃を与えた。芥川龍之介全集を文藝春秋社が企画。その宣伝のための地方講演に信子も加わり、菊池寛から目をかけられる。
1928昭和3年、一冊一円で分売する全集<円本>が流行る。
新潮社企画の「現代長編小説全集」『吉屋信子集』刊行。
印税2万円を得て門馬千代とヨーロッパ旅行へ。壮行会では徳富蘇峰のスピーチ、与謝野晶子の餞別の短歌、菊池寛の見送りなどあった。翌年9月帰国。
1931昭和6年、雑誌・新聞など大衆小説の執筆に忙殺される。
宮本百合子に、「通俗小説一辺倒になり文芸批評でも取り上げられない」などを吉屋文学のありようを指摘される。その一方、
―――信子は大衆女性たちに向かって、男尊女卑が何の疑いもなく根をおろしている社会に受け入れられる形をとりながら、密かに彼女の信じる真理を時限爆弾のように埋め込んでいく・・・・・(『安宅家の人々』解説)。
1936昭和11年、毎日新聞連載「夫の貞操」が社会的な反響を呼ぶ。吉屋文学傑作の一。
1940昭和15年、「主婦の友」特派員として満洲開拓団見学。ついでインドシナへ赴く。
1941昭和16年、インドシナで年越し、2月帰国。
秋、『主婦の友』特派員としてベトナム・タイに向かう。
12月8日、日本軍、ハワイ真珠湾奇襲攻撃。一行はサイゴン(現ホーチミン市)で日米開戦を知らされ帰国。
1943昭和18年、紙不足・言論統制。政府御用の講演会、座談会多くなる。
1945昭和20年3月10日、49歳。東京大空襲で自宅焼失。
1949昭和24年、53歳。戦後初めての新聞小説、「妻の部屋」毎日新聞に連載。
1950昭和25年、母死去。東京千代田二番町の新居に移る。
1951昭和26年、新聞小説に新境地をひらいた*『安宅家の人々』毎日新聞連載。
『安宅家の人々』:無垢な魂を持つ知的障害者の夫を支え、ひとりで養豚場経営に汗を流す妻。しかし、事業に失敗して転がりこんだ夫の弟夫婦によって破られる。傷つけあわざるをえない男女の姿を通して幸せの意味を問いかける名作。
『婦人公論』に執筆「鬼火」が女流文学賞を受賞、高い評価を受ける。
1962昭和37年、鎌倉の長谷の新居(現・吉屋信子記念館)に移住。
1966昭和41年、朝日新聞・夕刊に「徳川の夫人たち」連載。
1967昭和42年、菊池寛賞を受賞。
1970昭和45年、『週刊朝日』に「女人平家」の連載。紫綬褒章を受ける。
1973昭和48年7月11日、結腸ガンのため死去。享年77。
―――わたしは吉屋信子ほど女にたいして優しい目をもち、温かい心を持ち続けた作家を知らない。晩年の歴史小説もすべて、女の目で女の立場に身を寄せて描いている。・・・・・(『安宅家の人々』解説)。
参考: 『作家の自伝66 吉屋信子』1998図書センター / 『安宅家の人々』1995講談社 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 『現代日本文学大事典』1965明治書院
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