明治・大正・昭和の湖沼学者、田中阿歌麿
<湖沼の伝説>
とほい最初の祖先が、おほ昔にはじめて湖沼を見つけ出した頃のことを想像して見ますと、そのぐるりには天然の森林が、青黒く繁っており、いろんな怪獣奇鳥が、ふしぎな叫び声をあげて、うようよしてゐたでせうし、水中にはさまざまの魚がなんの恐れもなく、群がりおどつてをどつてゐたでせう。それに水の色も、天然林の影をうつして、もの凄いまでに濃い藍色をしてをり、見る目に、いかにも神秘な感じがつよかつたにちがひありません。
その深い色をした、しいんとした湖沼も、大雨風がおそつて来ると、たちまち、姿をかへて、大浪をさかだて、湖岸の岩を砕き、木を倒して、恐ろしく荒れ狂つたでせう。
われわれの未開な祖先たちは、それらを見たり、また冬になつて、その湖沼一面に張つた氷が夜中に、ひびれる、おそろしい音を聞いたり、日中でもその氷が突き上つて、にわかに氷の堤が出来たりするのを見て、どんなにおどろき、怖れたことでせう。そのためにはいろいろの迷信も生み出されるわけで、それが湖畔におこつたいろいろの事件と一しょに、今でも、多くの伝説として残つています。・・・・・(田中阿歌麿『山の科学』)。
<湖沼の出来たわけ>
日本では、いちばん数の多いのは、火山に関係・・・・・火口湖といつて、九州の霧島火山に例があるとほり、噴火口に水がたまつたもの、赤城小沼のように爆裂火口に水を湛へたもの・・・・・箱根芦の湖、榛名湖も火山関係の湖ですが、火口原湖といつて、中央火口丘と、ぐるりを取りかこんだ外輪山との間に水がたまつたのです。 そのほか、溶岩が流れて谷や川をせきとめて出来た湖沼・・・・・溶岩堰止湖もあり・・・・・(同上)。
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田中 阿歌麿 (たなか あかまろ)
1869明治2年9月30日、東京築地に生まれる。父は幕末に尊王論者として活躍した尾張藩士・田中不二麿(ふじまろ)である。
?年 *中村敬宇の私塾に学ぶ。
中村敬宇(正直):昌平黌教授。幕末に幕府留学生取締役で渡英。帰国後、『西国立志編』を翻訳。同人社を設け福沢諭吉とならぶ啓蒙家。
1871明治4年、阿歌麿2歳。父が岩倉遣外使節団に理事官として随行。
1884明治17年、15歳。
―――父親に連れられて一人の少年が吉田口から富士山を登って・・・・・ 少年の目に、眼下に点在する富士五湖の一つが飛び込んできた。少年は大自然の偉大さに打たれ、湖沼こそ将来の自分の友人という思いに駆られた。湖は山中湖である。・・・・・(『川と湖を見る・知る・探る』)。
9月、イタリア特命全権公使の父に従い渡欧。イタリアを皮切りにヨーロッパ各地を訪問、湖沼学にふれる。
7月、華族令制定。それまで呼称であった華族を公・侯・伯・子・男の5爵に分け、特権を有する身分とした。公家・諸侯の旧華族に加え、国家に勲功のあったとされる政治家・軍人・官吏・実業家などに与えられた。昭和22年廃止。
1886明治19年、父の意志により外交官修行のためスイスに赴く。
父と山や湖を巡り、地理学に傾倒。
フランスの地理学者エリゼ・レクルスに師事。
2年間アフリカの地理研究に従う。
1887明治20年6月、父・不二麿、フランス特命全権公使。
?年、ベルギーのブリュッセル市立大学に入学。
1892明治25年、父の不二麿、子爵となる。
1893明治26年、理学部地理学科卒業。
卒業後、コンゴ殖民地の地理研究をする。
1895明治28年秋、ヨーロッパから帰国。
日本全国各地の湖沼研究に着手。
阿歌麿は終生、官職につかず在野の研究者として過ごす。
―――(民主主義的科学といふこと)
戦前から戦争中を通じて陸海軍研究所・・・・・ 大会社等の研究所も、民間事業ではあつても、決して民主的ではなかつた・・・・・ 湖沼学の田中阿歌麿子爵の仕事、・・・・・阿部正直伯爵の山雲の研究の如き、これら華族の方々の研究が却って民主的であるなどは面白い。・・・・・ これといふのも生活に束縛されぬ自由的立場が、研究をして民主的ならしめてゐると思ふ・・・・・(*藤原咲平『生みの悩み』)。
藤原咲平:大正・昭和期の気象学者・第五代中央気象台長。
―――(阿歌麿)国内には湖沼研究に興味を持つ人はおらず・・・・・ しかし「四面環海のわが国で地理学を志す学者の将来なすべき仕事は、海洋または湖沼、とにかく水に関する研究をすべきだと気づいた」・・・・・ 帰国後、いろいろな学校(専修大・中央大・早大・京大など)で教鞭をとるかたわら、東京地学協会の機関誌『地学雑誌』の編集に従事。協会の補助をうけて湖沼研究のための器具類を調達することが湖沼研究のための最初の仕事であった。・・・・・(『川と湖を見る・知る・探る』(陸水学入門)。
阿歌麿の山中湖調査によって初めて湖沼学が開拓され、田中館秀三・宮地伝三郎らの努力によって日本の湖沼学進歩。
湖沼学: 陸水学の一分科で湖沼のいろいろな性質を各方面から総合的に研究する科学。水位・水温・水色・透明度・静震・湖流など物理学的研究。湖水の化学成分。湖沼の形態、生成・変遷の歴史などの研究。
1899明治32年8月1日、器具を携え山中湖の調査決行。日本湖沼学開学記念日。
山中湖でロート状の窪地を発見・湖底から湧出する地下水の存在を確認。
1902明治35年、農商務省水産講習所にて湖沼学を講義。
1909明治42年、不二麿死去。享年65。
爵位は男子の家督相続人が世襲のため阿歌麿、子爵を継ぐ。
1911明治44年、『湖沼の研究』(新潮社)
1914大正3年、『諏訪湖』第1編
1917大正6年~1919大正8年、3年間、長野県大町市木崎湖畔で市民向け公開講座(夏期大学)で講義。
木崎夏期大学:信州教育会が賛助して開講され、教員有志が主体となって運営。
1918大正7年、湖沼学の創始者フランソワ・フォーレルの『レマン湖』を手本とした湖沼誌『湖沼学上より見たる諏訪湖の研究』を著す。
―――多くの湖沼調査のなかでも信州人の協力には敬意を払い、「私をしてわが国に湖沼学を輸入せしめその発達をなさしめたるは信州人である」・・・・・諏訪湖から始まり、野尻湖、日本北アルプス湖沼、山梨県の松原湖沼群・・・・・そのつど信州の地元から手厚い援助を受けていた。調査結果はそれぞれに湖沼誌として出版・・・・・地元の人たちに対する感謝の表れであったに違いない・・・・・(『川と湖を見る・知る・探る』)。
大正末期、京都帝国大学。
1930昭和5年、『日本北アルプス湖沼の研究』
1931昭和6年、日本陸水学会創立、初代会長となる。
機関誌『陸水学雑誌』発行。第一号、田中阿歌麿「湖沼研究懐旧談」ほか日本の陸水草創期に活躍した学者がそれぞれの分野で執筆。
日本の湖沼学を樹立。その足跡は日本全国に及ぶ。
1937昭和12年、阿歌麿の『湖沼学』は陸水学のわが国最初の教科書として価値ある。
1944昭和19年12月1日、死去。享年76。
参考: 陸水学入門『川と湖を見る・知る・探る』日本陸水学会2011地人書館 / 『海を越えた日本人名辞典』20005日外アソシエーツ / 『生みの悩み』藤原咲平1947蓼科書房 / 『日本人名辞典』1993三省堂 / 『日本史辞典』1981角川書店 / 『世界大百科事典』1972平凡社 / 国会図書館デジタルコレクション
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