« 応用化学専攻・染料会社・農商務省窒素研究所そして探偵小説家、甲賀三郎 | トップページ | オランダ語と英語を駆使して活躍した幕末の通訳官、森山多吉郎(栄之助) »

2023年10月28日 (土)

幕末、アメリカ人英語教師第一号 ラナルド・マクドナルド

 2023令和5年の秋。コロナはまだ消えず、インフルエンザ流行の兆しだが、来日外国人が増えている。賑わいはいいが、ゴミや交通問題などで住民にしわ寄せも起きている。
 顧みれば、鎖国していた日本は外国船が近づくと砲撃して追い払っていた(異国船打払令)。しかし、それでも日本行きを志す外国人はいたようだ。
 アメリカ人、ラナルド・マクドナルドもその一人である。
 辞書も何もない時代に外国語を習得し人の役に立ったのは凄い、才能と努力に感心するばかりである。
 マクドナルドに興味を抱いたきっかけは、重久篤太郎著『お雇い外国人地方文化』<英学の夜明け>である。同書を主な参考にマクドナルドの生涯を紹介したい。

 1791寛政3年、アメリカ船レディ・ワシントン号が僚船グレース号とともに紀州最南端の大島に来航。通商を求めたが成功せず、ただ薪水を得て去った。
 1820文政3年、ハワイのアメリカ人宣教師が日本近海にクジラ群が多いと話し、アメリカ捕鯨船が日本近海の漁場に来るようになった。以来、アメリカは開国を促すため日本と交渉しようとする。
 1837天保8年、モリソン号事件
   日本人漂流民7名を伴い、通称をもとめ浦賀沖に来航したアメリカのモリソン号を、幕府が異国船打払令によって砲撃を命じ退去させた事件。
 これを耳にした渡辺崋山は『*鴃舌小記』、髙野長英は『夢物語』を著し、幕府の対外強行政策を批判、*蛮社の獄、蘭学者に加えた言論弾圧事件のきっかけとなる。
   鴃舌(けつぜつ):百舌の鳴き声。やかましいだけで、意味の通じない言葉の喩え。

     ラナルド・マクドナルド

 1824文政7年2月、ラナルド・マクドナルド、アメリカ西部オレゴン州で生まれる。
   父アーチボルド・マクドナルドはスコットランド生まれ、ハドソン湾商館の仲買人頭。仲買人頭はインデアンの娘と結婚するのがこの土地の習慣となっていた。
   ハドソン湾商館:元々はイギリスのカナダ貿易を独占していた古い王立特権企業の流れをくむ会社のよう。商館創設当時、北米インデアンから獲得した毛皮・皮革をイギリス本国に輸入していた。
   母は北米土着民、チヌク族酋長の娘プリンセス・サンデー。ラナルドを産んで間もなく死去。ラナルドはスイス人の継母にキリスト教的訓育のもとに育てられる。

  ―――ラナルド・マクドナルドは北米インデアンの血を受けていることを知り、この混血のことが・・・・・ 心を悩ますに至った。その結果、北米インデアンがもと日本から渡来した人種だと漠然と想像していた彼は、民俗的親近感を抱いて自分の母の先祖の地日本に渡ろうと決心・・・・・ 制限を設けている日本の対外事情(鎖国)は、ハドソン湾商館の人々の間ではよく知られていた・・・・・。
  ?年、10歳~15歳までレッドリバーのミッション・スクールで学ぶ。

 1824文政7年5月、イギリス捕鯨船員が常陸大津浜上陸。8月、薩摩宝島に上陸、略奪。
 1825文政8年、幕府は諸大名に外国船の打ち払いを指令(異国船打払令)。
 
 1839天保10年、マクドナルド、セント・トマスの銀行の書記となったが辞める。
 1841天保12年、17歳。ミシシッピー川で船乗り生活を始める。
 1842天保13年3月、ロンドンに行ったが、年末はサンフランシスコにいたらしい。

 1845弘化2年、*オレゴン条約締結。
   同地は英米共同領有となっていたがアメリカ領土となり、マクドナルドはアメリカ市民となる。
   12月、マクドナルドは日本に行く機会を得ようと、サンドウィッチ諸島に向かうアメリカの捕鯨船プリマス号に乗船。

 1846弘化3年、プリマス号がサンドウィッチ諸島に着くとマクドナルドは下船したが日本へ行く手立ては見つからない。
 1847弘化4年秋、プリマス号船長と再会。日本に渡る機会を得るために再びプリマス号に乗船。

 1848嘉永元年3月、プリマス号は日本の諸島と本国の間の海を獲物を追って巡航、さらに樺太に向かい最後の捕鯨をする。この時、漁場で25隻~30隻の捕鯨船に出会った。外国船が対馬・五島・蝦夷地・陸奥沿岸をしきりに航行していたのである。

   6月27日、船は日本沿岸に停泊。マクドナルドは海上放浪7年の歳月を費やしてようやく日本近海に入り、日本渡航を企てる。
  ―――船長はマクドナルドに日本渡航の意志をひるがえすよう忠告したが聞き入れないので、しぶしぶ船長用に造られたボートを航海用に艤装、36日分の食料品を与えた・・・・・単身ボートに乗り移ったマクドナルドは無人島で2~3日生活したのち、7月2日、蝦夷宗谷から約25マイルの利尻島に上陸・・・・・ 漁師の家に留まって親切な扱いを受けたが・・・・・漁師は役人に届け出・・・・・ 偽装漂流民として来日のマクドナルドは直ちに宗谷、次いで松前に護送され監禁されてしまう。
 その2~3ヶ月前、米船ラゴダ号の水夫15人(アメリカ人7名、サンドウイッチ島出身のカナカ人8名)が、松前の付近に収容されていることを知る・・・・・ すべての外国人は長崎に送致する日本の法律に従って、マクドナルドも長崎に護送される。・・・・・。

   10月、長崎に護送されたマクドナルドは、長崎村西山郷の崇福寺の末寺、大悲庵に宿所を与えられる。鍵をかけられ監視つきであったが、優遇された。
  ―――毎食5~6人の給仕がつき、日曜日の食卓には、パンと一緒に・・・・・ 豚肉が出・・・・・ 正月にはオランダ商館長レフィッソンから素晴らしいコーヒーと小麦のパンの差し入れがあり、さらに彼には貴重な読み物である新聞『ロンドン・アトラス』、『ウィクリー・ディスパッチ』に年賀のカードを添えて送られた。
  ―――オランダ通詞・森山栄之助(29歳)はすでに英語を学んでいたので、蘭英辞典と首っ引きであったが、マクドナルド(25歳)と英語で対話することができた。
  ―――マクドナルドは3回にわたって長崎奉行の取調を受ける・・・・・ 奉行所の入口に来ると、敷石の上に十字架と聖母マリヤ像や少年キリスト像を彫った真鍮版の画像が置かれ・・・・・ 役人にこれらを足で踏むことを命ぜられると、彼は新教徒であるので、少しも躊躇しないで画像を踏みつけた。・・・・・ この時の取調は通詞・森山栄之助の通訳のもと行われた。
  ―――マクドナルドの日本渡航の目的は、イギリスかアメリカが日本との通商を開いた場合に、通訳として職を得たいであった。・・・・・ ところが、図らずも英語教師となる機会が与えられた。・・・・・ 通詞の森山栄之助がその人柄にひかれて、英語教授を請うと、マクドナルドは快く求めに応じた。かくして、マクドナルドは約7ヶ月間の幽囚期間を、森山栄之助ら14人のオランダ通詞に英語を教えた

  ―――厳密な意味では、マクドナルドはお雇い外国人とはいえないであろうが、事実上においては英米人の英語教師第一号として、お雇い教師を演じたのである。
  ―――マクドナルドはプレブル号に引き渡されるまで約7ヶ月を長崎の通詞に英語を教授・・・・・ 彼が長崎滞在中よく待遇されたこともきわめて自然なことである。
  ―――(マクドナルド門下のオランダ通詞)西与一郎・植村作七郎(最年長の74歳)・森山栄之助(29歳)・西慶太郎・小川慶十郎・塩屋種三郎・中山兵馬・猪俣伝之助・志築辰一郎(最年少17歳)・岩瀬弥四郎・堀一郎(稲部禎次郎)・茂鷹之助・名村常之助・本木昌左衛門。
  ―――森山はマクドナルドにとって良き弟子、良き友人で、帰米後に至るまで森山を忘れなかった。森山は頭角を現しオランダ語・英語・フランス語とラテン語を・・・・

 1849嘉永2年4月、アメリカ軍艦プレブル号長崎に来航、マクドナルドや漂流民を引き取り退去
   その節、マクドナルドは森山栄之助とともに大いに活躍した。
   日本を去ったマクドナルドは、中国・インド・南洋・オーストラリアを放浪。

 1853嘉永6年6月3日、東インド艦隊司令長官ペリー、軍艦4隻を率い浦賀に来航
  ―――帰国したマクドナルドは鉱山で働いて金を儲けたこともあって一時は楽な暮らしをしたが、生来人のよいところから、人びとに借り倒されたりし元の無一文に・・・・・ 晩年はワシントン州のカナダ国境に近いトロドという寒村で、姪のジェニィ・リンチ夫人の許に身を寄せる。

 1854安政元年3月、日米和親条約(神奈川条約)を結び、下田・箱館を開港。
 1894明治27年8月5日、ラナルド・マクドナルド死去。享年70。
   “Sionara,my dear,Sionara”と日本語のサヨナラを言い残して永遠の眠りについた。
     ~~  ~~  ~~  ~~  ~~  ~~  ~~

 1960昭和35年、日米修好通商百年を記念して、百年記念行事運営会が日米関係功労アメリカ人298名を顕彰。その際、マクドナルドをオランダ通詞14名を教え、「英学の発達と日米交渉に貢献した」功労者として顕彰

 
   参考: 『お雇い外国人⑭地方文化』重久篤太郎1976鹿島出版会 / 『日本史年表』歴史学研究会編1990岩波書店 / 『日本史辞典』1981角川書店 / 『世界大百科事典』1972平凡社

|

« 応用化学専攻・染料会社・農商務省窒素研究所そして探偵小説家、甲賀三郎 | トップページ | オランダ語と英語を駆使して活躍した幕末の通訳官、森山多吉郎(栄之助) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 応用化学専攻・染料会社・農商務省窒素研究所そして探偵小説家、甲賀三郎 | トップページ | オランダ語と英語を駆使して活躍した幕末の通訳官、森山多吉郎(栄之助) »