« 明治・大正・昭和の湖沼学者、田中阿歌麿 | トップページ | 幕末、アメリカ人英語教師第一号 ラナルド・マクドナルド »

2023年10月21日 (土)

応用化学専攻・染料会社・農商務省窒素研究所そして探偵小説家、甲賀三郎

 稲妻を生む 岩かどに  鬼蔭を立て嘯(うそぶ)くと
 鹿はおびえて 山かける  森を渡つて 谷を越え
 雲を伝つて 峰へ行け  沈む夕日を 逃すなよ。
 三匹斃して 夜としろ、 はいはい 私の 強い馬。 
 永遠(とこよ)に命に 目醒めし三郎。
    (後略)    <甲賀三郎の唄『フリヂヤ:小唄集

 甲賀三郎:信濃国諏訪社の縁起譚にみえる伝説上の人物。近江国甲賀郡の地頭の末子で行方不明となった妻、春日姫地底の国を遍歴。苦労の末に春日姫と再会。説話は古浄瑠璃や近松門左衛門や竹田出雲の「甲賀三郎物語」に発展する。
 この伝説上の甲賀三郎をペンネームに用いたのが、戦前の探偵小説家・甲賀三郎である。

     甲賀 三郎 

 1893明治26年10月5日、滋賀県甲賀郡水口村/蒲生郡日野町の井崎家の次男に生まれる。
   本名・春田能為。父は旧水口藩士で明治維新後、小学校教員となる。
   教育熱心な父親は成績の良かった三郎を妹の嫁ぎ先、春田家に託す。
 1904明治37年、日露戦争。
 1905明治38年、12歳。東京神田の春田家に寄宿して京華中学校、東京第一高等学校を卒業。継いで東京帝国大学へ進学。
   三郎は文科を希望するも学資を援助していた叔父の同意が得られず理科に進む。

 1914大正3年、ドイツに宣戦布告、第一次世界大戦に参加。
  ?年、 大学卒業を待たずに叔父の娘と結婚、春田家の婿養子となる。
 1918大正7年、東京帝国大学工学部応用化学科、卒業。工学士。
   和歌山県の由良染料株式会社に技師として入社。
 1920大正9年、農商務省臨時窒素研究所・技手となり窒素肥料研究に従事。
   同僚に後の探偵小説家・大下宇陀児がいた。後の江戸川乱歩とも面識があった。

 1923大正12年、『新趣味』(博文館)の懸賞募集に応募、「真珠島の秘密」一等入選。
  ―――当時の投稿家たちの大半が、実生活の延長線上にストーリイを構築しているのに対して、甲賀氏のこの第一作は、名探偵・藤本敏の功名譚を「私」(岡田)が物語るという、コナン・ドイルのホームズ物語の人物配置をそのまま借りた作品であるのが、逆に異色だった・・・・・(浜田知明『緑色の犯罪』)

 1924大正13年、欧米窒素の工業視察のため欧米に往く。
   この時の体験を春田名義で『欧米飛びある記』と題して、『新青年』に連載。
   技師として研究所勤務のかたわら甲賀三郎の筆名で各誌に作品を発表。
   出世作「琥珀のパイプ」を『新青年』に発表。
   理化学的トリックを用いた本格的な作風が注目される。論理的な短編をつぎつぎ発表し、本格派の代表的存在となる。
 1926大正15年以降、「気早の惣太シリーズ」でユーモラスな掏摸の風貌を描いた。
    発禁本『サンデー毎日』夏期特別号(甲賀三郎「勝者敗者」)

 1927昭和2年、犯罪実話小説「支倉事件」(はぜくらじけん)を『読売新聞』に連載。
   長編『支倉事件』甲賀三郎の異色編。
   ―――実話に基づいたもので、キリスト教牧師の警察への挑戦的態度と冤罪抗争に無類の迫力がある。・・・・・(小阪部『現代日本文学大事典』)。
   甲賀三郎の次女・深草淑子によれば、三郎は弁護士志望だったという。

 1928昭和3年、官吏を辞めて作家専業となる。
   ―――家には千客万来、編集者、作家志望の人達、三郎が趣味で師事していた囲碁や将棋の名人級の方達をもてなす役目は母の仕事になり・・・・・ 「ぷろふいる」紙上での木々高太郎と三郎の論争は端的に解釈すれば、木々氏の探偵小説と言えども文学的であり芸術的なもので最高の文学であらねばならないという論旨にたいして、三郎はあくまで大衆的、娯楽的なもので芸術性は必要ないと論破・・・・・(「父・甲賀三郎の思い出)。
   『緑色の犯罪』その他で、悪徳弁護士・手塚竜太を活躍せしめ、必ずしも論理一点張りではなくなる。
 1930昭和5年、住所、東京市外渋谷町栄通1-43(『文芸年鑑』昭和5年版)
 
 1932昭和7年、新潮社より長編『盗なき怪盗』を書き下ろし刊行。
 1933昭和8年、文芸家協会理事に就任。
 1934昭和9年、「乳のない女」通俗的サスペンスも手がける。
   ―――宮城県の鬼首といふ温泉に泊つた時の話、部屋の真ん中にぶら下つた電灯の笠に、長谷川伸が頭をぶつけた我慢強い男だから、痛いといはなかつたが、これが長谷川だから好いやうなものの、土師清二や甲賀三郎だつたら、坊主頭だから頭の方にもヒビが入るだらうと、私(平山蘆江)がいつた。途端に、土師が、同じ笠に衝突した。・・・・・ それから十分とたたぬ中に、またしても電灯の笠がカーンと鳴つて、ガチャガチャと壊れた。見ると甲賀三郎のあたまが、電灯の笠にトドメを刺してゐたのだ。・・・・・(『芸者花暦』)。

 1935昭和10年、
  ―――以後は、探偵戯曲の新分野開拓を志した。本格派の巨匠と目されたが、長編は通俗性が勝ち、サスペンスのみに頼って、本格長編に力作が乏しかったのが惜しい。それより「探偵小説講話」その他のエッセーで、探偵小説の本質を論理的遊戯性にあるとして、木々高太郎との間に論争を続けたのは、探偵小説論の一方の見解として特記すべきである。・・・・・(中島河『現代日本文学大事典』)。

 1937昭和12年、長谷川伸主催、脚本研究会「二十一日会」に加わり、探偵戯曲の確立を目指す。
   ―――探偵小説家甲賀三郎氏は「スキー礼賛」の言葉として、先づ氏自身の失敗談から始められる。つづけて氏は云ふ。「・・・・・誰でもスキーを初めたものは早く上手にならうとする。コーチャーも早く上達させようと思つて、どうしても無理をする。・・・・・ 無理をしないで、つまり中年者のやうに、それ相当の事をしてゐればいいので、競技に加はらうとか、・・・・・ 野心をすてて小さい丘を登つては滑つてゐればいい。それだけでも、決行面白いものだ。スポーツとして、之位伸縮性のあるものは他にない。・・・・・」(『スキー適地案内』)。

 1941昭和16年、日本軍ハワイ真珠湾奇襲、対米英宣戦布告。
 1942昭和17年、49歳。日本文学報国会事務局総務部長に就任。 
 1944昭和19年11月24日、B29に東京発空襲される。
   日本小国民文化協会事務局長に就任。
   11月、甲賀三郎『日軍進駐の日』八紘社杉山書店(宣伝用出版物として指定)。

  ―――甲賀三郎の創作は、いわゆる理化学的トリックを用いた本格ミステリから、江戸川乱歩名づけるところの「法律的探偵小説」・・・・・ユーモア犯罪小説、通俗長編と、多岐にわたっている。・・・・・ かつて江戸川乱歩は、甲賀三郎について、「言い漏らすことのできないのは、彼が熱心な探偵小説評論家でもあること、日本の探偵作家ではほかに例がないほど評論の筆を執っている」・・・・・(横井司『甲賀三郎探偵小説選』)。

 1945昭和20年2月14日、九州出張の帰途、急性肺炎に冒されて歿す。享年52。

   ―――昭和の初期から二十年間に短編、長編の厖大な作品を残しています。学問として学んだ化学の知識とあいまって、いくつかの秀作を世に残しました。もしも三郎が希望通りに弁護士になって熱弁をふるっていたとしても、死後七十年も経った今に名前は残らなかったと思います。活字の偉大さを思い知らされます。・・・・・ 戦争の足音が近づいて・・・・・ 自由に小説を書けなくなり・・・・・ 三郎のペンを折り、文部省の肝煎りで創設された文学報国会に総務部長として・・・・・ 就任後まもなく少国民文化協会福岡支部を作る事になり福岡に出張・・・・・ 真冬の一番寒い時期の福岡で風邪を引き、熱のある体で帰途についたのですが、列車が機銃掃射にあいそのまま岡山駅で止まって・・・・・ 瀕死の三郎に施された医療は・・・・・ 岡山の火葬場で荼毘に・・・・・(「父・甲賀三郎の思い出」)。
 作品は今も読みつがれ書籍、電子書籍にても読める。

   参考: 『フリジャ:小唄集』藤森秀夫1921金星堂 / 『現代日本文学大事典』    / 『朝日人物事典』1990朝日新聞 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『芸者花暦』平山蘆江1934岡倉書房 / 『明治大正発売禁止書目』(書誌文庫・第1)図書週報編輯部1932古典社 / 『スキー適地案内』(滋賀県観光叢書3)1937 / 『甲賀三郎 探偵小説選Ⅱ』(父・甲賀三郎の思い出)2017論創社 / 『甲賀三郎探偵小説選』2003論創社 / 『緑色の犯罪』甲賀三郎1994国書刊行会(p313に甲賀三郎の写真

|

« 明治・大正・昭和の湖沼学者、田中阿歌麿 | トップページ | 幕末、アメリカ人英語教師第一号 ラナルド・マクドナルド »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 明治・大正・昭和の湖沼学者、田中阿歌麿 | トップページ | 幕末、アメリカ人英語教師第一号 ラナルド・マクドナルド »