« オランダ語と英語を駆使して活躍した幕末の通訳官、森山多吉郎(栄之助) | トップページ | 幕末明治の外務官僚・漢詩文家・維新の語り部、田辺太一(蓮舟) »

2023年11月11日 (土)

社会事業家・混血児施設の創設者、沢田美喜

 11月というのに夏日があったり気候がおかしい。それでも着る物に注意するぐらいで命の危険はないから平和でありがたい。大袈裟かも知れないが、日々、戦争のニュースが絶えないから無事平穏な日々をありがたく思う。
 戦災の映像に子どもが映るたび孤児にならないように祈るばかりである。
 かつて日本も戦争をし親を喪った子どもが少なくなかった。その中でも戦後、進駐軍の兵士との間に生まれた混血孤児を引き取り、面倒をみたのが沢田美喜である。

  ―――私達の国は第二次世界大戦に敗戦、爆撃による破壊と荒廃、物資の欠乏の中で連合国軍の完全な占領下におかれていました。・・・・・(中略)・・・・・どの国の歴史を見ても、戦中、戦後は占領軍の将兵と占領下の女性との交際の中で、望まれずに生まれたり、様々な理由で親の保護を受けられず一人で生きていくことが難しいこども達が生まれます。・・・・・(中略)・・・・・学園創立者沢田美喜は、身寄りがなく孤児となった嬰児、幼児達を目の前にして、自らが彼らの母親代わりになり、彼らの将来を取り戻し、育んでいこうと決意、私財を投じて児童養護施設、乳児院エリザベス・サンダース・ホームの建設に着手しました。・・・・・(学校法人聖ステパノ学園 小川正夫『月報私学』2005年90号)。

     沢田 美喜 

 1901明治34年9月19日、父・岩崎久彌、母・寧子の長女として上野不忍池に近い岩崎邸で生まれる。兄三人。三菱財閥の始祖・岩崎彌太郎の孫。
 生家の岩崎邸についてほか『GHQと戦った女 沢田美喜』に詳しい。邸宅は現在、都の重要文化財「岩崎邸庭園」として一般公開、資料館も併設されている。
 筆者は資料館で岩崎久弥の母校ペンシルバニア大学の卒業名簿を見つけ、後日、学芸員に名簿のコピーをもらって嬉しかった。
 東海散士・柴四朗は同校卒業、久彌とも縁がある。
  けやきのブログⅡ<2020.6.27 G・E・モリソン、柴五郎、東洋文庫(岩崎久弥)>

 ?年、東京女高師範学校付属幼稚園に入園。
   その後、東京女高師範学校(お茶の水大学)中学部まで進学するが、中退。
   美喜は学友の話からキリスト教に興味をもつが、キリシタンバテレンを忌み嫌う真言宗の祖母に聖書をとりあげられ退学させられる。兄たちは勉学、女の美喜は国語、漢文、日本画、お茶や和裁、料理など習わせられた。英語は津田梅子の紹介で英国夫人が教えに来た。

 1922大正11年7月、美喜は外交官の沢田廉三(1888~1970)と明治学院のチャペルで挙式。
   12月、アルゼンチン公使館二等書記官・代理公使の廉三の任地ブエノスアイレスへ赴く。同地で2年間過ごし、長男・信一を出産。
 1926大正15年、夫の本省勤務にともない帰国。

 1930昭和5年~1936昭和11年、イギリス・ロンドンに赴任。
   子どもは長男、次男、三男、長女の4人。
   儀礼に縛られた外交官の妻の生活に疑問をもちはじめたころ、ロンドンの孤児院「ドクター・バナードス・ホーム」に感心し、週一回、奉仕として働きに行くようになる。

 1931昭和6年、住居。麻布飯倉片町29(『日本紳士録 35版』交詢社)
 1934昭和9年、ニューヨーク総領事の夫と共にニューヨークに約3年居住。
   聖トーマス教会に通いポール・ラッシュと知り合う。このときの知人が後のエリザベス・サンダース・ホームの支持者になる。

 1932昭和7年、廉三がフランス転任。沢田一家はパリに移住。
   美喜は社交界の花形のように歓迎されるジョセフィン・ベーカーと相知る。ジョセフィンはアメリカの極貧の生まれだがパリの貧民窟で慕われていた。
 1934昭和9年、廉三ニューヨーク総領事となり、マンハッタンに赴く。
   ブロードウェイ公演のため来たジョセフィンとの再会を喜んだのもつかの間、美喜は黒人差別を目の当たりにする。
 1936昭和11年6月、帰国。
   美喜は関東大震災で破壊されたYMCA(キリスト教青年会)会館再建のため来日のポール・ラッシュと再会。親日家ポールは英国人エリザベス・サンダースの遺産を美喜の社会事業に役立てるよう提案したサンダース・ホーム誕生の貢献者である。

 1940昭和15年、『子供の国から』ヨランダ・ド・オルムッソン・アルセッン・アンリー著 沢田美喜子訳 伸展社、出版。
 1941昭和16年3月、財団法人日仏会館17回報告より。
  ―――フランス大使夫人アルセーヌ・アンリ著・沢田美喜子訳及び装幀の物語集『子供の国から』を日仏協会会員に特価四円を以て販売仲介を会員に通知、売上げは日本赤十字社事業へ寄付。
   12月、真珠湾攻撃。
       ポールら英米人は敵国人として多摩川べりの「菫女学院」に収容され、翌年本国へ送還される。
 1944昭和19年、『大空の饗宴』沢田美喜子、青燈社。

 1945昭和20年8月、敗戦。
   美喜は生家も自宅・麹町の沢田邸(サワダハウス)も進駐軍によって接収されてしまう。ポールはそこで日本の情報を収集する仕事をしていた。
   敗戦後、美喜は来日していた米軍将校のポールと再会。ポールは表立たず美喜が開設した「日本の混血児のための施設」や資金集めなど援助した。

 1947昭和22年2月、乗り合わせた汽車の網棚から、風呂敷に包まれた黒い肌の赤ん坊が見つかり、美喜は母親と間違われ周囲の偏見に満ちた非難の眼にさらされる。この経験(啓示)が彼女を混血児養育という生涯の仕事に導く。
 美喜は夫の廉三に「この仕事に専心できるよう、私を家庭から解放してもらうよう、諄々と説きました。・・・・・私はとうとうこの仕事にとびこむすべての難関を突破しました」と自伝に記している。・・・・・(『GHQと戦った女 沢田美喜』)。

 1948昭和23年2月、神奈川県大磯町に「エリザベス・サンダース・ホーム」設立。名は遺産から5万円の寄付を受けた聖公会のイギリス女性を記念して命名。
 実質的には個人経営の乳児院として出発。父の久彌は一台残っていた古ぼけたフォードを貸してくれた。これがその時の岩崎久彌に可能なせめてもの娘へのはなむけであった。
   ―――地元日本人の反感、占領軍の妨害、アメリカ聖公会からの援助打ちきりなどに苦労しながら、情熱を失うことなく混血の子どもをそだて親を吟味して養子に送るなどの仕事をおしすすめた。ホームで育った子は約2000人、アメリカやブラジルにまで広がっている。・・・・・ (『民間学事典』)。

 1949昭和24年、私財を投じて神奈川県大磯の元岩崎家別邸に、混血児のための施設<エリザベス・サンダース・ホーム>をひらいた。
   ―――収容したのはアメリカ占領軍の黒人兵士の子どもたちが多かった。・・・・・すべての子どもは双葉のうちから大切に育てられるべきである」という信念をもって、誤解や偏見とたたかい、多いときには160人の母代わりをつとめた。・・・・・(『学習人名事典』)。
 ホームの様子は『これはあなたの母・沢田美喜と混血孤児たち』に詳しい。

 1952昭和27年4月、対日平和・日米安保両条約発効(GHQ廃止)。
   混血孤児を集めて育てることに進駐軍は眉をひそめるであろうことは美喜にも分かっていた。
   ―――ホームの子供たちはいずれ十八歳になると、いやでも施設を出て自分の力で生きていかなければならない。・・・・・厳しい社会が混血孤児に待ち受けている・・・・・美喜は孤児たちの背負っている十字架を代わって背負う決意でエリザベス・サンダース・ホームーを始めたが、GHQ公衆衛生福祉局(PHW)局長クロフォード・サムス准将の「孤児を隔離しない」という政策に楯を突き、・・・・・その戦いも日本の独立とともに、進駐軍は去り、その後に来た人たちは親しくホームにきて、親切にしてくれた。・・・・・(『GHQと戦った女 沢田美喜』)。

 1958昭和33年、『歴史のおとし子 ―エリザベス・サンダース・ホーム10年の歩み』沢田美喜著。
 1963昭和38年、『黒い肌と白い心 ―サンダース・ホームへの道』
 1967昭和42年、『黒い十字架のアガサ』沢田美喜・毎日新聞社
   晩年は多くの賞を受ける。二つの国家の谷間から国家を見返す運動の精神は、サンダース・ホームで育てられた一人ひとりの人生のなかに映っている。
 1980昭和55年5月12日、旅先のスペイン・マヨルカ島で死去。享年78。
   死因は急性肺炎に心不全を併発したため。

 

   参考:『民間学事典・人名編』1997三省堂 / 『日本人名事典』1993三省堂 /『学習人名事典』修訂版1992三省堂 / 『GHQと戦った女 沢田美喜』青木冨貴子2015新潮社 / 『これはあなたの母・沢田美喜と混血孤児たち』小坂井澄1982集英社 

|

« オランダ語と英語を駆使して活躍した幕末の通訳官、森山多吉郎(栄之助) | トップページ | 幕末明治の外務官僚・漢詩文家・維新の語り部、田辺太一(蓮舟) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« オランダ語と英語を駆使して活躍した幕末の通訳官、森山多吉郎(栄之助) | トップページ | 幕末明治の外務官僚・漢詩文家・維新の語り部、田辺太一(蓮舟) »