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2023年11月18日 (土)

幕末明治の外務官僚・漢詩文家・維新の語り部、田辺太一(蓮舟)

 先日まで暑かったのに、いきなり東北・北海道から雪便り! 令和5年の秋は行方不明。気候の変化が激しいが、社会状況もかなり厳しい。
 真面目に頑張れば結果はついてくる。そう教わり、そうしてきた。しかし、激変する現代社会にあって若者にただ頑張れとは言いにくい。ハラハラ見守るだけである。
 幕末、近代日本に変革する時代の人々も否応なく変革に巻き込まれた。その歴史が動くとき日本外交の最先端で活躍したのが田辺太一こと五舟の一人、田辺蓮舟である。
   幕末の五舟:勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟・木村芥舟・田辺蓮舟。

 娘の*竜子は三宅雪嶺の妻で作家。
  けやきのブログⅡ<2014.7.12明治最初の女流作家、三宅花圃(田辺竜子)>
   ―――竜子の夫、三宅雪嶺は義父太一を「文と詩と書に長じ、文を綴ること筆飛ぶが如し」と記している。太一は漢詩文家で幕末維新の第一級の欧米通で、しかも花柳界の粋人でもあったと評し、官僚としては「木戸、大久保の没後に適所を得ずして已む」と・・・・・(『明治時代史大辞典』)。

     田辺 太一(蓮舟)

 1831天保2年9月16日、幕府の儒学者、田辺誨輔(石庵)の次男に生まれる。
   幼名は定輔。号は蓮舟。
   妻・己巳子は幕臣で代官の荒井清兵衛の次女。兄は海軍奉行となった荒井郁之助。一男一女あるが、息子次郎は21歳で歿す。

 ?年、 昌平黌に学び、中村敬宇(正直)とともに二秀才と称せられて甲科及第。父と同じく甲府徽典館の教授を3年間つとめる。

 1853嘉永6年6月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー浦賀に来航。
   7月、ロシア使節極東艦隊司令長官プチャーチン軍艦4隻を率いて長崎に来航。

 1859安政6年、幕府の外国方に出仕。
   安政五ヵ国条約による横浜開港の外交事務に従い、外国奉行・水野筑後守忠徳の知遇を受ける。
 1861文久元年、31歳。水野が小笠原開拓使となり、太一は外国奉行支配調役並に任命され、12月咸臨丸で小笠原に赴く。
  ―――1827文政10年、小笠原諸島をイギリス軍艦が探検、占領。その後、アメリカ人が移住。幕府は日本領であると主張。ペリーの占領などがあり帰属について争いが続いたが、明治9年英米が主張を放棄し日本が領有を宣言。

 1863文久3年、池田筑後守長発(ながおき)が横浜鎖港談判使節に任命され、太一は外国奉行支配組頭としてフランスへ随行。
   12月、横浜出航。
 1864元治元年、池田使節一行、フランスとパリ条約に調印(下関通航など協定、横浜鎖港断念)。横浜鎖港の非なることを判断して帰国したため、一行は知行削減・御役御免の上、蟄居となる。太一も免職閉門を命じられる。
   一行の様子は『夷狄の国へ:幕末遣外使節物語』尾佐竹猛著に詳しい。ちなみに、パリ万博派遣の徳川昭武一行についても記している。
   ベアト撮影のスフインクス前の侍姿使節一行の有名な写真がある。ただし、太一は写っていない。

 1867慶応3年正月、パリ万国博覧会。徳川昭武遣欧使節の随員、仏国公使館書記官として太一も随行。
   6月、坂本龍馬「船中八策」。
   10月、慶喜、大政奉還を上表。

 1868慶応4年/明治元年、王政復古の大号令。
   1月、鳥羽伏見の戦い。戊辰戦争起こる。
   3月、目付となり幕府瓦解の処理にあたったが、4月11日江戸開城とともに免職。
   徳川宗家は駿府に移封、静岡藩70万石となり、*沼津兵学校設立。

  けやきのブログⅡ<2018.9.8アラビアンナイト、海軍兵学校教官、永峰秀樹>

   12月23日、長女*竜子生まれる。長じて三宅雪嶺に嫁す。

 1869明治2年、*沼津兵学校の一等教授(『沼津兵学校と其人材』)。
 1870明治3年1月、れ外務少丞に任命される。
  ―――新政府は幕府の外交を引き継いだため人材を旧幕府の外交官僚に頼らざるを得ず、薩長政府を苦々しく思っていた太一のもとにも何度の使者が訪れ・・・・・(『明治時代史大辞典』)。
 1871明治4年5月、副島種臣の樺太境界談判のロシア、ポシェット湾への派遣に随行。
   11月、岩倉遣外使節に書記官長とし欧米に随行して各国を視察。
 1873明治6年9月、横浜帰着。

 1874明治7年8月、台湾問題交渉のため清国に赴く大久保利通・全権弁理大臣に随行。
   日清両国間互換条約調印に尽力、11月帰国。
 1876明治9年、梵語学者・南条文雄(ぶんゆう)
  ―――(南条文雄)オックスフォード大学留学。渡英について、旅行免状から途中の案内、着いてからの一切万端まで心配して呉れたのは田邊太一といふ人であつた。この人は旧幕臣で、当時外務省の大丞の官員であつた。東本願寺の檀家で、実に親切なひとであつた。・・・・・(『懐旧録』)。

 1877明治10年、外務大書記官。
 1881明治14年、清国臨時代理公使となる。
 1882明治15年9月、帰国。
 1883明治16年8月、勅任官。 9月、元老議官。

 1890明治23年、60歳。貴族院勅撰議員となる。
 1892明治25年、宮内省直属、幕末維新史料調査団体「史談会」特別会員となる。
   機関誌『詩談会速記録』は1938昭和13年まで続く。
 1897明治30年6月、「蓮翁往時談」(『旧幕府』第1巻3号)。 

 1898明治31年、史料価値の高い『幕末開港談』を冨山房から出版。のち訳本『幕末外交談』2巻が東洋文庫にある。
 1906明治39年5月、内山昮著『弓術新書』校閲。
 1907明治40年、「幕府時代外交実歴談」(『史談会速記録』167、168輯)。
 1909明治42年7月19日、妻の兄・*荒井郁之助(74歳没)の墓碑銘を記す。

  けやきのブログⅡ<2015.12.16長崎海軍伝習所・宮古湾海戦・中央気象台長、荒井郁之助>

 1911明治44年5月、文部省設置の維新史料編纂会委員。
   講演速記録「幕末の外交」が、国会図書館デジタルコレクションにある。
 ?年、元老院議官などを歴任。維新史料編纂委員。

 1915大正4年9月16日、東京赤阪新坂町の三宅雪嶺宅で死去。享年85。
   

   参考: 『明治時代史大辞典』2012吉川弘文館 / 『日本人名事典』1993三省堂 / 『沼津兵学校と其人材』1939著述出版大野虎雄 / 『懐旧録』南条文雄1927大雄閣 / 国会図書館デジタルコレクション

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