オランダ語と英語を駆使して活躍した幕末の通訳官、森山多吉郎(栄之助)
カルチャーおばさんの楽しみの一つが大学オープンカレッジ、受講すると図書館利用でき、それも愉しい。
ブログの毎週更新けっこう忙しい。近隣の図書館を利用し助かっているが蔵書に限りがある。その点、大学図書館は借りられないが種類・内容豊富で有難い。
先日、久しぶりに早大図書館を愉しんだ後、講座の教室に行こうとして大隈さんの銅像先の階段で? キャンパス案内を見ても分からない。ボンヤリしていると「僕、時間あります」と学生さん。声を掛けてくれたばかりか目的の館まで連れて行ってくれた。
親切な学生さんの商学部はむろん、どの学部も社会も英語・外国語は必須でしょう。言葉が分かれば世界が広がる。
自分は苦手だけど今や英語が堪能な人はけっこう居て、海外旅行、海外交流も珍しくない。
ところで鎖国日本の時代はオランダ・中国以外はお断り、漢語を使いこなせてもオランダ語を解する者は限られていた。
それでも、好むと好まざるに拘わらず英米人がやって来て英語が必須となった。
まずは、ペリーの黒船来航が有名だが、それより前に英語を習得した阿蘭陀通詞がいた。森山栄之助こと森山多吉郎である。ただ、事蹟の割に名が通っていない気がする。
幕府に仕えた通訳官とはいえ新政府にも有為の人材と思うが、明治政府に出仕しなかったせいもあるのかな。その森山多吉郎を見てみる。
森山 多吉郎 (栄之助)
1820文政3年、長崎の通詞の家に生まれる。
初名、栄之助。諱、憲直。号、茶山・子錦。
1848嘉永元年~1849嘉永2年、28歳~29歳。
蝦夷の利尻島で捕らえられ長崎へ連れて来られた偽装漂流のアメリカ人青年マクドナルドに、同僚の通詞らと共に英語を学んだ(英語を母国語とする者に学んだ最初である)。
けやきのブログⅡ<2023.10.28幕末、アメリカ人英語教師第一号 ラナルド・マクドナルド>
1850嘉永3年、30歳。幕命により西吉兵衛らと『エゲレス語辞書和解』編修に着手。
1851嘉永4年8月、『エゲレス語辞書和解』「A之第一」を脱稿。森山は職務が繁忙となり「B之第二」をもって辞書編集から手を引く。
―――東洋には古来自由の思想なし。故にこの思想東漸の際、之が訳字に苦しみたることは、吾人の想像以上にあり。・・・・・福澤諭吉氏「西洋事情」を著すに当り、初めて「自由」の文字を使用・・・・・但し加藤氏弘之説によれば、初めて自由の訳字を案出せるは、幕府の通事頭・森山多吉郎氏なりといふ。・・・・・(『穂積陳重遺文集4』)。
1853嘉永6年、33歳。ロシア使節のプチャーチンが長崎へ来航、折衝にあたる。
―――筒井肥後守、川路左衛門尉、水野筑後守など西役所において応接す時に多吉郎は訳官として彼我の間に重んぜられ・・・・・(『大礼記念長崎県人物伝』)。
1854安政元年、アメリカ使節ペリーとの条約交渉において主任通訳官を務める。
アメリカ総領事ハリスの応接通弁をし、「アメリカ使節応接記」を残している。
―――安政の各国条約文は、主として氏(森山)の筆に成りたるものなり。氏は学者に非ざりしが故に、別に纏まりたる欧文翻訳書を出さざりしも、日本の通俗文を以て欧文を翻訳したる手腕はなかなか及ぶべからざるものあり。英語のリバーチーに自由の二字を当てはめたるは氏にして、爾来一般に慣用せられて終に動かすべからざる普通語となれり・・・・・(『春汀文集』)。
1854~1859安政年間、森山は公務のかたわら江戸の小石川に英学塾を開く。
ここに*福地源一郎、*津田仙らが学び、福沢諭吉も2~3ヶ月通う。
福地源一郎(桜痴):政治評論家・岩倉使節団派遣の際に洋行。『東京日日新聞』主筆、政府支持の論陣を張る。
津田仙:啓蒙的農学者。津田梅子の父。蕃書調所・外国奉行に出仕。学農社設立。
1860万延元年、遣米使節団が携えた将軍からアメリカ大統領宛の英文書翰は森山の起草にかかる。
1861文久元年12月、開市開港延期のため竹内遣欧使節団一行40人、イギリス軍艦に便乗して欧州へ出発。しかし交渉の重要さに気づいた幕府は談判困難とみて、森山多吉郎に英国公使オールコックと同道してその後を追わせた。
森山の役名:年代未詳。通弁御用頭取・外国奉行支配通弁頭取・外国奉行通弁役頭取・外国奉行支配調役・兵庫奉行付組頭など。
1862文久2年、
―――江戸・大坂・兵庫・新潟の開港延期問題、唐太(カラフト)国境問題などに際し遣欧使節に随行して遠く英露の諸国に至り、終始幕府外交の事に与りて功労少なからず、就中唐太国境問題に関して・・・・・我が使節の主張したりし北緯五十度線境界論は和蘭出版地球図に依りしものにて実に多吉郎の発見せしものなり・・・・・(『大礼記念長崎県人物伝』)。
1月15日、坂下門外の変。老中・安藤信正水戸浪士に襲われ負傷。
―――安藤信正、実は負傷せるにも係わるず、苦痛を忍びて外国奉行支配通弁御用頭取森山多吉郎を枕頭に招き、口上を授けてオールコックと交渉せしめたのでオールコックも其の国事を念ふの厚きに感じ・・・・・できるだけ斡旋しよう・・・・・ オールコックは使節に訓令を要する事があらば予は伝達の労を辞せず、その訓令は書面を以てするよりも、寧ろ久しく外交の衝に当れる森山を派遣すべきであると云えるが為に、幕府また之に従ひ、森山をしてオールコックに随行せしむるに決した。かくてオールコックの一行は文久2年2月23日横浜を発し、5月上旬倫敦(ロンドン)に到達したのである。・・・・・(『幕末史概説』)。
12月16日、川路の「座右日記」
―――森山多吉郎 遠眼鏡をくれ候(『川路聖謨文書7』)。
川路聖謨:1801~1868。幕臣。勘定奉行兼海防掛として幕末の対外関係に当たる。ロシアとの条約応接に活躍。江戸開城の日にピストル自殺。
森山、外国奉行調役兼通詞方として幕府の遣欧使節、竹内保徳・松平・京極の一行に加わる。
1864元治元年、幕末に薩藩が密貿易を行っていたのは知られているが、幕府も海外貿易を開始していた。
―――幕府は健順丸(米船アルテヤ号)に山口挙直、森山多吉郎等を乗り込ませて、二月九日兵庫発。同月二十一日上海着、四月九日上海発、長崎を経由して七月十日品川に帰着した・・・・・(『現代史学大系 五』)。
1868明治元年、森山多吉郎は維新政府に仕えなかった。
英学塾の門人は前記のほか、須藤時一郎・富永冬樹・*沼守一などがいる。
沼守一:幕臣出身の政治家・言論人。嚶鳴社を主宰し民権思想普及に努める。
1871明治4年3月15日、死去。享年52。
参考:『長崎郷土誌』1918長崎市小学校職員会 / 『春汀文集』(時文叢書)1908隆文館 / 『幕末史概説』井野辺茂雄1927紀元社 / 『大礼記念長崎県人物伝』1919長崎県教育会 / 『穂積陳重遺文集4』1934岩波書店 / 『現代史学大系 五』1932共立社書店 / 『川路聖謨文書 7』藤井甚太郎1934日本史籍協会 / 国会図書館デジタルコレクション
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コメント
蘭通詞ふぁんさん
コメントありがとうござます。
お読みくださって、こちらこそ感謝です。
参考文献をも愉しむという知人がいますが、お役に立てれば幸いです。
参考文献から更に良い参考史料・書籍に行き当たるといいです。
投稿: 中井けやき | 2023年11月13日 (月) 21時32分
オランダ語通詞が海外からの情報を取り入れる窓口となり、その後、英語の通訳に移行していく幕末期は面白い。
参考文献が大変参考になります。感謝!
投稿: 蘭通詞ふぁん | 2023年11月 8日 (水) 17時35分