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2023年11月25日 (土)

自伝小説『次郎物語』・教育者・青年団運動の指導者、下村湖人

 先日、ウン十年前の卓球教室の先輩と久しぶりに電話。インターハイ経験もある先輩に「トシとった今が一番練習している」といったら感心していた。先輩はカラオケで忙しいとのこと。
 先輩に限らず上級はサッと辞める、試合に出続けるかの二通り。自分のような下手は辞めたり戻ったり、テキトーだからか続いてる。
 思えば、若い頃からノーテンキ。本さえ読めればよく悩みがあっても気が紛れた。深刻な事情を抱えていなかったしね。しかし、生まれや家の事情とか困難な境遇にあったら悩まずにいられない。そのうえ理不尽な出来事が重なれば悩みは深い。
 それでも、自らの困難をのりこえ小説など作品に昇華、人の扶けになる人物はいる。自伝的教養小説『次郎物語』を著した下村湖人もその一人と思う。

   ―――『ジャン・クリストフ』を書いた、ロマン・ロランを知っているでしょう。彼は、こういうことをいっています。 「シェークスピアでも、ベートーベンでも、トルストイでも・・・・・すべてわたしの精神を育ててくれた教師たちは、まさにわたしの魂がもっている地下の都の門を開く手びきをしてくれたのであった。」 『次郎物語』作者下村湖人、自身の「魂の地下の都」を開くことによって、またわたしたち多くの人びとの「魂の地下の都」をも、しぜんに開いてみせてくれて・・・・・(『下村湖人名作集』解説・福田清人)。

     下村 湖人(内田 虎六郎)

 1844明治17年10月3日、佐賀県神埼郡千歳村(千代田町)生まれ、名は虎六郎。
   父・内田郁二、母・つぎの次男。生後間もなく里子に出され4歳で実家に戻る。
 1889明治22年、家が貧しくなって父は郡役所に就職、神崎町に転居。
 1891明治24年、佐賀県神崎小学校入学。翌年、千歳小学校に転校。
 1894明治27年、日清戦争。10歳。
   母、結核で死去。家産いよいよ傾き、孤独な幼年時代を過ごす。
 1898明治31年、14歳。佐賀中学に入学。
 1899明治32年、家が倒産し家財を売り払い、佐賀市精町(しらげ)に転住。

 1901明治34年、17歳。内田夕闇(ゆうやみ)の筆名で東京の雑誌「新声」「文庫」「明星」に詩歌の投稿を始める。
 1902明治35年、校友会雑誌「栄城」の編集委員。
   父が千歳村の家を売り払い熊本市で酒屋を開くが失敗、翌年千歳村に帰る。
 1903明治36年、熊本第五高等学校入学。
   ―――のち、その長女(下村菊千代)と結婚する事になる貴族院議員・下村辰右衛門に学資の援助を受ける。
 1904明治37年、20歳。日露戦争。

 1905明治38年、*厨川白村・五高教授宅をたびたび訪問。
   厨川白村:英文学者。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)に学ぶ。巾広い分野で活躍。

 1906明治39年、22歳。東京帝国大学入学。英文学を専攻。
 1907明治40年、「生い立ちの記」のちの「次郎物語」を執筆するも中断。
 1909明治42年7月、東京帝国大学卒業。
   自然主義文学に飽き足らず反論、「全自然文学論」を発表。*岩野泡鳴と論争。
   岩野泡鳴:小説家・評論家。ロマン主義から自然主義に転じ、私小説に至る。

 1911明治44年、上京を断念、佐賀中学校に就職。

 1913大正2年、29歳。下村菊千代と結婚。下村家に入籍、内田から下村になる。
 1914大正3年、実父(郁二)病死。
 1918大正7年、34歳。佐賀県唐津中学教頭。
 1921大正10年、鹿島中学校校歌作詞
 1923大正12年、唐津中学校長。のち校歌作詞
 1925大正14年、41歳。台湾総督府台中第一中学校長となる。
   台湾:日清戦争後、日本は台湾総督府を中心に殖民地統治を推進。第二次世界大戦後、中国に返還。

 1929昭和4年、台北高等学校長。
 1931昭和6年、辞任して上京。東京都新宿区百人町に移る。
   熊本五校以来の友人・田沢義鋪(佐賀県)に協力して青年団運動に入る。
 1932昭和7年、48歳。筆名を「虎人」から「湖人」に改める。
 1933昭和8年、歌集『冬青葉』『人生を語る』出版。
   4月、中堅人物育成を目標「大日本連合青年団講習所長」になる。
   ―――そこでは学校とはちがう友情に出発した相互教育がめざされ、生活に根づいた知識のうえに立つ自治的な共同組織が構想された・・・・・(『民間学事典』)。
 1934昭和9年、『教育的反省』『凡人道』ほか出版。

 1936昭和11年1月、「次郎物語」を「青年」に連載。翌年、連載中止。
   このころから日本はきびしい軍国主義の思想が濃くなり、湖人の自由的な考えによる作品は中止を余儀なくされる。

 1937昭和12年、青年団講習所長をやめ、文筆生活に入る。
   ―――こんなしつけの悪い子どもうぃ描くとは非教育的で自由主義的だという非難に抗し自伝小説『次郎物語』を書きつぐ一方、翼賛会にのっとられた青年団・壮年団の初心をわずかでも生かすべく「煙仲間」という名のサークル運動の組織者として各地を奔走した・・・・・(『民間学事典』)。

 1938昭和13年12月、『論語物語』出版。
   ―――(湖人の序文) 論語は「天の書」であるとともに「地の書」である。孔子は一生こつこつと地上を歩きながら、天のことばを語るようになった人なのである。・・・・・彼の門人たちも、彼にならって天のことばを語ろうとした・・・・・けっきょく地のことばしか語ることができなかった。・・・・・われわれは孔子の天のことばによって教えられるとともに、彼らの地のことばによって反省させられるところが非常に多い。

 1941昭和16年、57歳。『次郎物語』出版。7月、ラジオ小説「次郎物語」放送。
   12月、映画「次郎物語」上映。
 1942昭和17年、『佐藤信渕』『続次郎物語』出版。
 1945昭和20年5月、61歳。震災にあい家屋・家財・蔵書を失う。
   8月、敗戦。9月2日、降伏文書調印。
   9月、妻菊千代、病死。

 1948昭和23年、「次郎物語第四部」連載はじめる。
   翼賛体制に吸収された文化運動の再建をめざして個人雑誌『新風土』創刊。
  ―――そこでは「軽薄な自由主義」の流行をにらみながら、伝統と歴史の上にたち、人類意志の流れにそった「道義と平和とに徹したる文化国家の建設」が掲げられ、家庭と職場と郷土を統一的に視野に入れながら、日々の日常的任務の実践に励むことが主張された・・・・・(安田常雄『民間学事典』)。

 1954昭和29年、『次郎物語第五部』出版。 この人を見よ『*田沢義鋪』書き終える。
   田沢義鋪(よしはる):大正・昭和期の官僚。社会運動家。日本青年の父。
  ―――明治以後で真に尊敬に値する人を・・・・・三人あげよと言われるならば、私(湖人)はちゅうちょすることなく、福澤諭吉と*新渡戸稲造とこの書の主人公である田沢義鋪をあげるだろう・・・・・彼の人としての誠実さ、何らの邪念を交えず醇乎として信念をつらぬいた生涯、毅然たる清節、私は百代にわたって、あえて『この人を見よ』といいたい。・・・・・(『論語物語』解説・加藤善徳)。
   11月、豊島区池袋病院に入院。

けやきのブログⅡ<2015.4.11 札幌遠友夜学校(新渡戸稲造)と有島武郎(北海道)>

 1955昭和30年4月20日、脳軟化症・老衰で死去。享年71。
  大いなる道というもの世にありと 思う心はいまだも消えず
  ―――これは湖人満七〇の誕生日の歌である。・・・・・親友田沢義鋪の生涯を書き終わって、この世を去った。戦中は自由主義を唱え、戦後は道義を主張しつづけ、つねに時流の批判者であった。自らは作家と呼ばれて苦笑する一教育家であった・・・・・(加藤善徳『論語物語』)。

 

   参考: 『論語物語』下村湖人1967旺文社 / 『民間学事典』1997三省堂 / 『近現代史用語事典』安岡昭男1992新人物往来社 / 現代日本文学全集12『下村湖人名作集』1978偕成社 

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