旭川いろいろ、北海道旭川偕行社・宮沢賢治・三浦綾子
テレビや様々な媒体でニュースは無論、大小様々な事が見られるが、アナログ人間には慌ただしい。紙の新聞が好き。
日曜版のエッセイや地方の名所なども興味深い。 先だっては <レトロの美>に「北海道旧旭川偕行社」(毎日新聞2023.12.7)が載っていた。
その「旧旭川*偕行社」写真をみると、雪が少し積もった白い地面、灯りのともった左右対称の白壁のコロニアル様式の2階建て、雰囲気がある。
もともとは旧陸軍第七*師団が旭川に設営され、その将校らの社交場として建設された。今は中原悌二郎記念旭川彫刻美術館になっている。
その近くにかつて偕行社付属の北鎮小学校(のち旭川市立)があり、将校の子弟が学んでいたという。
師団:陸軍の平時の部隊編成のおける最大戦略単位。独立して作戦遂行する戦略単位。
偕行社:1887明治10年、陸軍将校の修養を目的として生まれた組織。当初は自由加入であったが、のち、入会が強制されるようになった。
旭川偕行社:陸軍第七師団の将校たちの社交場、会議場、宴会場、宿泊所として使用された。陸軍軍医総監・森鷗外や皇太子時代の大正天皇の御座所としても使用された。
そこで旧陸軍第七師団や旭川の明治を見てみる。それと、旭川といえば『氷点』三浦綾子が有名、宮沢賢治の『旭川』もあるし、例によって纏まりがないがあれこれ見てみる。
北緯四十四度に位置する旭川
―――四囲が山に囲まれていて、七、八月は高温で三十度を超える日もある。この高温と大雪の峰々から残雪が解けて流れてくる水の恩恵によって、日本でも有数の米作地帯となっている。逆に冬は、アジア大陸から吹き付ける寒気によって厳寒の地となる。 三浦綾子は・・・・・「十月の下旬ともなれば初雪が降り、四月にはいってもなお雪のふる旭川の長い夜だ。わたしが少女のころ、目がさめると、掛蒲団の襟が、吐く息で真っ白く凍っていることがよくあった。・・・・・しばれる日には、樹々に樹氷が見事である・・・・・(『三浦綾子の世界』)。
1886明治19年1月、北海道庁設置。当時は岩見沢までしか道路がなかった。
1887明治20年、市来知(樺戸)から忠別太(旭川)への本道路の開削はじまり2年後に完成。
道路の開削には囚人が使役された。
1889明治22年、帝国憲法発布。
上川離宮の造営(天皇の別荘づくり)の条件整備が具体化、上川開発が図られる。
上川道路開通。
―――中央道路(上川道路・北見道路、岩見沢-旭川-網走間)の建設に樺戸・空知・網走の囚徒が使役され・・・・・昼夜兼行の苛酷な重労働と医療・衛生上の悪条件が重なり、九一年秋の数ヶ月間だけで二百人以上の死者をだした。
1890明治23年、上川郡に旭川村・神居村・永山村の三村設置されるが、当時は先住のアイヌ民俗が居住するのみであった。
1891明治24年~25年にかけて屯田兵が入植。
屯田兵:明治期、北海道に配備された兼農兵士。士族授産の一環として、北海道防衛と開拓目的に制定、明治22年以後は旭川周辺に配置。翌年から平民も参加。
―――和人入植前、上川には先住民は三グループあり、それぞれのグループは百人ほど・・・・・上川アイヌもまた狩猟や漁労を中心として生活していた。そこに四兵村八百戸が入植・・・・・またたく間に先住民と入植者の人口比が逆転・・・・・(『第七師団と戦争の時代』)。
―――屯田兵屋の建設は、滝川・永山(現旭川市)・旭川(現旭川市東旭川)・太田(現厚岸町)兵村で千百戸以上に達している(『北海道の歴史・下』)。
―――当時の兵村は、うっそうたる大森林で、日中もうす暗く、たけ四~五尺(120~150センチメートル)もある熊笹が生い茂り、兵屋の所在さえ見ることができなかった。路傍の立木に兵屋番号札が打ちつけてあるのを見つけて、熊笹や雑木をかきわけて兵屋に入った。・・・・・(『北海道 屯田兵絵物語』)。
1892明治25年、神居村第一市街地と旭川村第三市街地に七六一戸の貸し下げ実施・・・・・抽選で入地者が決定
1893明治26年、旭川に戸長役場新設。
1894明治27年8月、日清戦争。
―――日清戦争の折に屯田兵から編成された臨時第七師団の兵営は、もともと月寒にあった。その後、北海道の中央に新たな「軍都」がつくられた。それが旭川である。そこに、第七師団の司令部と三個の歩兵聯隊がうつった。・・・・・(『第七師団と戦争の時代』)。
1895明治28年、帝室御料局札幌支庁上川出張所(現旭川営林局)、神楽村の御料地の経営にあたる。
1896明治29年、第七師団誕生、月寒を衛戌地とする。
札幌にあった屯田司令部が第七師団司令部となる。
1898明治31年、官設鉄道・上川線が全通。鉄道網が旭川まで延長される。
1899明治32年、第七師団の旭川移駐にともなう師団建設工事始まる。
―――用地は広大な約540万坪。そこに歩兵聯隊三個(26・27.28)と騎兵、工兵、野戦砲兵、輜重兵がそれぞれ一個連隊、師団司令部、病院、監獄、憲兵隊、兵器廠、官舎と火力発電所。練兵場・演習場も・・・・・このように大規模な軍団が一ヶ所に集中して存在するのは日本だけでなく、世界でもまれなことで・・・・・第七師団の総工費は起工からの四年で、約三百三十万円にのぼった。新聞で不正疑惑が報じられ・・・・・資材に工事といくつもの問題が・・・・・事件はうやむやのうちに葬り去られた。・・・・・(『第七師団と戦争の時代』)
2月、旭川最初の病院、博愛堂竹村病院開業。
10月、北海道貯蓄銀行上川支店開業。
1900明治33年、旭川村から旭川町に改称。
旭川の市街は忠別川と石狩川の合流点に発達した。
1901明治34年9月、糸屋銀行旭川支店開業。
1902明治35年、旭川市街の現住人口16.441人に達し、箱館区・札幌区などに次ぐ道内5番目の都市に成長(『北海道の歴史・下』)。
1902明治35年、陸軍第七師団、旭川に設営される。
1904明治37年2月、日露戦争始まる。
1905明治38年、北海旭新聞社・上川新聞社 ・旭川商業新聞社・旭川商業新聞社。
1922大正11年4月20日、三浦綾子、旭川で生まれる。
1923大正12年8月2日、宮沢賢治は当時軍都だった旭川を訪れる。
―――前年に妹トシを亡くし、悲しみを抱いた旅であり、賢治が教えていた岩手県の花巻農学校お生徒たちに就職先を探すため、樺太へ向かう途中の旅でもありました。・・・・・(『宮沢賢治「旭川。」より』)
旭 川 宮沢賢治
殖民地風のこんな小馬車に 朝はやくひとり乗ることのたのしさ
「農事試験場まで行って下さい。」 「六條の十三丁目だ。」
馬の鈴は鳴り馭者は口を鳴らす 黒布はゆれるしまるで十月の風だ。
厠馬をひく騎馬従卒のむれ、 この偶然の馬はハックニー
たてがみは火のようにゆれる。
・・・・・(中略)・・・・・
おお落葉松 落葉松 それから青く顫(ふる)えるポプリス
この辺に来て大へん立派にやってゐる 殖民地風の官舎の一ならびや旭川中学校
馬車の屋根は黄と赤の縞で もうほんたうにジプシーらしく
こんな馬車を 誰がほしくないと云はうか。・・・・・(後略)
三浦 綾子
1946昭和21年、24歳。
3月、太平洋戦争敗戦までの国家の欺瞞や教育の過ちに気づき、小学校教員を退職。
6月、肺結核を発病、後脊椎カリエスを併発し、以後13年間闘病生活を送る。
1964昭和39年1月、朝日新聞大阪本社創刊八十五周年、東京本社の創刊七十五周年を記念して企画された「一千万円懸賞小説」に三浦綾子当選。
―――突如、新星のごとく現れた『氷点』が・・・・・全国の読者を沸騰させたのであった。・・・・・映画化、そしてテレビでの数度にもおよぶ放映となった。・・・・・三浦綾子には、作家としての天性と、十三年にもわたる青春を犠牲にした闘病生活のなかに"三浦文学の秘訣"が結晶していた。・・・・・三浦綾子の作品の多くは、旭川が舞台となっている。・・・・・(『三浦綾子の世界』)
参考: 『北海道の歴史 下』2006北海道新聞社/ 『第七師団と戦争の時代』渡邊浩平2021白水社 / 『宮沢賢治「旭川。」より』あべ弘士2015BL出版 / 『北海度建築物大図鑑』本久公洋2020北海道新聞社 / 『三浦綾子の世界』金巻鎮雄1984(旭川文庫6)総北海 / 『最近旭川案内』槇鉄男1905上條虎之助 / 『北海道 屯田兵絵物語』金巻鎮雄1982(旭川文庫2)総北海 / 『近現代史用語事典』安岡昭男1992新人物往来社
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